『君に叱られた』感想戦

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「アイドルの可能性を考える 第六回」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。門脇実優菜推し。

今回の記事は、アイドルについて語る為に集まった座談会ではなく、いつものように4人で演劇や小説について話しているなかでアイドルの話題が出た箇所の抜粋になります。

 

「『ってか』のタイトルについて」

楠木:保坂和志も『小説の自由』の中で言っているけれど、書きながら考えるっていうのは当たり前で、僕も、書く=考えるってタイプなので書きはじめた段階ではまだ答えのようなものは持っていない。イメージの準備はほとんどない。だからタイトルはあと付けになることがほとんどですね。
OLE:リリー・フランキーなんか一度書いたらもう変えないって断言してる。
楠木:一方で散文ではなく詩を書く場合、これはタイトルが先になることが多いんでしょうね。シャルル・モーラスとか。ユゴーもそうかもしれない。
横森:秋元康は?
楠木:秋元康もタイトルを先に決めているんじゃないかな。「紙飛行機」という小道具を用意して詩を書くわけでしょう。まあ詩情=構想の段階でぼんやりとしたものはあるんだろうけど、詩作にあたって「紙飛行機」がまず用意され置かれるのは間違いないよね。もちろんタイトルを後に付けることもあるだろうし、どれが良いとかそういう話ではないけど。
OLE:『ってか』はあと付けだよね。
楠木:そうですね。詩情の構想後、さらには詩作後に抜き出して調整しただけに感じます。詩は、あてこすりが簡単なので(笑)。なにやっても意味があるように見せられるわけです。だからこそ自分に真摯になる必要があるんだけど。『君しか勝たん』も構想後に用意したタイトルだろうけど、これはクリシェですよね。『ってか』はクリシェになりようがないので、そういう意味では無謀にも見える。プラクティスがないですよねこれ。
横森:センスがないよ、これは。
楠木:秋元康の場合、センスが良いタイトルがあらわれるときって、あと付けじゃなくて先にタイトルをノートに記すときなんだろうね。『帰り道は遠回りしたくなる』とか『つづく』とか。あと『あらかじめ語られるロマンス』『キャラバンは眠らない』も良いよね。タイトルが先に作られる、という場合、要するに頭のなかにある程度イメージが作られていてそれを詩情にかえていくんだね。
OLE:アイドルへの”あてがき”の見え方はこの話題に左右されるんだよ。書きながら考えるってのは、書きながら「アイドル」が込められていくわけね。逆にタイトルが先の場合は最初から「アイドル」がイメージとしてあるわけだから、最初から見えるんだよね詩の中にアイドルが。
楠木:だから『10月のプールに飛び込んだ』は不気味なんですよね。タイトルが先か後か、わからない。小説というのは詩の批評なので、秋元康が散文っぽいことを詩作の中でやっているのはおもしろい。自己批評をやっている。ひとりぼっち、に見える。それが『10月のプールに飛び込んだ』にはよくあらわれてる。平手友梨奈を通して自分を語っている、というか、自分に向けて矢を放っている。傑作ですね。

「今やるなら映画批評?」

横森:西野七瀬が最近やった映画、河野真理江っていう映画評論家が西野七瀬にダメ出ししたらしい。
OLE:その人のことよく知らないけど、でも勇気いるでしょ、おばさんがアイドル出身の女優にケチつけるってさ。嫉妬とおもわれちゃうからね。でもどうしても言いたかったんだ、勇気あるよ。
楠木:批評というのはクリティックとレビューがあって、日本の批評の主流はクリティックだ、と福田和也だったか柄谷行人だったか、言っていた。でも今はレビューが主力なんだろうね。amazonの商品のレビューとか、あれも批評だから。この河野って人もあれと同じ大衆レビュアーだよね。こういうレビューって稼げるのかな。
OLE:レビューだと「である」が使えないんじゃない?ダサくみえるから。だからレビューって文章を作ることがむずかしいんだね。
楠木:ジャンルとして「批評」を名乗れるけどフィクションではないですよね。でも批評を書いてお金を稼げるならそれが一番だから。映画の批評って何本かやったことあるけど、これがもうまったくお金にならなくてね、やめちゃったな、僕は。
島:楠木さんに映画の批評をお願いしたところ、なぜかオルハン・パムクの『雪』の批評が送られてきて、特集を組み替えたことがあります(笑)。
楠木:まあ自分を売り込むのに必死だからね。なにができる人間なのか、そこをわかってもらうしかない。
OLE:女性でレビューやっていて、才能がある書き手というと岩城京子さんなんだろうね。レビューでもちゃんと文章を書いてる。
楠木:僕はかなり尊敬している、岩城京子さん。やっぱり真似してみて、これは真似できるものじゃないぞって感じさせる作家って尊敬してしまうよね。クリティックで言えば小林秀雄、福田和也。僕はどんどん真似を試みているけれど、真似すればするほど距離を感じる。でも真似しなきゃはじまらないからね。岩城京子さんの文章は若い人、とくに演劇で批評やるなら絶対に真似すべきだろうね。レトリックに溺れているのに口語なんだよね。バランスがすごく良い。なによりも役者と共に闘おうとしているでしょう、文章で。真似できるものじゃないけど、真似すべきだね。
横森:映画の批評家って大したのがいないでしょ。批評家と呼べるようなさ、真面目なのが一人もいない。「Rotten Tomatoes」みたいなのにやられちゃうからだろうな。ああいうのに太刀打ちできないから個人でやろうとするやつが出てこない。
楠木:それが正しいならチャンスだろうね。真剣な批評家がいないならそれを名乗ってしまえばいい。サイトなんて簡単に作れる時代だから。あとはとにかく書き続けることだね。続ければちゃんと読者は付いてくれるよ。

「『君に叱られた』は傑作」

島:映画とはまた話がズレますけど「映像作家100人」というサイト、知っていますか。
楠木:良いですよねこれ。
横森:アイドルの作品も結構あるんだね。
OLE:牧野惇とかも載ってる。
島:これを眺めるっていうのはアイドルの運営陣の目線に立つ、ということなんですよね。だからおもしろそうだなあと。
横森:こういうのを見て、選んでいるのかもね。
楠木:これとは直接関係ないけど、『君に叱られた』のミュージックビデオは素晴らしかったね。
横森:ラジオで聴いたときは全然ダメだとおもったけどね。短期間でここまで印象が変わる曲もめずらしいでしょ。
島:ミュージックビデオの完成度が高いおかげですよきっと。
楠木:いやいや、楽曲もかなり良いですよ。ミュージックビデオがなくても一級品。物語がちゃんとある。作曲家に才能がある。
OLE:王道だね。でも王道だけどだれもやらなかったことをちゃんとやってる。楽曲と映像作品のどちらもね。でも正直、自分のなかでは、ミュージックビデオを観て楽曲の評価が一変したことは間違いないかな。
楠木:賀喜遥香=シンデレラって言われてみればそのとおりなんだけど、目の前に当たり前に転がっている光景に気づけなかった、みたいな、ガツンとやられた感じです。
OLE:知っていたはずなのに、イメージとして持っていたはずなのに、具体的に言語化できていなかったものがはっきりと組み立てられたからカタルシスがあるんだろうね。
楠木:王道とオーソドックスをしっかり連結させている。
横森:でもこれが作られる前に、あなた、ブログ(アイドルの値打ち)で賀喜遥香に『大いなる遺産』を引用してたでしょ。シンデレラと同じことを言っていたわけだから、俺はそっちのほうに驚くけど(笑)。
楠木:『大いなる遺産』を引用したときにシンデレラはイメージしてなかったからね。そこで負けた、とおもった(笑)。そうかシンデレラがあったか、と。
島:僕もこの作品はすごく良いと思います。しっかりとアイドルと仕事しているな、と感じました。齋藤飛鳥さんの演技が良いですよね。演技というか存在感ですか。齋藤飛鳥というのはアイドルを志す少女にとって憧れの存在ですよねきっと。その齋藤飛鳥が女王様として登場して、その女王様の手によってステージの上に引き寄せられる。真っ赤なカーペットが敷かれた舞台に立つ。同じ物語のなかに連れられて行く。映像作家が現代のシンデレラストーリーと言っているけれど、本当にそのとおりだと思います。
楠木:アイドルの価値をしっかり理解して、それを打ち出して、さらに価値そのものを押し上げているんだよね。こういう作り手がシーンに関わっているうちはまだまだやれるでしょう、アイドルも。この作品を観た少女が、自分もこの輪のなかに入りたい、とそう思えるような作品に仕上がっている。
島:相乗効果ということなら歌詞の価値もぐんぐん上がっているように感じます。当たり前すぎて気づかなかった、ってお見事と言うしかない(笑)。
楠木:そのとおりです。この歌を語るとき、自然と歌詞のストーリーをなぞってしまうんですね。平凡とか王道とか、なにを言っても全部歌詞に迎撃されるし、その迎撃の原動がセンターの賀喜遥香におもえるという。
OLE:これを聴いて思ったのは、たとえば筒井あやめのセンター曲として出していたら、どうだろう、って。簡単にキャラが付くよねきっと。
島:イメージはしやすいですね。
楠木:この歌詞が良いのは主人公が移動しているところですよ。詩がちゃんと運動・呼吸している。秋元康の主人公ってとにかく移動しない。横断歩道の前で信号機を眺めていたり、グラウンドの端で座って青空を眺めていたり、蛇口からこぼれ落ちる水を眺めてたり、電車に揺られたり、移動をしないんですね主人公が。随想、つまり青春の反復をするというのは乱暴に云えば過去を思い出してそれを物語化している。だから性質として移動がないわけです。それが今回は移動している。そういう意味ではやはり筒井あやめではなく賀喜遥香だとおもいます。
OLE:君しか勝たん』の「僕」だよねこれは。
楠木:現在の「彼女」の横顔を眺めることによって過去の「君」のやさしさ・愛に想到するという点では『君しか勝たん』とか『後悔ばっかり』とおなじだけれど、『君に叱られた』は過去の「君」のやさしさ・愛に気づくことでいま目の前にいる彼女への愛を知る物語ですよね。これまで繰り返し、青春の反復として思い出の「彼女」を語ってきた。今回も思い出の「彼女」にかわりはないんだけど、今回の「彼女」というのは、これまでに青春の反復によって描き出してきた過去の恋人へ悔悟させる動機、きっかけをあたえる存在として登場している。主人公にとっての「君」が二人いるわけです。いま目の前にいる彼女に叱られたことでこれまで自分がいかに自分勝手にふるまっていたか、気づかされた。自分のわがままを許容し続けてくれた過去の恋人のやさしさ・愛を発見した。しかしそこで過去の恋人を想う=君しか勝たんと唱えるのではなく、過去の恋人との思い出のなかに本当の愛が落ちていることを知ると同時に、その愛の深さを自分が知ることができたのはほかでもない、いま目の前にいる「君」のおかげだと知り、愕然とする。矛盾に引き裂かれるわけです、「僕」が。自分がずっと同じ場所にただよっていたことに、「君」に叱られたことで気づく。「僕」が愛すのは、これまでどおり過去の「君」、ではなく、いま目の前に立つ「君」だ、という活力=移動が描かれているわけです。もちろんこの「移動」というのは、これは安直な読み方だけれど、グループアイドルの移動、つまり「世代交代」にかさねることができる。

 

2021/09/18  楠木

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