欅坂46 10月のプールに飛び込んだ 評価

楽曲, 欅坂46

(C)永遠より長い一瞬 ジャケット写真

「10月のプールに飛び込んだ」

楽曲について、

欅坂46の岐路あるいは集大成を決定づけた楽曲であり、圧倒的な一人の主人公の喪失という出来事があらかじめ楽曲世界において表現されていたという、ある種の迎撃と宿命を描いた未完の傑作。永遠に完成されない作品という意味では、今日のアイドルシーンを象徴するだけでなく「アイドル」そのものを表現しており、尽きることのない希求をそなえている。あらゆる季節をまたいで、繰り返し聴かれる歌だと感じる。

歌詞について、

アイドルを演じる少女だけではなく、ファンをつよくみつめた詩情だと感じる。グループが掲げたコンセプトに徹底している。しつこい、と呆れかえるほどに。
今作では、社会的な定形と自己の枠組をつらぬくための”アイデア”として、10月のよく晴れた日に、フェンスを乗りこえ、プールに飛び込み、冷たい水の中を泳ぐ、といった物語が準備されている。青空を見上げたときの、なにかをしなくてはいけない、といった抑えきれない衝動を、定形から脱しようともだえる若者のイノセンス、一度通り過ぎてしまったら二度とおなじ場所には戻れない青春の匂いへとうまく通い合わせており、舌を巻くものがある。『二人セゾン』を想起させる、季節の記憶となりえるようなメロディのなかで、10月のよく晴れた青空の下に立つような澄んだ心地よさのなかで、しかし「僕」は、季節に囚われたくない、と叫ぶ。青の時代特有の反動を上手に表現できている。学校のプール、この舞台から郷愁を感じることもできる。
と同時に、やはり、どうしても、表現が幼稚だと感じてしまう。アイドルとそのファンを子供扱いしている、という感慨を抱いてしまう。だが、今作に限って云えば、この「幼稚さ」に豊穣なフィクションへの入り口が用意されている。

『サイレントマジョリティー』以降、一貫して提示されつづけてきたテーマに、アイドルとファンの双方があれだけ没入した欅坂46の世界観に、今作においては、幼稚さを覗く。それは”君”が成長してしまったからだ。

10月のプールで泳ぐ「僕」のことを、教室の窓から騒ぎながら眺めるクラスメイト。その「教室」が『黒い羊』で描かれた「教室」ならば、今作と『黒い羊』の連なりは、まさしく散文である。
今作には啓蒙が一切記されていない。『サイレントマジョリティー』からはじまり、数多くの楽曲のなかに記された、アイドルを演じる少女へ向けた啓蒙が『10月のプールに飛び込んだ』にはない。今作にあるのは作詞家による啓蒙ではなく、願望である。
今作品において構築された詩的世界は、一見すると、『サイレントマジョリティー』や『エキセントリック』で確立させた、自己の枠組みを壊せ、と投げかけるメッセージを、作詞家・秋元康の視点ではなく、ショートショートを語る行為によって伝えようと試みた、そのようにうかがえる。つまり、これまでと変わらない啓蒙にみえる。だがそれは作詞家の思惟に寄り添った都合の良い解釈だろう。
『サイレントマジョリティー』『不協和音』『エキセントリック』を通過し、『黒い羊』にたどり着いた少女たち。彼女たちなら、きっと、この『10月のプールに飛び込んだ』の「僕」に自己を投影するはずだ、楽曲に感化されたアイドルを作るはずだ、夢をみるはずだ、とする希求、これは願望でしかない。なぜなら、こうした物語化への希求とは、アイドルを演じる少女の身体的な、あるいは精神的な成長をまったく無視した、ある種のアーティスティックな要望であり、少女の「現実」としての分水嶺を決定的に超えてしまっているからだ。だが、この限りなく妄執に近い願望を持ってでしか散文=アイドルの物語化を成り立たせることができない、という情況に作詞家が置かれているのもたしかなようだ。

とにかく移動をしない「僕」、校庭の片隅で蛇口から流れ落ちる水を眺めているだけの「僕」、列車に揺られ感傷に浸るだけの「僕」を、これまでに倦むほどに描いてきた作詞家・秋元康。しかし今作では、前作『黒い羊』で描いた狭くて暗い教室から「移動」している。なおかつ、フェンスを乗りこえ、プールに飛び込むという「行動」すら起こしている。それも、ずぶ濡れになったまま中指を立てて叫ぶ主人公の横顔に重なるのは、今楽曲の制作を機にグループから去った平手友梨奈である。「アイドル」への招待状のような物語を書くも、しかしその本来の企図を忘失させる、グループを去って行く平手友梨奈の横顔がすでに詩に書かれていた、という感慨を強く抱かせる。それはやはり登場人物が移動している=生命力をもつからだ。
プールに飛び込む主人公を教室の窓から嘲笑いながら眺めるクラスメイト、かれら彼女らを、平手友梨奈という存在に揶揄を飛ばしつづけるアイドルファンへと重ねるのはあまりにも安易かもしれない。しかし『黒い羊』で展開されたモノローグが、『10月のプールに飛び込んだ』によって行動に移され、平手友梨奈と大衆、この構図が完成した。そこには、たしかな批評性、フィクション=物語をみる。つまり散文の成立をみる。啓蒙の枠組みのなかで立ちすくんでいた登場人物が、今作では、文字通り、フェンスを乗りこえ、作詞家の手から放たれ、あるいは逃亡し、つよく呼吸しているのだ。

「校庭 眺めながら いいこと思いついた」

作詞家・秋元康から提示される詩情と対峙しそれを徹底的に演じてきた平手友梨奈。アイドルを演じる、アイドルを作る、これは要するにもうひとりの自分を作り上げる行為であり、当然それは「自分」そのものでもある。『10月のプールに飛び込んだ』において、唐突にその「自分」が詩に書かれてしまった。仮想への没入が殺がれ、ハッと現実に引き戻されてしまうような臆面もない物語が書かれてしまった。だから、少女にしてみればそれはあからさまに過ぎ、とてもじゃないが演じられないわけである。
人は図星を突かれたら戸惑うし反抗したくなる。そもそもこれまでに演じ作り上げてきた偶像を劇中においても演じるということに一体どのような意味があるのか、またどのような事態を引き起こすのか、秋元康という無垢な人には想像できないのではないか、という反動が少女に宿ったのではないか。
さらに云えば、今作の歌詞に書かれた主人公を演じるということは、つまりプールに飛び込む=定形を脱するということだから、平手友梨奈が楽曲を演じる行為に拒絶を示したことは、楽曲を演じきったことにほかならないわけである。そうした倒錯をまえに作り手連中がたじろいだであろう光景は容易に想像できる。自分ではない何者か、を演じる少女の精神性の高さを前に反論を準備するなど、とてもできないだろう。

つまり、『10月のプールに飛び込んだ』が幼稚に感じるのは、楽曲がアイドルやファンの成長から置き去りにされてしまっている、と感じるのは、物語が完成し、ひとつの結末を迎えたからである。そしてその結末をあろうことか作品に仕上げてしまったからである。
『サイレントマジョリティー』で伝えた胎動が、今作をもって、「僕」がフェンスを乗りこえたことで、実った。だから、作り手から提出されたフィクション、その完結性の高さゆえに、楽曲を演じるアイドルは、楽曲の内に描かれた登場人物の思考、思想が自分の作るアイドルの所有物だとファンに勘違いされるのではないか、と不安になるのだ。またそれは、プールに飛び込んだ少女だけでなく、それを眺めるアイドルたちも変わらない。彼女たちはステージの上で楽曲を演じる行為に対し恥を自覚してしまう。アイドルがどうしようもなく格好悪いものに成り下がってしまう。つまり青春が終わってしまう。当然、それはアイドルのことを仔細に眺めるファンにも感染し広がっていくわけだ。

もちろん、ここを後戻り不可能な地点と捉え、前に向き直る覚悟の姿勢を提示した、という意味では、欅坂46というアイドルグループにとって『10月のプールに飛び込んだ』は文句なしの集大成と呼べるはずだ。もう彼女たちは、いや、わたしたちはあの頃には戻れないのだから。

 

総合評価 91点

アイドル史に銘記されるべき作品

(評価内訳)

楽曲 19点 歌詞 19点

ボーカル 18点 ライブ・映像 16点

情動感染 19点

引用:見出し 秋元康/10月のプールに飛び込んだ

歌唱メンバー:上村莉菜、小林由依、佐藤詩織、菅井友香、土生瑞穂、原田葵、守屋茜、渡辺梨加、渡邉理佐、井上梨名、関有美子、武元唯衣、田村保乃、藤吉夏鈴、松田里奈、森田ひかる

作詞:秋元康 作曲:BASEMINT 編曲:BASEMINT

2021/08/10 再評価・加筆しました

   

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