乃木坂の新主人公・新センター 井上和の誕生の胎動

乃木坂46, 座談会

井上和(C)日刊スポーツ

「アイドルの可能性を考える 第二十三回 井上和 編」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回は、乃木坂46の5期生・井上和を文学に結びつけ、語った。

「君は自分がどんな物語の上に立っているのか、知っているかな」

島:今回は、楠木さんがジッド『狭き門』、OLEさんが奥泉光『バナールな現象』、横森さんが星野智幸『目覚めよと人魚は歌う』、僕がオルハン・パムク『わたしの名は紅』。
OLE:俺は星野智幸という作家の名を今日はじめて知った。
楠木:僕も似たようなもので、三島由紀夫賞受賞作ということは過去に絶対に読んでいるはずだけど、タイトルも内容もまったく覚えていません。まあこれまでに読んだ小説のなかでタイトルと内容を覚えているものの方がはるかに少ないんだけど。『バナールな現象』や『わたしの名は紅』はさすがに覚えているけど。
横森:だってこれ、貴方の家の本棚から引っ張り出してきたやつだよ(笑)。
OLE:壮観だよね。小説、哲学、批評に限って言えばその辺の図書館より揃ってるよ。ちょっとした本棚劇場だよあれはもう。
横森:元々はボンボンだからね。全部FXですっちゃうけど。
楠木:小説の話に移る前に、今日はここで「アイドル」に時間を割きたいとおもいます。と云うのも、前回の『林瑠奈はなぜ「選抜」に入らないのか』が読者に好評だったみたいで、こういうのが読みたかった、とか、刺激があった、とか、読者から多数のお便りが届いたと管理人から聞いています。アイドルと文学を結びつける遊びが思いのほか読者にウケるようで、かといって前回の記事は林瑠奈に目的があったわけではなくて、偶発的なのものなんだけど、これを狙ってやるとなると、目的が逆転してしまうというか、本末転倒な気がしないでもない。でも、アイドルへの批評を形づくるにあたって「文学」を準備するというのはサイト立ち上げ時に掲げた姿勢でもあるので、ここで一度、原点回帰してもいいのかな、と。しかし「偶然」というのは捨てがたくて、たった今この場で、なにか発想を得る、というのを僕は大切にしたい。それでこの4作品の中にアイドルに結びつけられるというか、結びつけてしまうもの、はあるのか。見たところ、「私」をさらけ出すことで「物語」を作り出すジッドも捨てがたいけれど、やはり『バナールな現象』がヒットするんじゃないかな。
OLE:これは要するに現実とフィクションの行き交いを描き出した物語なんだけど、この前話題に挙げた「現実とフィクションの偶会」ってやつを考えるのに役立つと思ってね。それで手にとってみた。
楠木:当たり前の日常のなかで現実と仮想を行き交うことをバナールな現象と言っているんだろうけど、そうした物語を編むこと自体がバナールでしかないという皮肉を作家みずからあてこすっているんですね、これは。
横森:村上春樹への過剰な自意識でしかないからね。
楠木:でも今考えるとそうした感慨は表面的にすぎるのかもしれない。バナールというのは、物書きの視点から言わせてもらえば、いや、そうではなく、物書きの視点から見出す意味がこの言葉の意味をすべて包括するんじゃないか、と思っていて、サント・ブーヴにしろデリダにしろハイデガーにしろ、その作品・文学テクストに対する自分の解釈が先人の解釈からどうやっても抜け出ないという点、引用としての批評が古典としての香気に満たされてしまう点こそバナールな現象なんじゃないか。ノースロップ・フライを前に形式主義を語ることは皮肉でしかなくて、『批評の解剖』というのはまさしくバナールなんだとおもう。奥泉光にしても『バナールな現象』は大江健三郎の『個人的体験』に着想を得ていると話しているけれど、僕にはそれが言い訳にしか聞こえないというか、村上春樹の言葉の枠に自分が収まってしまったことを認められない弱さに思える。その意味ではデビュー当時の奥泉光をバナールと評した審査員は眼力があったんだね。
OLE:村上春樹に囚われてしまうことを作品にしていると思うんだけどね。村上春樹がフィクションなのか、奥泉光が現実なのか、どちらにしてもフィクションが現実に押し入ってくる予感を書いているように俺は感じる。

島:凡庸であることに価値を付けている点はなかなか才能があるというか、テクストとして影響をあたえていますよね。様々なシーンで。
横森:でも、凡庸=田舎者=素朴が主人公感の裏付けになるっていうのは奥泉光の発想ではないよね。ノースロップ・フライだって引こうと思えば引ける。
楠木:始点ではなくてプロトタイプみたいなのを探し求めちゃうとそうした突飛な発想に行き着いちゃうんだけど、実は最近僕もおなじような経験をしていて、『天才・秋元康に教えたい、天才・奥田いろはの魅力と影響力』を書く際に「批評」の始点としてボードレールひいては小林秀雄を定めたんだけど、しかし福田和也だったか、柄谷行人だったか、はたまた中山真彦だったか、「批評」の始点としてヴァレリーの名を挙げていたことを思い出してね。その出典を自室の本棚と書庫を何度も往復して探したんだけど結局見つけられなかった。ヴァレリーの『Regards sur le monde actuel et autres essais』や『La Litterature』にしても、例のごとく顔の半分が影になっているから、答えは教えてくれない。途方に暮れたんだけど、そこでひらめいたのが、始点ではなくてプロトタイプとしてヴァレリーを扱ってはいなかったか、と。プロトタイプということであれば、ここで容喙する余裕はないぞ、と。
島:そのこだわりというか行動が先人の解釈に囚われていることを自己証明しちゃっていますね(笑)。
OLE:でもそれは自覚があるから問題にはならないでしょ。あくまでも温故知新。
楠木:無意識、というものを”意識”するなら、凡庸こそ主人公感であるとするその概念って僕はトーマス・マンから来ていると思うんだけどね。トーマス・マンがハンス・カストルプを凡庸と云ったときに、テクストとして生まれたんじゃないか。そのテクストを意識する結果、ノースロップ・フライとかそういう名前が出てきてしまう。もちろんあえて説明するまでもなく、その始点が事実としてトーマス・マンである必要は”この場”ではどうでもよくて、意識せずに過去に読んだ文学テクストが思考の根拠、ではなく、思考そのものとしてあらわれてしまうことをどう考えればいいのか、この点に僕の好奇心がある。
OLE:そう考えるとだね、これなかなかのカタルシスなんだけど、秋元康ってアイドルにおける主人公をまさに凡庸と定義づけたじゃない。前田敦子にしても生駒里奈にしてもさ。で、このセンスって、秋元康がアイドルシーンにおける批評を叶える唯一の存在だと唱えた楠木君の言葉(『天才・秋元康に教えたい、天才・奥田いろはの魅力と影響力』)と文章を証明しているように思えちゃうね。
横森:驚くよね。いろんなものを迎え撃っているよ、あの批評は。秋元康を絶対に「批評」から逃さない。
OLE:うん。
楠木:僕は作詞家としての秋元康しか知らないんだけど、『君に叱られた』を聴いて、確信したのは、秋元康は純文学の境域に立つ作家だということです。最近なら『心にもないこと』も良い。しかもこの人はどうやら詩人としての立場を取るとき以外は、エンターテインメントの側に立っているらしい。この点もおもしろい。この人のそのスタイルがアイドルの有り様につながっているわけです。今、アイドルの多くはエンタメと純文学のあいだで揺れていますから。『バナールな現象』に話を戻すと、テクストの冒険という凡庸さがアイドルにどう結びつくのか。
OLE:アートとエンタメが重なり合ってしまうのって、要は現実とフィクションの偶会だよね。この偶会ってのはテクストの反復も同じことなんじゃないかな。もはやこすりきったアナクロという意味でも。
横森:凡庸さに関しては言うまでもない。もうすでにアイドルに結びついてる。前田敦子生駒里奈…。
楠木:賀喜遥香
OLE:じゃあ次は?ということ?
島:中西アルノ。
OLE:いや、中西アルノは凡庸ではないでしょう。
楠木:テクストの冒険を考えるなら、平手友梨奈というテクストによって思考されたのが中西アルノですね。一方で、凡庸によって思考されているのが賀喜遥香なんだけど、5期生にはその凡庸を引ける存在がいない。それはなぜか、と考える前に、じゃあ5期生はどのような過去のテクストによって思考されているのか。僕はまず白石麻衣の物語=テクストを想起するけど、であれば、当然、井上和だよね、その上を歩くのは。
横森:でもテクストとしての白石麻衣を井上和につなげるだけじゃただのアイデア止まりに思える。
OLE:そんなの簡単だよ。秋元康を絡めれば解決。秋元康が書く物語という前提を忘れずに持ち込めばいいだけ。
楠木:テクストの反復がなにをもたらすのか、ではなく、なにに呼応すべきなのか、呼応してしまうのか、問う、ということですね。
島:過去のテクストが現在の思考に影響をあたえることは反復ではなくて摩耗ではないですか?消しゴムを削るような。
OLE:記憶の消しゴムね(笑)。そりゃそうだ、反復によって摩耗するよな。
楠木:ああ、そうか。凡庸の系譜を探すことは間違っていて、かつて凡庸が主人公を象ったそのテクストが、反復を経て、次第に薄れてきて、過去のテクストのなかで思考しているのに、眼前にはそのテクストとは微妙にズレた存在がある。たとえば遠藤さくらですね。そのズレを決定的にするのが白石麻衣に結ばれる井上和なんだ。
横森:凡庸が破断しなかったことが乃木坂の凄さなんだよ、きっと。
OLE:まあ、AKBとか日向坂に井上和が誕生することって絶対にありえないからね。

島:今、聴いていて僕が思いついたのは、ゲームの効果音のことです。ゲームの効果音って、あれ実はほとんどが創作なんですね。たとえば馬の足音を録音するとき、実際に馬を用意してその歩く音を録音しているわけではなく、専門のスタッフが自分の想像力に頼って小道具を用いてそれを再現するんですね。なぜ本物の馬を用意してその足音を録音しないのかというと、小道具をもって生み出した音のほうがリアルに感じられるからです。この「想像力に頼る」というのは、実は過去のテクストに頼っているだけにすぎないということに、今、気づきました。
横森:音って記憶だからね。
楠木:過去の経験を活かして目の前で動く「音のない映像」に音をつけていく。しかもその音は現実の音とは異なる、過去の自分の記憶の再現である、その場で新しく作り出した音であるという点では、それは批評を作ることとまったく変わらない行動ですね。間違いなく芸術でしょう。ここから得るものがあるとすれば、現実の記憶としての音を再現したそのゲームの効果音が、プレイヤーにとっての現実の音の記憶になり得るという点だとおもう。馬の足音を、現実で聞く前に、フィクションで知ってしまったのだから。
OLE:なるほど。それこそ、準備された現実とフィクションの偶会だ。
楠木:もうこの場で批評として、文章を書く行為として思考してしまっているけれど、たとえば、『人は夢を二度見る』で顕著になった問題、秋元康の詩だけが成熟してしまう問題解決の糸口に、このテクストの反復、凡庸なアイドルを主人公とするその概念がテクストの反復のなかで次第に薄れていくことが、反復の外に置かれた秋元康の詩の成熟への迎撃になるんじゃないか。アイドルにおける主人公感が「生駒里奈」から「白石麻衣」へ移行したことを決定づけるのが井上和。うん、これはもうほとんど完成しましたね。あとは書きながらどういった答えにたどり着くのか、いや、これでもうほとんど答えは出ているかもしれない。


2023/04/23  楠木かなえ
2023/04/28 *1規約上の問題で一部伏せ字にしました