乃木坂らしさ とは

「乃木坂らしさ」
美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
小林秀雄/当麻
乃木坂らしさ乃木坂らしさとくり返すけれど、じゃあ乃木坂らしさってなに?という問いかけは、ファンだけではなくアイドルを演じる少女自身の内にも尽きることなく湧いて出ているはずだ。乃木坂らしさへの問いかけとは、要するにアイデンティティの追求であるから、それはアイドルの枠組みにおさまらず、あらゆる文学作品のなかで語られてきたものだし、これからも問いかけ続ける普遍的な話題と云えるだろう。
では、乃木坂らしさとは一体何を指すのだろうか。やはりそれは、清楚や処女性、あるいはリセエンヌといった、春風に吹かれ不気味に響く竹の鳴き声のように抽象的なものを指すのだろうか。抽象的であるために、それにひかれ、それを信じようとするのだろうか。と、かような問いかけから脱するにはどうするべきか。おそらく、思考をシンプルに飛躍させなくてはならない。
「当麻」観劇後、星空を眺めながら、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」とつぶやいたのはもちろん小林秀雄だが、この、花の美しさとは個々の花の内側に具体的にそなわっているものだと云う小林のモノローグは、尽きない問いかけから脱するための貴重なヒントをくれるのではないか。*1
『当麻』の「花」と「美しさ」を、「アイドル」と「乃木坂らしさ」にすり替えてみると次のようになる。
乃木坂らしい「アイドル」がある、「アイドル」の乃木坂らしさというものはない。
これは、乃木坂らしさというぼんやりとした枠のなかにアイドルがあるのではなく、アイドルがまず眼の前にあって、その一人一人に乃木坂らしさがある、ということなのだが、作詞家・秋元康もこれと同じ趣旨の言葉をこれまでに繰り返し披露している。
“乃木坂46らしさ”とは、彼女たちの生き方そのものだ。自分たちが悩み、苦しみ、歩き出した道のりが、“乃木坂46らしさ”だ
秋元康/乃木坂46物語
つまり、乃木坂らしさの具体的解釈とは、すでにアイドルを演じる少女とそのファンのあいだに広く浸透したものであり、あらためて思考するまでもない、という結論に至る。君たち一人一人が乃木坂なんだよ、と。たとえば、ある少女にとってそれは「清楚」であるかもしれないし、ある少女にとっては「不純」であるかもしれない。そこにいかなる対峙が描かれようとも、”彼女”がグループの通史の上に立った時点で、乃木坂46としてカメラの前に立った時点で彼女は乃木坂らしい「アイドル」なのだ。
ではなぜ乃木坂らしさへの問いかけが尽きないのだろうか。それはおそらく、問いかけるファンの視点そのものが刻々と変化するためだろう。君たち一人一人が乃木坂なんだ、このセリフによって救われるのはアイドルだけであり、実はファンの疑問にはまったくこたえてくれていない。現在、ファンが求めるものとは、あたらしく眼の前に現れた、まだ明確な物語を持たない、あるいはほとんど輪郭を持たない、しかし厳として「乃木坂らしい」アイドルであるその存在を理解しようと試みる際の、暗い海を照らす灯台の明かりなのだ。
結局、どれだけ観念的な説明を置こうとも、ファンはあたらしくグループに加入した少女が、すでにグループの物語のなかで語られた、1期生(2期生)の面々によって記された物語とどれだけ近い場所に立っているのか、どれだけ通い合っているのか、批評の矢を放ってしまうし、その際に、ではそもそも乃木坂らしさとは具体的にどのようなものを云うのか、という問いかけが芽生え、出口が入口につながっている迷路に踏み込むわけである。よって、この迷路から脱出するためには、まず評価基準としての「乃木坂らしさ」を作る必要がある、と考えた。
「秘すれば花」
あたらしくグループに加入したアイドルのそれぞれが乃木坂らしさをもっている、という事実に対する期待、それを発見していく逸楽を見出すとき、同時に、そのあたらしく発見する物語の内に過去に愛し親しんだアイドルのおもかげをやはり探してしまう。家郷を、ノスタルジーをつかもうとしてしまう。あの頃好きだった彼女のおもかげと密着した横顔を求めてしまう。3期生(4期生)のもつ乃木坂らしさの源流とされるものこそ1期生(2期生)が示した乃木坂らしさになるはずであり、とくに1期生(2期生)のなかでも、なびく菖蒲色のスカートの象徴になった人物の横顔であるはずだ。アイドルの血が受け継がれ、あるいは入れ替えられ、忘れられるもの、忘れられないものを積み重ねながらグループの歴史が作られていくのだ、という感傷をひき出してしまう。
このような感傷に従うならば、まず、1期、2期が克明に記した「乃木坂らしさ」のなかから最高水準の”らしさ”を選び出すべきだろう。
1期にせよ、2期にせよ、今日乃木坂らしさと表現され称賛されるアイドルの横顔のすべてに通底するもの、評価基準として引かれる一本の線、それは間違いなく世阿弥の「秘すれば花」である。「ただ花を花として書けば、花が立ち現れるという安易な意識からは、やはり本質的な文学など現れはしないだろう」という先人の言葉どおり、アイドルにとっての美あるいは素顔もこれとまったくおなじことであるから、「秘すれば花」を演じることに成功した乃木坂46がシーンの主流となったのもこれは当然の帰結と云えるわけだ。*2
要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入り込む事は出来なかったのだ。世阿弥の「花」は秘められている、確かに。
小林秀雄/当麻
桜井玲香 ☆☆☆☆☆
名は体を表す、という。桜井ほどこの言葉を体現する者はほかにおらず、他者にイメージされたアイドルの横顔を、彼女は一切裏切らない。つまりそれは、他のアイドルと交錯した際にこぼす、これまでとはまったく違った表情もまたアイドル本人でありつづける、ということを示し、様々なアイドルとの交錯によって桜井玲香というアイドルの輪郭が埋められていくという構図はまさしくソサエティの誕生であり、群像劇の成立であり、乃木坂らしさである。
生田絵梨花 ☆☆☆☆
自己の可能性の枠を押し広げる、可能性を実現させる、というアイドルの成長、つまりほんとうの「夢」に対する一貫した姿勢がアイドルシーンの可能性そのものを広げて行く。グループアイドルにとっての新鮮な境地を見出した唯一のアイドルであり、それは想到するまでに途方もない距離をもった乃木坂らしさである。
西野七瀬 ☆☆☆☆
「秘すれば花」をアイドルの物語にもっともうまく落とし込んだ人物。乃木坂46においては、「センター」への憧憬を包み隠さずに標榜するアイドルは物語の主人公にはなれない。野ざらしにされた愚直さになどファンは美を見出さない。「センター」になりたければ俯きなさい、それを差し出されたら背を向けなさい、帰り道は遠回りしなさい、そうすれば忍ばせた野心を抑えきれず発露させたとき、ファンは興奮し貴女の物語に没入することだろう、と西野の横顔は教えている。
伊藤万理華 ☆☆☆
日常における芝居=アイドルらしい立ち居振る舞い、つまりウソがつけない人物が、しかし映像の内側では前のめりになって自分ではないなにものかを演じていくスリリングさ。演劇をとおしてアイドルを知っていく、という意味において伊藤万理華が描いた物語性は乃木坂らしさにとどまらずシーンのエポックにすら映る。
白石麻衣、佐々木琴子 ☆☆☆
たぐい稀な美貌を生まれ持ってしまったばかりに、アイドルのとびらが容易にひらいてしまった。さえぎるものがなにもなかったからこそ、日常への名残が常にあり、本来の自分を探してしまう。アイデンティティの追求と追究に明け暮れる、包括的な喪失を描く物語。これもまた揺るぎない乃木坂らしさ。
鈴木絢音 ☆☆☆
圧倒的な処女性を提示するレトロスペクティブなアイドル、という一点において、比類なき乃木坂らしさをもっている。
上記7名の「乃木坂らしさ」を評価基準とし、その菖蒲色の原料をそなえる、もしくは、それを受け継ごうとする姿勢を描く次世代アイドルとはだれか?乃木坂46に在籍する3期生、4期生の計28名のアイドルの中から上位7名を選出した。

「乃木坂らしいアイドル 7選」
矢久保美緒
処女性の有効性をたしかにもっていて、なおかつ乃木坂46の過去の物語に対する真摯さ、伝統への憧憬を包み隠さずに語らうことができるアイドル。仮に今後アイドルシーンがどんどん縮小して行くのならば、そのような時代の趨勢を生き抜くのは彼女のような「信頼」をつくるアイドルなのだろう。実力はまだまだ小ぶりだが、息の長いアイドルになるかもしれない。
中村麗乃
ルックス、スタイル、ライブパフォーマンス、演劇表現力と高い水準にありながら、アイドルとしてはうだつがあがらない。ファンの期待するとおりに動かない。でもほんとうは、やれるけどやらない、ではなく、やろうとおもってもできないのかもしれない。どこかのだれかと似た物語。こういうアイドルは結局どのようなかたちで卒業をしてもその横顔にファンは儚さを見つけてしまうのだろうから、やはり乃木坂らしいアイドルと呼べる。
金川紗耶
アイドルを演じるのは「夢」をつかむためであり、知らないだれかの書いた物語を証すためではない。ほんとうの夢をつかむために、見つけるためにアイドルになったのだ、というモノローグを秘めた少女の集合こそ乃木坂46の第一期生であり、生田絵梨花の物語の核である以上、グループの物語と径庭する金川もまた、本人が求める求めないにかかわらず宿命的に第一期生感をそなえた登場人物とするほかない。つまりそれは正真正銘の乃木坂らしさである。また、俗に言う「額縁衣装」がもっとも似合うメンバーでもある。
筒井あやめ
その名のとおり、乃木坂46の象徴そのものであり、希望である。ファンの腕をひっぱり未来に向かって走るような頼もしさすらみせている。若手アイドルのなかでライブパフォーマンスがもっとも優れており、演技もできる。付け入る隙をあたえない。
遠藤さくら
西野七瀬に次ぐ、あるいは、西野七瀬を継ぐ”秘められた花”であり、映像世界で描かれる姿形を眺めることによってアイドルの素顔に到達するという点では伊藤万理華を想起させる。遠藤の場合、日常生活で埋没し忘れてしまったものを演じた役の内に見出すような静かな動揺があり、深く希求される。
久保史緒里
このひともまた処女性があり、しかも”もし彼女に嫌われてしまったらどうすればいいのか”という深刻さみじめさをファンにあたえる不気味な有効性を把持している。才能と実力のたしかさ、精神性の高さから生田絵梨花の背中を間近で眺めることができるただ一人の登場人物として、デビューから一貫してファンに妄執をあたえている。彼女が提示する徹底した自己否定とは、要するに、生田絵梨花的自己肯定への過剰な隠蔽にすぎない。
松尾美佑
日常的に提示されるアイドルの横顔のすべてが過去の物語=乃木坂らしさを包括している。ルーツの発見と同時にルーツの誕生を叶えている。「生田絵梨花の後ろを歩く久保史緒里」という存在とどこか響きあう空気感を示したかとおもえば、白石麻衣、西野七瀬的なアナザーストーリー、たとえば『何度目の青空か?』の映像作品で描かれたもう一つの日常的素顔の描出が松尾にはある。アイドルの顔に、たしかに仮面がついている。この隙のない「乃木坂らしさ」が彼女のアイドルとしてのアイデンティティになってしまうのではないか、という予感において、それは幸運であり不運である、と云えるかもしれない。過去との完全な一致を多くのファンに見出されたときに、再会のよろこびとともにある種の陳腐さ、つまり個性の欠如を証し立ててしまう。いずれにせよ、乃木坂らしさ、この話題の上でならば文句なしの登場人物。
おわりに、
一方で、過去の物語と決別するように、過去を断ち切るように、まったくべつの、まったくあたらしい乃木坂らしさを握りしめ、燦然たる輝きを放つアイドルが存在することもまた、一つの、いや、より強い「希望」と云えるだろう。説明するまでもなくそのひかりとは賀喜遥香のことである。
2021/04/14 楠木
引用:*1 小林秀雄/当麻 *2 福田和也/作家の値うち