白石麻衣 × シンクロニシティ
「雑踏のその中を彷徨う」
平成の終わり、令和のはじまり。現在、もっとも高い人気・知名度をもつグループアイドルは乃木坂46の白石麻衣だろう。シーンの中心に立つ、アイドル界において前例のない、白夜と見間違う美貌の持ち主。デビューから一貫し、ファン、同業者、作り手の多くから尽きない称賛、惜しみない敬意を贈られてきた彼女のその美貌の価値・魅力をあらためて描写し説得する必要はないだろう。
ファンには強力な刺激を、アイドルを演じる多くの少女には絶対的な偶像をつくらせる、溢美。白石麻衣を囲んだそうした眼差し、反応は、アイドルの扉をひらいたばかりの、まだ少女の面影を色濃く残す白石に、この美こそが自己の内でもっとも価値のある資質=魅力、アイドルを活かす魔力だ、と評定させるのに充分な動機となったはずだし、そのとおり、彼女は美の追究に耽けって行く。
白石麻衣の耽美の有り様とは、自分を変えたい、と屈託した末の行動力ではなく、自身の生まれ持つ価値を懸命に守り抜こうとする、強い意志、であり、凡庸なアイドルが陥る耽美とは一線を画していた。徹底した自己管理、マネジメント戦略によった美の追究は、美の保存、美のパッケージ化を成功し、白石麻衣の美貌、そのアイドルとしての高級さは、乃木坂46のアイデンティティ、”顔”と目され、白石麻衣のイメージを守ることがグループのイメージを守ることにつらなる、とファン、作り手の双方に、確信させた。
この、美の保存、というイメージ戦略が招くナルシシズムの弊害として、アイドルとファンの致命的な距離感を挙げるべきだが、白石麻衣は、自身の内情を他者に向け吐露するつもりはない、アイドルを演じる人間の”生身”は観客に見せるべきではない、といったスタイルを確立しつつも松村沙友理、秋元真夏など、日々親交を深める同期のメンバーを仲介者にして、ファンの前で心の裸を偶発的に、溢す。それも、とてもナチュラルに、とてもチャーミングに、はにかみ顔や溜め涙を描き見せる。まったく隙きを作らないアイドル、と云うほかにない。強さと紙一重にある弱さを、ヴァルネラブルに変えてファンにしっかりと触れさせることで、平凡な日常をそなえた内面の豊かな人、と妄執を育ませるのだから、これはもう”隙きがない”と表現するしかない。
また、西野七瀬、橋本奈々未等との交錯によって喚起された稚気の内にも、文句なしの人間喜劇を目撃する。順位闘争に向けた興奮と屈託、徒労感、対峙を描き出すそのアイドルの横顔は、現代のアイドルに見出すべきストーリー性、その要件の全てを充たしており、まさしくスター・アイドルと見なすべき数少ない存在である。
類を絶した、圧倒的な美の提供を入口にして、多彩な表情と仕草、華やかな立ち居振る舞い、そしてそれら全ての要素に含まれるトップアイドルとしての矜持は、男女問わず、多くのアイドルファンを獲得し、華麗に装飾された物語の表紙を捲るその瞬間から魅了してやまない。
しかし、雨粒のように全身を打ちつけるのは賛辞だけではない。時間もまた同じようにして、彼女の身体=美に降りかかる。外面的な隙きはなくとも、内部からの崩壊は免れない。
目が醒めてみるとベンチの上だった。…見渡すと、そこは見たこともないビルが並び、見ず知らずの人々が、俺の知らない感情で笑い合い、楽し気に歩き廻っている見知らぬ街だった。…俺は誰なんだろう?
島田荘司 / 異邦の騎士
アイドルを演じる、これは、現実と仮想に接点を作り、日常と非日常、夢と現を行き交いするところに、その”行為”の大部分がある。架空の世界に産み落とされた”もうひとりの自分”を育て眺める時間のなかで、自己の可能性を見つめる、本当の自分を探し当てる、それをひとつの物語へと編み上げ、ファンの目の前で物語る、それが、アイドル、なのかもしれない。興味深いのは、アイドルのドキュメンタリーという主題を前にして描き出された『僕のこと、知ってる?』の世界”感”においては、アイドル=僕が架空の世界をさまよい歩くうちに、それが現実世界での自我の喪失に、いわば「記憶喪失者の自己発見というアイデンティティーの追求」の書に、”完全に”すり替えられている点だ。
喪失体験の通過によって成熟を獲得しようと迷子になる……、アイドルとしては爛熟期にあたる物語からも、『僕のこと、知ってる?』ともっとも響きあうアイドルは白石麻衣と云えるだろう。『僕のこと、知ってる?』の詩情を読めば、それが白石をセンターに配した『シンクロニシティ』と地続きにされたものであることは一目瞭然である。ゆえにその世界観を構築させた原動力に、『シンクロニシティ』を演じたことでようやく立ち現れた、白石麻衣という人の物語、つまり彼女の寂寥があるのはまず間違いない。
僕のこと知ってる?、この問いかけは、名前や顔への誰何ではなく、本質的な像の消滅、つまり本当の”わたし”を一体誰が知っているのか、という現代でアイドル(自分とはべつの何者か)を演じつづける人間特有の反動的な自問自答であり、アイドルを演じることによって、アイドルになる以前の、元来の自分を見失ってしまった、というよりも、アイドルにならなかった自分、アイドルとなんら対比されない自分こそ、本来の自分ではないかと、果てしなく広がる可能性を前にして抱く偏執的な寂寥、その収斂である。
白石麻衣にとって、自我の喪失のきっかけ、「記憶喪失者の自己発見というアイデンティティーの追求」へと連なるイベントとは、云うまでもなく、白夜に輝く美、その消滅である。*1
まるで腫瘍か癌のようにうずいていた彼女の美貌は、気がつくと、すっかり消え失せていた。彼女は美貌という特権の重みを、いまだに憶えていた。それは少女の頃には身体に重くのしかかっていたものだったが、抗いようのない衰えを見せはじめ、瀕死の動物の最後の悶えのような身ぶりをちらと見せて、いずこへともなく、消えていったのだった。彼女は、もうこれ以上、重みに耐えきれないところまできていた。人格の一部となっているあの無用の形容辞を、あまりに目立ちすぎるために余分なものとなっていたあの固有名詞のかけらを、彼女はどこかに捨てなければならなかった。確かにそうだった。道の曲がり角か、町はずれの片隅に、捨てなければならなかったのだ。あるいは、着古したコートのように、二流のレストランのクローゼットに置き忘れてきてもよかった。皆の注目の的になり、男たちからじろじろ見つめられて暮らすことに、彼女はうんざりしていた。夜になると、まるで瞼がピンで留められたかのように、まんじりともできなかったが、そんな時は、たいして魅力のない平凡な女だったら、どんなによかったかと考えた。部屋に閉じ籠もっていると、すべてのものが自分に敵意を抱いているように感じられた。絶望感に襲われると、不眠が皮膚の下や頭の中に広がり、やがてそれが内部から熱を放ち、毛根に噴き出してくるような気分だった。血管の中に小さな、熱を放つ虫が棲みついているような感じだった。
ガルシア・マルケス / エバは猫の中に
グループアイドルとして、数多くの喪失(たとえば、当たり前の日常の喪失、志半ば倒れる仲間たちを見捨て光りの眩しい場所へ向き直り、そこに立ち続ける意志を育むような、喪失)を積み上げ、懸命に守り描いた美が朽ちていく予感への戸惑い、恐怖、不眠。同時進行で、まったく別の場所で捏造されていく白石麻衣=美のイメージの集積と、”知らない彼女”に向けられる賛美。
自身の演じる役である”白石麻衣”というアイドルが、美の消滅を描こうとする自らの裏切りにより、操作の効かない等身大のマリオネットになってしまったのではないか、覚らせる、乖離。
自分が叶えてきたひとつひとつの夢、その幸福できらびやかな時間がどれほどの特権に支えられているのか悟り、「青春」の犠牲がもたらす「富」に喪失の影を見る。当たり前の日常やかけがえのない青春の犠牲を代償にキラキラと光る夢をつかむ。しかしそれを握りしめているのは、現実と仮想を行き交いする一人の少女ではなく、仮想世界で揺く白石麻衣のみである。
彼女は「すべてを得てきた。その努力と明晰と幸運の代償として、得るべき善きものは総て手にしたのである。にもかかわらず、それは無意味だった」。喪失の果てに手にした夢が「無意味」なものだった、という喪失を知り、絶望と遭遇した彼女は迷子になる。
不毛の覚醒。西野七瀬や平手友梨奈など、同時代のトップアイドルと比較して白石麻衣が「清潔」に映るのは、彼女がピアノマン的な迷子の仮装、つまり安易に自我の喪失とは呼べない、自我を自ら放棄しようと足掻くが、しかし捨てきれず、なおかつ、自己の意思とは無関係にそれが減衰して行く予感へのもだえによって導かれた、記憶喪失者への演技があるからだ。彼女は、「ただ生きてきた」、宿命的にアイドルを演じてきたその行為「自体によって復讐されている」、のかもしれない。だから彼女の内に、「生きていくという事自体において自らが老い、滅びるとしたら、何かを獲得するなどという事に如何なる意味がある」のか、と反動が宿る。それが白石麻衣にピアノマンを演じさせ、僕のこと知ってる?、という問いかけが生まれる。*2
確かに彼の成功は見事なものだ。…すべてが清潔であり、きちんとしている。だがそこに過剰なもの、求めても得られない残酷で激しく濃厚なものや悪はどこにもない。つまり彼の人生には夢のようなものは何処にもないのだ。
福田和也 / 江藤淳氏と文学の悪
叶わぬ夢を持てず、つよく過剰に追い求める夢はアイドルを演じる時間の流れのなかですべて手に入れてしまう。ここに深刻な事態が伏在してはいないか。夢への架け橋としてアイドルがあるのではなく、アイドルを演じ続けなければ成功をつかめない。しかもそこで手に入れる成功は「ホント」の夢=幸福ではない。
白石麻衣の物語はグループアイドルとして冠絶した華やかさを放つが、また同時に、その豊穣な物語を前に呆然自失する姿は、おそらく一握りの現代アイドルだけが遭遇し抱きしめる、寂寥の果てである。彼女の日常の立ち居振る舞いには、波打ち際で揺れる流木みたいに、ただ流れに身を任せる、自我が朽ちていく様子を傍観する彷徨者のような佇まいがある。皮肉にも、この彷徨者としての横顔こそ、作り手やファンにとっての、信頼に値するアイドルの清潔さ、であり、白石麻衣をトップアイドル足らしめているのだ。
たしかに、彼女の物語は飛び抜けて豊穣に思える。だがそこに活写されるアイドルの姿形はあまりにもクールで、あまりにも清潔、潔癖に映る。アイドルの空想=架空の思い出と成長のなかに手を伸ばしても、つかめるのは虚空だけだ。アイドルに、触れることができない。その横顔をなぞることができない。ゆえに、彼女に賛美を贈る多くのファン、アイドルを演じる多くの少女のなかで、白石が物語の主人公として描かれ屹立することは、起こり得ない。あくまでも、彼女は歴史家の陳腐な想像力によって生み出され捏造される、架空の英雄の横顔、のように隙きのない、日常を持たない、憧れの存在なのだから。
つまりは、仮想ではなく現実世界における美の消滅への避けられない自覚の上に積まれていく、自身の美に向け無条件で贈られる尽きない賛美をまえにしてようやく発せられた、「自分が誰か どうだっていい」、という、この心の叫びこそ、白石麻衣の内に宿った反動のもっとも強い徴であり、アイドルとファンの成長共有という、アイドルの有り様から彼女を徹底的に遠ざけた、本音、と云えるのではないか。*3
「白石麻衣は、もう、どこへでも行ける。写真集を眺めながら、ふとそんなことを思った」
秋元康 / 白石麻衣 写真集「パスポート」
やりたいことをやる、やりたいと願っていたことを叶える一方で、やろうとしたけれどやらなかった、やれたけれどあえてやらなかった、という可能性の取捨選択、つまり、もし=if、に”乃木坂らしさ”なる言葉の核心があるのだが、当然、白石麻衣もこの”らしさ”にとらわれている。
『僕のこと、知ってる?』が『シンクロニシティ』を語り口にしていると強く想起させるのは、なによりもまずそこに白石麻衣の横顔を見出すからだし、そうした、フィクションに対する存在感の打ち出し方を見るに、この人からは演劇への高い才能を感受する。つまり、もし、白石麻衣が美の追究を早い段階で投げ捨て、文芸においてもっとも生臭い場所、才能の墓場、演劇の世界へ歩んでいたら、それは決して隘路への入り口になどならなかったはずだ。生田絵梨花、西野七瀬とおなじように、彼女にとっての自己超克もまた、演技=女優、役者ではなかったか。叶わぬ夢、に手を伸ばす行為、それは、美の放棄、という決断に外ならなかった、のではないか。「人格の一部となっているあの無用の形容辞を、あまりに目立ちすぎるために余分なものとなっていたあの固有名詞のかけらを、彼女は」自らの意思で「どこかに捨てなければならなかった」のではないか。*4
カメラの前で多様な表情を作れる非凡な才に恵まれながらも、現実によってフィクションを知っていくのではなく、フィクションによって現実を知っていく、という役者としてあるべき姿を叶えた人物でありながらも、自己の、アイドルとしての商品価値を高くすることだけに奔走し、あでやかに着飾り、だれかの憧れで居続けるために、戦略的な耽美を取り入れてしまった。自分は誰なのか、自分が作りあげたこのアイドルは何ものなのか。アイドルにならなかった自分、への名残を前に、家郷=乃木坂46=アイドルに対し自己犠牲のもとに成り立つ本物の愛着を抱けない彼女は、やがて、迷子になる。気付けば、「知らない街のどこかに 一人で立っていた」。彼女は、常に”ただ美しい”だけであった。
乃木坂46・白石麻衣、この隘路から彼女が抜け出し「ホント」の自分を発見する方法は、もはや一つしかない。それはアイドルを卒業することである。*5
大佐はほんの一瞬、栗の木のかげに立ち止まったが、こんどもまた、その空虚な場所に少しの愛着も感じないことを知った。
「何か言っていますか?」と大佐は聞いた。
「とっても悲しんでるわ」とウルスラがそれに答えた。「あんたが死ぬと思っているのよ」
「伝えてください」と、微笑しながら大佐は言った。「人間は、死すべきときに死なず、ただ、その時機が来たら死ぬんだとね」
ガルシア・マルケス / 百年の孤独
このシーンは、白石麻衣の卒業を危惧し、自己の内でアイドルが死んで行くことを予感してやまないファンの横顔とかさなる。「大佐」の微笑と返答をフィクションによる現実への迎撃として読むとき、それは、膝を抱え座り込み、雑踏する街なみを眺める白石麻衣の、独白に思えてならない。
2019/12/17 楠木かなえ
・引用:*1 福田和也 / 作家の値うち「島田荘司 / 『異邦の騎士』」
*2 福田和也 / 江藤淳氏と文学の悪
*4 ガルシア・マルケス / エバは猫の中に
*3*5 秋元康 / 僕のこと、知ってる?
見出し1 秋元康 / シンクロニシティ
・2022年12月11日 タイトルの変更、本文の加筆、編集を行いました