生駒里奈 × トーマス・マン
「ビルディングスロマン」
人間というものは、個々の存在として個人的生活を送っているのみならず、意識的あるいは無意識的に、自分の生きている時代の生活や自分の同時代人の生活をも生活していくものである。…われわれは誰しも、いろいろな個人的目的、目標、希望、見込みなどを眼前に思い浮かべて、そういうもののためにより高度の努力や活動へと駆り立てられもしようが、しかし私たちを取り巻く非個人的なもの、つまり時代そのものが、外見上ははなはだ活気に富んでいても、その実、内面的には希望も見込みも全然欠いているというような場合には、つまり時代が希望も見込みも持たずに困りきっているという実情が暗暗裡に認識できて、私たちが意識的または無意識的になんらかの形で提出する質問、すなわち一切の努力や活動の究極の、超個人的な、絶対的な意味に関する質問に対して、時代が空しく沈黙しつづけるというような場合には、そういう状況は必然的に、普通以上に誠実な人間にある種の麻痺作用を及ぼさずにはおくまいと思う。しかもこの作用は、個人の精神的、道徳的な面から、さらにその肉体的、有機的な面にまで拡がっていくかもしれない。「なんのために」という質問に対して、時代が納得のいく返事をしてくれないというのに、現在与えられているものの力量を上回るほどの著しい業績を挙げようという気持ちになるには、ごくまれな、あの英雄的な性格を持った精神的孤独と直截さか、あるいは恐るべき生命力が必要であろう。ところでハンス・カストルプには、そのどれも欠けていた。だから、本当の敬意をこめた意味からにもせよ、彼はやはり「凡庸」だったのであろう。
トーマス・マン / 魔の山(高橋義孝 訳)
グループにおいて、他の追随を許さない求心的な主人公への業を背負う生駒里奈、彼女の物語をビルディングスロマンと呼び称賛しても、けして過褒にはならないはずだ。
ビルディングスロマンを日本語に訳せば、自己形成小説、成長小説、教養小説となる。教養小説とは、トーマス・マンの「魔の山」を例にすれば、凡庸な「主人公がいろいろな体験を重ねてヒューマニズムの精神を獲得する」物語、となる。自己の可能性を探る時間のなかで次々と試練を乗り越え、希望に手をかけるアイドル・生駒里奈の成長物語こそ、ビルディングスロマンと名付けられるのではないか。
才能豊かな少女たちに囲繞され、その中央に立たされ、あたまをかき乱し、もだえ苦しむ少女の姿……、それはまさしく「凡庸」と形容すべきアイドルの醜態、アイドルとの成長共有への憧憬を満たす陰影である。とくに『君の名は希望』のミュージックビデオ、その狭い舞台、息苦しい木組みの内側で見せた、天才を仮装する叫喚こそ、生駒里奈が「凡庸」であることを裏付ける明確な醜態ではないか。
だが同時に、生駒里奈の放つ”主人公感”には「凡庸」を凌ぐもの、ある種の異物感、つまり「精神的孤独」を抱え込んだ人間だけが作り出す「英雄的」な手触りがたしかにあるように思う。トーマス・マンの書く主人公、ハンス・カストルプとは毛色が異なるように、見える。
『Against』を通じて、アイドルと卒業、に向けた一つの解釈、アイドルでありつづけることでしか夢は叶わないと誓う少女に溢れた今日のシーンに向け、アイドルはほんとうの夢への架け橋に過ぎないのだ、というメッセージを踊り投げつけ、「現在与えられているものの力量を上回るほどの著しい業績を挙げよう」とする先導、アイドルシーンに「麻痺作用」を及ぼすそのアイドル観、閉塞からの脱却を試み打って出たその姿勢には、彼女が「凡庸」を凌ぐ資質をそなえることの”しるし”をたしかに見つける。
この人の凄みとは、作り手から凡庸の象徴と見込まれグループの中心に置かれそのとおりの成長物語を記しつつも、なおかつその凡庸という枠すらも貫く成長を描いた点にある。事実、『Against』提供以後、不毛の覚醒、よりほぐして云えば、出口の見えない、アイドルを演じる日常に悩まされる少女が、自己否定を支えにして自己の超克を試みる、といった展開がシーンに頻出している。つまり生駒里奈は、シーンの動向に対し、”来るべきものの側”として起立した、エポックと形容できる。*1
いままで、かれの作品では、否定のあとに開けられた空洞を、もっぱら肉体的情念で埋めていたのですが、この作品ではそれが精神的に肯定されることによって、倫理への通路が開かれているようにおもわれます。 しかも、そこにはなんの感傷的な抒情もなく、ハードボイルド・リアリズムは手堅く守られており、眼に見える外面的なもの以外はなにも描くまいと決心しているようです。
福田恆存 / 老人と海の背景
本来の生駒里奈は、トーマス・マンではなく、ヘミングウェイと距離が近い、ように思えてならない。
『Against』以降、いや、より正確に云えば『太陽ノック』において自身のアイドルとしてのビジョン=集大成を乃木坂の群像の内に打ち出し実らせて以降、彼女の物語はヘミングウェイの文体のように徹底的に感情が抑制され、研ぎ澄まされ、洗練されている、ように思えてならない。「どうしてもそこで生きる人間に不本意な妥協を強いる世間において、懸命に、ごまかしなく、しかも誇りを守り抜こうと闘う果敢さ」を描く生駒のその横顔こそ、「ハードボイルド」と呼んでしかるべきではないか。*2
グループの圧倒的”主人公”として扱われ、境遇に振り回され、順位闘争と対峙しつづけるその姿勢、しかしアイドルを現実に持ち込み幻想を毀すような行動はけしてとらない、その幻想におけるリアリティへの深い解釈に至った姿を、異端児、と扱われてしまう点、だれからも憧れを持たれない点は、やはり前田の系譜に連なる松井珠理奈と共時している、と云えるだろうか。
松井珠理奈こそ、「精神的孤独と直截さ」を持ち、なおかつ、「恐るべき生命力」をそなえたアイドル、「英雄的」なグループアイドルの雛形と見做すべき人物であり、松井のその際立ったエモーショナルは、アイドルの存在そのものをヴァルネラブルの境域へと、読者の潜在意識を誘導してしまう。松井と生駒の違いは、アイドルを演じるなかで堆積させた屈託の末に、ある種のペシミズム、グルーミーに染まった松井に対し、生駒はより精神的な場所へと、アイドルの主体を移動させた点にある。*3
乃木坂46が演劇を支えにした集団であることを決定づけた『君の名は希望』以降、生駒里奈を主人公に配した物語は幕を閉じ、乃木坂は、生駒そのものを”端境期”とし、生駒里奈の存在感から揺さぶり放たれた少女たちの手によって群像劇へと彩られていく。その群像のなかで描写される”生駒里奈”は、今にして思えば、「眼に見える外面的なもの以外はなにも描くまい」と堅く「決心しているよう」に見える。
彼女の「感傷」が多少なりとも覗けたのは”卒業”決定後に制作された『Against』くらいではないだろうか。『Against』において、自身の存在理由、自己をもっとも的確に表現できる手法の模索への、とりあえずの回答が示されたことは、現代アイドルにとってひとつの到達点にタッチしたと評価できる。そして、その段階で物語がぶつ切りに終わってしまうのもまた、ヘミングウェイの短編小説のような読後感を私に与える。*4
引用:*1 *3トーマス・マン / 魔の山
*2 福田和也/作家の値うち
*4福田恆存 / 老人と海の背景