アイドルと教養小説

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「ビルドゥングスロマン」

生動する状況の中で、登場人物がその条件と戦いながら自己の可能性を押し広げてゆくような小説が読みたい、という希望は、反時代的にすぎるだろうか。

福田和也/作家の値うち

文芸評論家・福田和也から発せられたこの「希望」が、ビルドゥングスロマンつまりは教養小説への遠景であるのはまず間違いない。教養小説ときいてまず想起するのがトーマス・マンであり、『魔の山』を訳出した高橋義孝は、トーマス・マンの記す教養小説に対し「主人公がいろいろな体験を重ねてヒューマニズムの精神を獲得する」物語と述べている*1。話者にとって凡庸であった主人公が、しかしその物語を読んだ読者にとっては特別な存在へと育っていく……。教養小説にはそのような魅力がある。
私自身、自己の可能性を押し広げる、自己の枠組みを貫く、といった類いの文言を、アイドルに対し繰り返し用いてきたが、そもそもそれはどのような出来事、経験をさすのか。自己の枠組みをとらえ、それが抜け出ることのできない枠であると認識する、これは容易い。むずかしいのは、立ちはだかる困難な試練とは、その認識した枠組みから抜け出ることである。
この経験を、小説家の文章をもとに語ってみる。たとえば、大江健三郎は引用を支えに物語を作り、古井由吉は文章に対するある種の徹底した不徹底という姿勢のもと物語を記している。文章に意識的に振る舞う人間が、大江健三郎や古井由吉の文章を読み気づくのは、自己の内にいつのまにか染み付いていた世間の常識、つまり文章とはこれこれこういうものだから、かならず決められたとおりに書かなければならない、といった凡庸を映し出す鏡=認識に自分がいつのまにか囚われていた事実であり、しかもその破ることが不可能にもおもえる定形を、天才たちの文章をよむことによってあっさりと突き破ることができてしまった、という個人的体験の発見である。こういうのも全然ありなんだな、と。カフカの『変身』が後世の数多の作家にあたえた影響もこれとおなじものである。つまり天才の文章をよむことによって自己の枠組みをあっさりと貫いてしまうと同時にあたらしく自分が踏み入れた場所を見渡すと、四方にはその天才の作った強固な壁が見え、あたらしい抜け出ることのできない枠組みに自分が収まっていることに気付かされるわけである。天才とならぶには、自分の文章をよんだ人間に、こういうのも全然ありなんだな、と確信させ自己の枠組みを貫かせる必要があるのだから、なおのこと絶望するわけである。
このような絶望をあたえる試練をのりこえ、やがて希望をつかむ主人公の姿を描いた物語こそ、ビルドゥングスロマンと名付けられるのだろう。もちろん、今日では、教養小説について様々な議論と解釈が叫ばれている。しかしこの場では、自己超克を描く成長物語という観点においてのみ語ることにする。成長物語、これがアイドルの存在理由と響き合っていることはあらためて説明するまでもないだろう。

先の記事において「アイドル」に「ドラゴンクエスト」を引用する遊びを書いたが、今回も、もう一度アイドルとドラゴンクエストの関係を教養小説という視点のもと考えてみる。
『ドラゴンクエスト』そのものの成り立ちについては、ここであらためて記すのは冗長にすぎるので控える。だが、ドラゴンクエストを教養小説と呼ぶ際のルーツあるいは引用としての動機は記す必要があるだろう。
ドラゴンクエストは、ゲームブック『グレイルクエスト』のつよい影響のもと出発している。「グレイルクエスト」において採用された、読者が主人公になりかわるもしかし物語はあくまでも作り手によって語られていくといったシステムをドラゴンクエストの作者は引用し、文字で連なった物語では表現できない世界を見事に構築している。また、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』においては、作中にブレナンという戦士を登場させ(このブレナンの由来は「グレイルクエスト」の作者、ハービー・ブレナンであるのは想像にかたくない)、敬意を表してもいる。そのブレナンによって描かれた「グレイルクエスト」の主人公ピップが、チャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』の主人公ピップと同じ呼び名であるのも、意味のある一致と云えるだろう。なぜ意味のある一致なのか。それは『大いなる遺産』『グレイルクエスト』『ドラゴンクエスト』この3作品に共通するものこそ、ビルドゥングスロマンつまり教養小説であるからだ。
肝要なのは、いずれの作品も、困難や試練をのりこえて成長する主人公の物語そのものの展開やスリルさにではなく、その成長物語をよむ、というある種の経験の共有に作品の価値の大部分を支えられている点だ(それはともすれば経験の共有にすぎない、とも云える)。現実では到底体験できないものを、文字の連なりあるいは映像によって体験し、読者自身が成長を遂げる。『大いなる遺産』『グレイルクエスト』『ドラゴンクエスト』、この教養小説、すなわち成長物語にはそのようなちからが備わっており、それを自己形成と表現することが可能だろう。やや強引に、今日的に表現すれば、自己啓発、となるのかもしれない。
自己形成や自己啓発、つまりアイデンティティの追求と追究をアイドルの物語の作り方の軸とし、戦略として組み込み、成功を収めたアイドルグループこそ乃木坂46であるのだから、やはり、教養小説とアイドルとには素通りできない関係性がある、と云えるだろう。シーンにおいて「主人公」と呼ばれ、ファンに愛されるアイドルのほとんどは、教養小説としての横顔を具えている。「自己の枠組みを押し広げるような物語が読みたい」という希望は、乱暴な引用を試みるならば、ドラゴンクエストをプレイするという情況、つまり物語の主人公の成長、その共有への遠景であり、「主人公」と呼ばれるアイドル、彼女たちを眺める人間が見出す希望となんら変わりのないものである。
たとえば、『トゥルーマン・ショー』のようなモチーフ、あるいは、古井由吉的とも呼べる人称の不在によって語られるこの物語たちを、グループアイドルシーンに引くならば、それはアイドルが主人公の物語でありながら、話者はあくまでも作り手つまりは作詞家・秋元康であり、氏の作り出す詩的世界における啓蒙、不気味な無垢と俗悪さによって提示される困難、試練のはてにアイドルを演じる少女たちが自己の枠組みを貫き希望をつかむといった構図こそまさしく『大いなる遺産』であり、『グレイルクエスト』であり、『ドラゴンクエスト』であり、教養小説そのものと呼べるだろう。
先の記事とおなじ結論を示すことになるが、『グレイルクエスト』を引用した『ドラゴンクエスト』が、文字で書かれた小説では表現できなかったこと、体験できなかったことを見事に実現してみせたように、おなじ教養小説の地平に立つアイドルシーンもまた、成長物語とその共有という希望を原動力に、小説ではできないこと、ゲームでは体験できないコンテンツを、知恵を絞り作り上げれば、その物語は名作と呼ばれファンから愛され続けるのではないだろうか。

「そなたは誰じゃ?」とそのテーブルに向かった婦人が言った。
「ピップでございます。」…
「私は疲れてる」とミス・ハヴィサムは言った。「気晴らしがほしい、男と女はもうたくさん。お遊び。」
誰であろうと、広い世界中で、この不運な男の子に、こういう雰囲気の下でやるのに、これ以上困難なことをせよと命令することは出来なかったろう。…
「私は時々妄想を抱くの」とミス・ハヴィサムはつづけて言った、「誰かが遊んでいるところを見たいという妄想を抱くの。さあ、さあ!」右手の指をじれったそうに動かしながら、「遊びなさい、遊びなさい、遊びなさい!」

チャールズ・ディケンズ/大いなる遺産(山本政喜 訳)

 

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「アイドルともっとも近い場所に立つ映像作家・伊藤衆人」

乃木坂46の映像作品を作る作家のひとりに伊藤衆人という人物がいる。氏の、多ジャンルにわたる経歴のなかには、アイドルはもちろん、ドラゴンクエストシリーズの映像作品を手掛けた経験もふくまれている。その経験もしくはそれ以前から抱いていたであろうドラゴンクエストへの憧憬が、グループアイドルの作品へと真っ直ぐに向かっており、おもしろい。山田太一を想起させるフィクションとファンタジーとのかかわり合い。なによりもアイドルとの身近さ、成長物語に対する理解とその物語へ参加しようとする意欲から、作品の内に、アイドルでしか表現できないことを表現し得るのではないか、という「展望」を見る。とくに『ブランコ』においては私情の衝動が顕著であり、アイドルの映像コンテンツをテレビゲーム的な興趣ととらえ、童心や無垢さを軸にしてアイドルをなにがしかの物語の登場人物と設定した結果、作家本人がアイドルの物語に没入し、作品のいたるところに私情を塗り込むという情況が壺にはまり、これまでのアイドルシーンにはみられなかった光景を描いている。グループアイドルではなく、アイドルそのものの本質に教養小説がある以上、教養小説をアイドルを演じる少女の横顔に直に落とし込んでみせたのだから、氏がファンから愛される、ファンとおなじようにアイドルを理解し闘おうとする、アイドルやファンと近しい存在、常に次回作を期待される存在になったのも当然の帰結と云える。
もちろん、ドラゴンクエストとの一致はひとつのスリル、興奮にすぎない。目をみはるのはやはり私情の衝動だろう。この作家の私情は、作り手にとって絶対にゆずれないものがある、という衝動を示している。それは現在のアイドルシーンにおいて、エピックに映る。ただし、直近の作品群を眺めると、グループを稼働させるシステム的なものとファンへの過剰な配慮によって生来の私情のつよさが霧散し、むしろテレビゲーム的な軽さだけが目につくようになり、『ブランコ』以降、当たりがない。

余談だが、ドラゴンクエストを遊ぶ様子を記録しユーチューブにアップしているグループアイドルも存在する。たとえば、NMB48の石塚朱莉。この事態のややこしさは並ではない。ようするに、教養小説としてアイドルの物語を共有するという情況のなかに、その教養小説としてのアイドルが教養小説を読むという経験が置かれているわけだ。これもなかなか面白い試みに映る。

 

出典、引用:(*1)  トーマス・マン/魔の山(高橋義孝 訳)