アイドルの卓越化=ディスタンクシオン

乃木坂46, 特集

生田絵梨花(C)音楽ナタリー

「自らの考えに忠実に生きる」

カエサルは、キケロへの手紙で書いている。
〈何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている〉

塩野七生 / ローマ人の物語Ⅴ

生田絵梨花、このひとは、他者との距離感のつかみ方が抜群に上手い。思考の運動神経が高く自由な、作家性の優れたひと、に見える。作家の魅力、その最たる才能とはやはり、何者かを語るとき、膨大な情報=事実を支えにしつつ妄想を飛躍し、その対象に片想いを募らせ、自身の日常に手繰り寄せることを可能にしてしまう点だろうか。たとえば、塩野七生はユリウス・カエサルを、司馬遼太郎は坂本龍馬を、福田和也はシャルル・モーラスの人生の時々を叙述し、批評つまりフィクションに落とし込み、その日常の香気を記した。
生田絵梨花もまた、日々すれ違う、この先、もう二度と交錯することがない”かもしれない”雑多な人間との交流のなかでおなじ距離を編み、素顔の扉をひらく。「あの人も、わたしと同じ人間なんだ」と。この思弁の実践は、会いに行けるアイドル、という、アイドルとファンの距離感を毀損した今日のアイドルシーンにあって、アイドルの神秘さとアイドルを演じる少女のアイデンティティを他者に傷めつけられずに”ありのままに”生き抜くための、やがては次のあたらしい世界への扉をひらくための核心的な資質・行動力と云えるのではないか。
彼女が嬉々と語る憧憬には、それがアイドルの語る夢にしてはやや逸脱した、淡いノスタルジーに支えられた遠景や約束であるのにもかかわらず、抑えきれず共感してしまう説得力がある。文芸の世界で生活することが、自分ではない何者かを演じることが、あくまでも日常生活者としての夢や憧れへの献身であるかのように錯覚させる。それはやはり、彼女が、高貴であり情熱的である強い魂の内に、普遍的な日常の香気を放つからである。だから、ファンは濃密な夢のつづき、文字どおりハッピー・エヴァー・アフターへの招待を望み、アイドルの書く物語に没入してしまう。

生動する状況の中で、登場人物がその条件と戦いながら自己の可能性を押し広げてゆくような小説が読みたい、という希望は、反時代的にすぎるだろうか。

福田和也 / 作家の値うち

乃木坂46の物語性を決定づけた、アイドルとの出会いをひとつの希望として描いた『君の名は希望』を前にして確立させた、アイドルの、いや、アイドルを演じる少女のアイデンティティ。それを彼女は、初めて表題作のセンターに選ばれた『何度目の青空か?』において編み上げた笑顔を最後に、転回させる。アイドルの”ジャンルらしさ”との決別。役者、女優、あるいはミュージカル歌手としての日常を羨望し、”乃木坂”の主役になることを断念したその生田絵梨花の横顔、その行動力は、彼女の夢の道のみならず、アイドルシーンの限界をも拡充し、今日のグループアイドルにみる狭い役割を打ち破り、可能性の幅を押し広げることになった。乃木坂46=アイドルという条件のなかで、自分のほんとうの夢を求めつづけ、その「夢」に果敢に手を伸ばす行為が結果として乃木坂46の、グループアイドルの価値を押し上げるというストーリー展開に、このアイドルの本領・魅力がある。
このひとはとにもかくにも、ユーモアに溢れた人、である。わき目もふらずに夢と屈託の隘路の壁を掘り進む力強さから伝播する信頼感を下敷きに、生まれ持った自己認識の強さ、強烈な自己肯定のもとに描かれるその日常の仕草・立ち居振る舞いは、グループアイドルとして前例のないユーモアと映り、次の瞬間に何が起こるのかまったく予想のつかない不安と興奮を観る者にあたえた。ファンは、彼女の夢に乗りたい、と思ったし、仲間のアイドルは、生田絵梨花のようなアイドルになりたい、と憧れを抱いた。
”コゼット”をミュージカルで演じた日、たとえば『魔女の宅急便』の主人公・キキの内側から魔法のちからが消失したあの朝とおなじように、「生田絵梨花」のユーモアも身体の内から欠落してしまったが、そこに見る痕跡こそ彼女が完全に「アイドル」の枠組みを貫いた証なのだ。
演劇に向ける解釈と感性を、アイドルを演じる日常に落とし込み、グループアイドルの外殻を破砕する。それは、乃木坂46がエンターテイメントの地平においてあたらしい存在理由を獲得する光景へとかさなって行き、やがて”乃木坂らしさ”の象徴になった。グループアイドルの価値を、一段上へ押し上げた。もちろん、彼女の躍進は演劇の世界のみにとどまらず、たとえば、今日、シーンの話題を独占する乃木坂46の写真集の快進撃、その口火を切ったアイドルとしても「生田絵梨花」の名を挙げることができる。

グループアイドルにとっての努力とは、困難な目標を仲間と共に成し遂げた際、喜び安堵する仲間を尻目に、もう次の、新たな壁を登るための準備を始めるような行動を指す。生田絵梨花は努力ができる数少ないアイドルである。自己超克と呼ばれる行為は、周囲に疎ましさや息苦しさを与える場面も少なくはないはずだ。生田絵梨花と他のアイドルを決定的に隔てるもの、それは、無理解に囲繞され孤立してもなお、歩を進めることのできる独断力である。アイドル・生田絵梨花は犀の角のようにただ独り歩む。孤独や孤立感こそが、文芸という「虚構」を作り上げると熟知しているから。