アイドルの卓越化=ディスタンクシオンを叶えた生田絵梨花

乃木坂46, 特集

生田絵梨花(C)starthome/dessart

「自らの考えに忠実に生きる」

カエサルは、キケロへの手紙で書いている。
〈何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている〉

塩野七生 / ローマ人の物語Ⅴ

生田絵梨花、乃木坂46の第一期生であり、グループの黎明期と黄金期を担った、唯一人のメンバー。
アイドルとしてのキャリア、ステータスは衆目の一致するところである。ビジュアル、歌に演技、多様性と物語性、いずれも最高水準に達したトップアイドルとして、その評価を一致する。
この、生田絵梨花というアイドルの成功を考える際に、いや、今日のアイドルの魅力そのものを捉える際に、端的に、外せないものを挙げるとすれば、それは、アイドルを演じる人間が用いる言葉の魅力、つまり、ある種の作家性を考えること、になるのではないか。作家性に富むということは、そこに物語が生まれている、ということである。とりわけ、生田絵梨花、この人は他者との距離感のつかみ方がどのアイドルよりも優れている。思考の運動神経が高く自由な、作家性の優れた人、に見える。
作家の魅力、その最たるものとは、やはり、何者かを語るとき、その人が生きた時代の膨大な情報=現実生活の記録を支えにしつつ、妄想を飛躍し、対象に片想いを募らせる、自身の日常に手繰り寄せることを可能にしてしまう点だろうか。たとえば、塩野七生はユリウス・カエサルを、司馬遼太郎は坂本龍馬を、福田和也はアルチュール・ド・ゴビノーの人生の時々を叙述・批評することで、フィクションを編み出し、その素顔を暴き立てた。司馬遼太郎が最も顕著だが、今日では、坂本龍馬と聞けば、大衆がまず想起する龍馬のイメージは、司馬の妄想力によって編み出された”竜馬”である場合がほとんどである。それはやはり司馬が坂本龍馬という存在を自己の日常の想像力のなかで物語ることに成功したからに相違ない。作家は、歴史上の人物を語るとき、その人のことを遠く離れた存在、言わば偶像のままにしてはおかない。自分と同じように、生臭い生活の一面をもつことを、まず想像する。その上でその人が偉人たる理由、偶像たり得る理由を、追究する。
生田絵梨花は作家ではないが、彼女が示す他者との間合いのつめ方には、司馬のような「距離感」の、その片鱗がある。ファンを自身の日常(彼女の場合、それは「夢」と表現すべきかもしれないが)に誘い、素顔の扉をひらく(ファンの側に寄り添う、配慮する、のではなく、あくまでも自身の日常=夢のなかで雑多な人間との交流を果たしてしまうところなどは、生田絵梨花らしさ全開と言えるかもしれないが)。
どのようなファンに対しても「あの人も、わたしと同じ人間なんだ」という感覚を、この人は有している、ということである。取り立てて言うほどの話題ではないように思われるかもしれないが、しかしこの思弁の実践にこそ、会いに行けるアイドル、という、アイドルとファンの距離感を毀損した今日のアイドルシーンにあってもなお彼女だけはアイドルの神秘さとアイドルとしての自我=アイデンティティを他者に傷めつけられることなく、”ありのままに”アイドルを演じることができた、やがては次のあたらしい世界への扉をひらくことができた核心=才能がある、天意がある、と見做すべきではないか。
彼女が嬉々と語る憧憬には、それがアイドルの語る夢にしてはやや逸脱した、強い現実感覚にひしがれた、淡いノスタルジーに支えられた遠景や約束であるのにもかかわらず、抑えきれず共感してしまう説得力がある。文芸の世界で生活することが、自分ではない何者かを演じることが、あくまでも日常生活者としての夢や憧れへの献身であるかのように錯覚させる。それはやはり、彼女が、高貴であり情熱的である強い魂の内に、普遍的な日常の香気を懐き、放つからである。だから、ファンは濃密な夢のつづき、文字どおりハッピー・エヴァー・アフターへの招待を望み、アイドルの書く物語に没入してしまう。
その夢の一つが、アイドルの枠を乗り越えた、演技、舞台、役者への道である。

生動する状況の中で、登場人物がその条件と戦いながら自己の可能性を押し広げてゆくような小説が読みたい、という希望は、反時代的にすぎるだろうか。

福田和也 / 作家の値うち

メジャー・デビュー後、いまひとつ方向性の定まらない乃木坂46の岐路を打ち払い、グループの物語性を決定づけたのが『君の名は希望』であり、アイドルとの出会いをひとつの希望として描いた同作を通し乃木坂の多くの少女がアイドルとしてのアイデンティティを確立させ、飛翔した。生田絵梨花もその一人であったが、彼女はそれを、『君の名は希望』を映像=演技によって語り直した『何度目の青空か?』において、そのセンターに立った日を最後に、転回させる。アイドルの”ジャンルらしさ”との決別であった。
彼女が並ではないのは、役者、女優、ミュージカル歌手としての日常を羨望し、自身の夢に忠実になることで、乃木坂の主役になることを断念したそのストーリー展開が、彼女の夢の世界のみならず、アイドルシーンの限界をも拡充し、今日のアイドル観、その狭い多様性を打ち破り、可能性の幅を押し広げる結果へとつながった点にあるだろうか。乃木坂46=アイドルという条件のなかで、自分のほんとうの夢を追い求めつづけ、その「夢」に果敢に手を伸ばす行為が結果として乃木坂46の、グループアイドルの価値を押し上げるというストーリー展開に、このアイドルの、生田絵梨花という人の本領・魅力がある。
その転回の象徴の一つが、ユーモアの欠落、になるだろうか。生田絵梨花というアイドルの飛翔を裏付けた資質の一つにユーモアがあったことはまず間違いない。夢の前に立ちはだかる壁をわき目もふらず掘り進む力強さから伝播する信頼感を下敷きに、生まれ持った自己認識の強さ、強烈な自己肯定のもとに描かれるその日常の仕草・立ち居振る舞いをユーモラスな光景として映し出してしまえるところなどは、比類がなかった。ファンは、次の瞬間に何が起こるのかまったく予想のつかない不安と興奮に浸ることができた。ファンは、彼女の夢に乗る、と誓ったし、仲間のアイドルは、生田絵梨花のようなアイドルになりたい、と憧れを抱いた。
そのユーモアを、彼女は舞台に立つ日々のなかで欠落してしまったのだが、そこに見る名残、痕跡こそ、生田絵梨花が「グループアイドル」の枠組みを貫いた証なのだ。
役者と真に呼べるようになってからは、用いる言葉、特に「文章」を書くことに意識的なアイドルになった。演劇に向けた解釈と感性を、アイドルを演じる日常に落とし込むことが「アイドル」を卑小に映すのではなく、より大きく見せた。夢に忠実であることで大事な何かを失ったり、傷ついたりすることが、成長を映すばかりでなく、アイドルという概念、その外殻を破砕してしまった。
その歩幅の大きさをして、アイドルの卓越化=ディスタンクシオンを叶えた希有な登場人物である、と称賛すべきだろう。自己を卓越化することがグループの価値を押し上げることにつながる。この点が最も壮絶である。もちろん、彼女の躍進は演劇の世界のみにとどまらず、たとえば、今日、シーンの話題を独占する乃木坂46の写真集の快進撃、その口火を切った存在としても「生田絵梨花」の名を挙げることができる。

グループアイドルにとっての努力とは、困難な目標を仲間と共に成し遂げた際、喜び安堵する仲間を尻目に、もう次の、新たな壁を登るための準備を始めるような行動を指すのだと思う。生田絵梨花は努力ができる数少ないアイドルだ。自己超克と呼ばれる行為は、周囲に疎ましさや息苦しさを与える場面も少なくはないはずだ。自己の卓越化を叶える生田絵梨花にあって他のアイドルにないもの、それは無理解に囲繞され孤立してもなお、歩を進めることのできる独断力ではないか。アイドル・生田絵梨花は犀の角のようにただ独り歩む。孤独や孤立感こそが、文芸という「虚構」を作り上げると熟知しているから。

 

2023/05/06 タイトル、本文の編集を行いました(初出 2019/08/26)