乃木坂46 バンドエイド剥がすような別れ方 評判記

のぎざか, 楽曲

(C)バンドエイド剥がすような別れ方 ミュージックビデオ

「リグレットはカットアウト」

歌詞について、

5期生楽曲。センターで踊るのは菅原咲月。
ひと夏の恋、をうたっている。一瞬で通り過ぎた季節の、短いがゆえに鮮明に残された記憶を通して、自分の本音がどこにあったのか、という若者の視点に還ったリグレットを詠んでいる。
バンドエイド剥がすような、という、あられもない、幼稚な表現を用いる一方で、音韻探りとシラブルの組み立てに疾走感・衝動があり、なかなかの手腕が発揮されているようにおもう。構想のバランスがセンターで踊る少女の持つ空気感、幼さがすでに面影になった16歳の少女の、大人びた雰囲気、佇まいを上手に活かしているように見える。あっという間に通り過ぎていく日常の様々な場面に潜行した後悔の種に気づくことができない青春の時代真っ只中にある少女に、青春のリグレットを予め歌わせておく。ここに作詞家・秋元康の啓蒙力があるのだろう。アイドルを卒業した日、はじめて、彼女は自分がセンターに立ち歌った楽曲の、その歌詞の意味を理解するのかもしれない、という物語を編んでいる。
もう一つ。詩作における、韻を踏まなければならないという制約における「主題の倒錯」がよく現れている点もおもしろいと思った。
韻を踏むとき、当然だが、まず主語・主題があって、次にその主題にあわせた語彙を引き、音韻あわせを試みるはずである。問題は、それがどのような思惟のもとに選ばれても、主題にあわせ用意された語彙である以上、主題に秘めた思惟とのあいだに径庭を生じてしまう点にあるのだが、最も興味深いのは、しかしそうして用意された主題とは別の語彙・思惟の内に作家の本音が現れることが多々ある、という点である。たとえば、今作『バンドエイド剥がすような別れ方』の主題が青春のリグレットであるならば、その「リグレット」にあわせるために準備された「カットアウト」や「フェードアウト」の中に作詞家の本音があるのではないか、と読んでみるのもおもしろい「遊び」になるのではないか。

ミュージックビデオについて、

まず、色使いが良い。紫とは別の、もうひとつの菖蒲色をグループにあたらしく加わった少女たちに纏わせ、またその淡い青色の衣装とライブステージが夏ソングのイメージと合致している点に作り手の高いセンスを受けとる。本篇に合流するまでを描いたスピンオフドラマのような趣きを持った、「乃木坂」と「5期」を接ぎ木するような役割を持った映像だと感じる。なによりも、センターに選ばれた少女が魅力的に映され楽曲の価値をしっかりと底上げしているところが素晴らしい。
センターに立てば、主役に選ばれれば、誰にでも主人公感が宿りそれを鑑賞者に向かって投げつけるというわけではない。才能と云ってしまえばそれまでだが、この青に染まったミュージックビデオを眺めれば、多くのアイドルファンが菅原咲月を個性的な、なにかの物語の主役として描かれるべきひかりを帯びた登場人物だと、意識的にしろ、無意識にしろ捉え確信するのではないだろうか。
また、ステージの中央で儚げに歌い踊る菅原咲月だけではなく、その両燐、背後で踊るアイドルのパフォーマンスにも目をみはるものがある。とくに一ノ瀬美空のつくる笑顔、動作は、そのすべてがしなやかで新人アイドルらしからぬ存在感を放っている。ファンの想像力を試す、というよりも、ファンの想像力に委ねるような、そんな笑顔とダンスを編んでいる。
とはいえ、MVの構図に不満がないわけでもない。
アイドル=夢を通して少女たちが絆を編むというストーリー、どのような序列闘争、順位競争の場に置かれても、おなじ夢、高い志をいだくならば絆は編まれるのだという純粋さ、アイドルの魔力を描こうとするドラマは魅力的に感じるが、そのアイドルの世界=ダンス場面へと展開させる手段が「スマートフォン」である点はアイデアに乏しく、ひどく安易に感じる。これだけ素晴らしいステージ・舞台を組んだのだから、ステージの上で踊るアイドルだけを撮す果断さがあれば、傑作になったのではないか。


歌唱メンバー:井上和、一ノ瀬美空、菅原咲月、小川彩、川﨑桜、冨里奈央、奥田いろは、中西アルノ、五百城茉央、池田瑛紗、岡本姫奈

作詞:秋元康 作曲:A-NOTE、S-TONE 編曲:A-NOTE、S-TONE