SKE48 矢神久美 評判記

「本物の天才」
実力者であることは悲しい、なぜならば、彼らは、盟友に欺かれた者たちであり、自ら誤った者たちであり、天にあまりに無残な仕打ちを受けた者たちだからである。
福田和也/総理の値打ち
矢神久美、平成6年生、SKE48の第一期生。
おそらく平成のアイドルのなかでもっとも優れた表現力の持ち主であり、自己の日常のデティールをカメラの前で再現してしまえるその力量は、天才と呼ぶに値する。
無邪気であり無警戒であるという、日常生活における自身の表情の一切を歪めることのない彼女の演技は、矢神久美の名を知らない人間がなにかのきっかけでそれを眺めたら、矢神によって演じられたその役のキャラクター性が、演者自身の性格であると錯覚するのではないか。矢神は、自身の生身、言わば素顔を切り取り、フィクションを編むタイプの役者ではないが、自身の日常の香気を保った演劇を作る。それを眺める者をして、演者の日常が溢れている、と思い込ませる、そんな演技をする。たとえばそれは、『誰も知らない』を演じた、当時の柳楽優弥と響き合う悲痛さ、どれだけ演技を作ってもそれは演者の日常の利用でしかなく演技などではない、と観客に嘆かれてしまうような、悲痛を抱えており、才能という表現ではとても収まりきらない、つまり天才や本格と評するのがもっとも妥当と感じる。
こういうひとは、とにかく、前のめりになりやすい。靴紐を結びながら歩き出そうとしてしまうみたいに、自我を置き去りにする。とくに矢神はドラマツルギーを嘲笑うかのように、冴え渡った意識の内に、役を演じ分ける。映像演技の”上手”と云えば、まず乃木坂46の伊藤万理華を思い浮かべるが、伊藤が映像世界の範疇に限定して演劇=嘘を作ったのに対し、矢神には、日常を利用した演技を作り物語ったその映像を、そのままもう一度現実世界で映し出すような、不気味さ、ヌエ的イメージが宿っている。矢神久美というアイドルにどこか多様性の欠落を見出し、アイドルを演じる暮らしのなかで徐々に人格が壊れていくように感じるのは、現在、眼の前に立つ矢神の表情が、演じられた”役”なのかどうか、常に判別できないからだ。常に、今眼の前に映されたアイドルが、前回の演技のつづき、あるいは、模倣である以上、その演技の堆積が厚くなればなるほど、アイドルに、底知れないもの、が宿るわけである。
演技ができるひとは、ダンスも上手い。作詞家兼プロデューサーである秋元康の詩情と私情の上で踊るグループアイドルであれば、否定しようのない結実である。ダンスが人格にまで昇華された、矢神久美のライブパフォーマンスが他の多くのアイドルを圧倒し末端的キャラクターに押しやる原動力とは、やはり、彼女の演技にあるのだ。矢神にとってのダンスとは、舞台・演劇と緊密に絡んだフィクションなのだ。
ステージの上で舞い、踊る、グループアイドルを眺める際には、幻想としてのアイドルの日常と、そのアイドルを演じる少女の日常の二つを合致させ、ひとつのフィクションとして読むのだが、矢神久美の場合、どちらの日常も本人であり本人ではないという、パラレルワールドに遭遇したかのような、眩暈におそわれる、アイドルのストーリー展開がある。ゆえに、アイドルの素顔にたどり着くまで、途方もない距離を想わせる。だからこそ、トップアイドルの魅せるストーリーには一歩及ばなかったのだと思う。あと一歩という距離は実は一番遠い、と云った批評家がいるが、矢神もこの格言に囚われるアイドルの一人だろう。
この、虚構の曖昧化や自我の喪失の気配によってファンに眩暈をあたえる点、才能の大きさは、西野七瀬、平手友梨奈といった、アイドルシーンの主流に立つ登場人物に比肩する、と云えるかもしれない。だが、矢神久美のアイドルとしての人気・知名度は西野、平手の両者には遠く及ばない。
『強き者よ』でメジャーデビューしてから、実に11作品連続で表題作の歌唱メンバーに選抜される、これはグループアイドルのキャリアとして破格だが、しかし矢神久美はシーンの象徴となるような登場人物ではなく、たとえばAKB48の田野優花と同様、確かな才能・実力をそなえていたにもかかわらず、シーンの主流になれなかった、「時運が味方すれば、」センターの「座についていたかもしれない人物」として、その「可能性を考えること」が同時にシーンの「ポテンシャルを探ること」になるという、「実力者列伝」のノートに名を連ねる、あらゆる場面で繰り返し批評が試みられる人物だと感じる。*1
天与の才を具えたひとりの少女が、矢神久美というアイドルが、西野七瀬や平手友梨奈のように飛翔を描くことができなかった理由は、単純明快である。それは単に、彼女に運がなかった、置かれた境遇が悪かった、に過ぎない。境遇は、生活をつくる。生活は、性格をつくる。境遇は夢見る少女にとって必要不可欠な力、夢に対する探究心、夢に向い走りつづけるための持続する意志を育む。
14才の天才少女に与えられた境遇、たとえば彼女の周りに立つ人間の、彼女に対する眼力は確かなものではあったようだ。同業者、ファンだけでなく、作り手連中も、彼女の才能を発見し、引かれていたようだ。ただ、松井珠理奈、松井玲奈、という大きな需要を前に、矢神久美というアイドルを物語の主役に置く、という選択肢を持てなかったようである。
しかし、需要を充たす、とは、すでにそこにあるもの、を充たす行為だけを云うのではない。需要とは、まだそこにはないもの、を見出し、差し出す行為でもある。その行為は、ファンだけでなく、アイドルを演じる少女の欲求も強く充たすことだろう。当時のSKE48には、そうした行為、選択肢を見出すことができる作り手が一人もいなかったようだ。やはり、矢神は、運の女神に愛されなかった、と云うしかない。
総合評価 78点
アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物
(評価内訳)
ビジュアル 14点 ライブ表現 17点
演劇表現 18点 バラエティ 14点
情動感染 15点
SKE48 活動期間 2008年~2013年
引用:*1 福田和也/総理の値打ち
2022/05/09 本文を大幅に書き換えました