SKE48 矢神久美 評価

SKE48

矢神久美 (C) SKE48

「壊れゆく人格」


演劇力に関しては、アイドル史全体でみても間違いなくトップクラスの資質の持ち主だろう。映像作品における演技の実力ならばアイドルの枠組みに収まらず、文芸という世界のなかに放り込んでも、底の方に落ちても、きらきらと輝くはずだ。
矢神久美というアイドルの名を知らない人間がなにかのきっかけで彼女の演技を観たら、矢神によって演じられた役の性格が、画面に映し出された人格が、そのまま「矢神久美」のものであると思い込むのではないか。矢神久美は日常を切り取り映像の中に置いてくるタイプではないが、日常のディティールをカメラの前で再現していると無意識に思い込ませる才能を持つ役者である。『誰も知らない』を演じた、当時の柳楽優弥とかさなる。つまり、”天才”と評価できるわけだが、このタイプの人間は、とにかく、前のめりになりやすい。靴紐を結びながら歩き出そうとしてしまうみたいに、自我を喪失させてしまう。

矢神久美のような天分とも呼べる演技の才を持つアイドルは、他の分野での資質を見極めるのが困難である。どこまでが劇中劇なのか、判断がつかない。アイドルを演じるなかで、様々なシーンで活動をするなかで、そのシーンに応じた演技をされたら、ほとんど見分けがつかない。アイドルとしての人格が壊れていくように、どこまでがアイドル・矢神久美で、どこからがアイドル・矢神久美の演じる”役”なのか、わからなくなってしまう。突出した演劇表現力の才能は、文芸という虚構の中で彼女が演じるアイドルの全身に、その天賦の才が善と悪という範疇を超えて波紋を広げる。それが、虚構ではなくパラレルワールドにみえてしまうほどに。

彼女のライブパフォーマンスが他を圧倒する存在感を示し、「ダンス」が人格にまで昇華されてしまうのは、その空間に満ちる期待感に応える表情や仕草を作りだす演技の才能を持つからである。だからこそ、トップアイドルの魅せる表現力には一歩及ばないのだと思う。「あと一歩という距離は、実は一番遠い」と云った偉人がいるが、矢神久美もこの格言に囚われるアイドルの一人だろう。例えば、西野七瀬が演じるアイドルがステージ上でみせるパフォーマンスは、演技ではない。それは、心の闇を裸にしてみせてしまうような脇の甘さ、”素顔”といえる。西野の仕草、立ち居振る舞いから導き出される「表現」とは、そこにたしかに存在するが”目には見えないもの”、それを無意識にあぶり出してしまう。風が吹いても、それを目で見ることはできない。感情や時間の流れも、目にはみえない。そこにたしかに存在するのに。しかし、西野七瀬は、ステージ上で”それ”の手触りを我々に感じさせる。この領域に到達するには、演技の才だけでは不可能である。演技とは、音や言葉で、その風の存在を再現し、伝達させようと試みる行為でしかない。才能の種類の違いと云ってしまえばそれまでだが、西野七瀬の資質は先天的なものではなく、後天的なものであることは看過できないだろう。虚構の中でアイドルを演じるというフェーズから、アイドルになりきるという領域に踏み込んだ結果、手にした資質である。”アイドルになりきる”ことは、演技ではない。この違いが、決定的な差が、歴史に銘記されるアイドルになれるかどうか、大きな隔たりになるのではないか。

また、トップアイドルの資質のひとつに「幸運な境遇」がある。境遇に恵まれることも才能のひとつである。境遇は生活をつくる。生活は性格をつくる。それはアイドルにとって必要不可欠な趨勢を見極める力、なによりも持続する意志を育む。10代でデビューするアイドルにとって、与えられた箱庭の世界での生活は、攻城兵器に包囲され、兵糧攻めされる「城」のように、狭い。

苦楽をともにする期間が長くなればなるほど、信頼度が増すと同時に親密度も増すのは人の常である。それが、何かのきっかけで、親密度の限界を超えて「甘え」に変わるのだ。甘えとは、それがほんの少し進んだだけで、日本語で言う「図に乗る」に変わる。であるからこそ、それへの対応しだいでは、単なるストライキが反乱に一変する危険性を内包しているのだ。… 備蓄はまだ充分にあったが、人間は、それが実際に底をつくよりも、底をつくことへの不安で動揺する。まず動揺したのが、原住民の参加兵たちである。止まらない出血に似た脱走がはじまった。

塩野七生「ローマ人の物語Ⅴ」

生き残ろうとする意思は、動揺となって誤った選択を強いるのだろう。

 

総合評価 79点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 19点

演劇表現 19点 バラエティ 12点

情動感染 14点

 

SKE48 活動期間 2008年~2013年
引用:見出し ウォーキング・デッド

評価点数の見方