SKE48 斉藤真木子 評価

斉藤真木子(C)AKS /oricon ME inc.

「涙に咲く花」

斉藤真木子はSKE48の第二期生であり、二代目キャプテンである。筐体に投げつけられる「涜聖」というクリティークによって、アイドルのジャンルらしさの喪失を通過したが、それが「堪能」に値する”ダンスパフォーマンス”へと結実している。グループアイドルにとっての”ダンス”の巧さ、美しさとは、幻想の矛先に選ばれた「少女」の物語を「少女」の身体の動きから辿れるかどうか、という一点にしかない事実に斉藤真木子の踊りは直面させる。
「キャプテン」については、横山由依の『パクス・ロマーナ』的物語、桜井玲香の『人間喜劇』と比較すると、
斉藤真木子の物語は未熟ではあるものの、彼女からは机上の空論など嘲笑うかのような個人的体験に裏打ちされた確固たる信念と切迫を感じる。それはやはり、SKE48のイデオロギー=家郷、その箱庭の内部で起こる逼迫や外郭の牢さによって育まれた資質なのだろう。彼女はすでに、他のグループのキャプテンたちが到達していない閾(フィクティブな批評空間)に踏み込んでいる、と云えるだろう。

アイドルのビジュアルとは、あらゆるシーンにおいて「入口」として機能する。機能してしまうものである。「人間は外見ではなく、内面だよ」などという科白はあまりにも無邪気であり、成熟した大人を自覚するのであれば決して人前で口にしないことだ。外見とは、内面の足跡である。内面の醜さは外見に滲み出るものである。一般的なアイドルはこのしみ出てくる素顔をあらゆる手段(演技)を用いて隠蔽するものだが、SKE48のアイドルは違う。彼女たちは観なくてもよい素顔まで、自らすすんでさらけ出す。
SKE48に所属するアイドルからは、矜持への独特な自覚を強く感じる。そこには女性が持つべき奥床しさなど微塵もない。欠如というよりは、欠落している、と云えば良いか。(アイドルとしての)矜持の不在と表現してもよいくらいだが、あくまでも、アイドル本人たちは確固たる哲学と美意識への強烈な自覚があるようだ。つまり、客観性が欠如し倒錯している=勘違いが起きているということである。そして、この「勘違い」が彼女たちの兼ね備える資質、魅力を増幅させるのである。

彼女たちの物語の書き方は、京極夏彦の小説のような、真っ白な原稿用紙を登場人物の外見、内面の描写で隅から隅まで埋めていく、そんな光景に似ている。第6期生以前のSKE48の大多数のメンバーは、とにかく心情を吐露して隙間を埋めていく。ファンにパーソナルな情報のシャワーを浴びせかける。すべてをさらけ出してみて、自身を囲繞する人間たちが、一体どういう反応を起こすのか観察している。リアクションをみて検討に入る、というスタイルである。例えば乃木坂46はこの姿勢とは対岸に位置する存在だろう。彼女たちが標榜するのは「秘すれば花」である。

すでに六百年前に、世阿弥は「秘すれば花」と云った。ただ花を花として書けば、花が立ち現れるという安易な意識からは、やはり本質的な文学など現れはしないだろう。

福田和也「作家の値うち」

SKE48の、常に花を花として描き続ける行為。すべての感情をさらけ出す行為は、他人に自分がいかにちっぽけな存在であるのか、才能も何もない平凡な人間であるのかを、看破されてしまうリスクがある。表舞台に立つ者のみが味わう覚悟と決心の要求。そこにどんなリスクを孕むのか。人は、独力で一つの問いを導き、独学で答えに到達したと自覚できた時、それが如何にマヌケな勘違いであったとしても、その人物にとっては揺るぎない真理となる。つまり、一度でもファンに「このアイドルからは深い魅力を感じない」と決めつけられてしまったら、そこから挽回することは、不可能だろう。何故なら、もう既に、すべてをさらけ出してしまったあとなのだから。もちろん、そのリスクを負ったことによって(そのようなリスクを負わなければ得られない)得る対価も大きい。それはファンとの絆である。

「純文学とエンターテイメントの違い」

概して、SKE48に所属するアイドルの多くは、文学タイプではなくエンターテイメントタイプのアイドルと云える。両タイプの違いは大島優子、山本彩の項で述べた通りである。批評家・福田和也の言を借りるならば、エンターテイメント系のアイドルは、ファンに「快適な刺激を与え」ファンを「気持ちよくさせ、スリルを与え、感動して涙を与える。健康的なビタミン剤である。」純文学タイプであるアイドルは「本質的に不愉快なものであり」、ファンを「いい気持ちにさせるのではなく、自己否定、自己超克をうながすような力をもっている。致命的な、しかしまたそれなしでは人生の緊張を得ることのできない毒薬である。」(*1)

もちろん、どちらがアイドルとしてあるべき姿なのか、などというイノセントな科白を置くつもりはない。SKE48のアイドルたちにエンターテイメントを感じるのは彼女たちがフィクションを作ることに意識的であり、それが求心的なストーリー性の可視化に成功するからだろう。

SKE48に所属するアイドルが描くフィクションの命題とは、やはり「闘争」だろう。オランダ人が3人集まると議論が起こるというが、SKE48のアイドルが3人集まれば、(彼女たちが望むにしろ、望まぬにしろ)そこにアイドル論に対するディベートが、闘争が巻き起こるのではないか。ストーリーが生まれるのではないか。それが少女が憧れた奇跡=夢との遭遇ではないのだとしても…、立ち位置がもたらす威圧感や圧倒的な経験値による哲学の披露に俯き落涙する者、嗤いながら屈辱を噛みしめる者たちの交錯。彼女たちの闘争や論争こそ、グループアイドルがみせる舞姿の本質と云えるだろう。熾烈な縄張り争いこそ、ファンの目にはうつしく儚いダンスに映るのだから。実りある時間を、物語を共有することによってはじめて、アイドルとファンは傷だらけの絆を獲得する。それが通史を書く、という行為につながる。この概念を一言で説明するのは難しい。共闘関係、同盟関係とも異なるニュアンス。古代ローマ時代でいう「クリエンテス」が一番フィットするだろうか。クリエンテスについては、ウィキペディアを引用してみよう。私が学んだ歴史解釈とはすこし異なるが、大筋では合意できる記述である。
ここでいうパトロヌスがアイドルであり、クリエンテスがファンのことである。

クリエンテスはパトロヌスとの私的な庇護関係(クリエンテラ、パトロキニウム)における被保護者を指すが、一方向な保護者被保護者ではない。パトロヌスはその地位などを利用してクリエンテスに様々な便宜を図る。一方クリエンテスもパトロヌスに対して選挙運動など様々な助力をする義務を負う相互扶助関係である。例えばパトロヌスは普段はクリエンテスに経済的な援助をするが、パトロヌスが困窮した場合はクリエンテスたちが資金を出し合ってパトロヌスを援助した。両者の関係は信義に基づくものとされ、一方が落ち目になっても見捨てることは名誉を損ねることであり、この縁は世襲のものであった。(Wikipedia/クリエンテス)

ここまで書いて、やっと、斉藤真木子の物語に立ち戻る。
SKE48のキャプテンであり、デビュー8年目にして初選抜入りをするなど、再現性の低い、稀有な物語を書いた斉藤真木子だが、彼女がファンと上記で述べたクリエンテスという関係を築けたのかというと、皮肉か滑稽か、そこには疑問符が付くのだから、アイドルが直面する不条理、不義理とは興味が尽きないものである。涙で咲いた花は、翌日にはもう萎れてしまっているのだから。

 

総合評価 60点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 13点 ライブ表現 15点

演劇表現 9点 バラエティ 14点

情動感染 9点

SKE48 活動期間 2009年~

引用:(*1)福田和也 作家の値うち

評価点数の見方

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