乃木坂46の『Monopoly』を聴いた感想

ブログ, 乃木坂46

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「作家が成長するということの意味」

みんなにやさしい君に腹が立つ

秋元康/Monopoly

乃木坂46の34枚目シングルのタイトルは『Monopoly』。
Monopoly、モノポリー、なかなか洒落ている。去年の今頃、齋藤飛鳥の卒業シングルである『ここにはないもの』がライブで初披露されたが、今作品も当時と似たようなシチュエーションをもって初披露された。とはいえ、『ここにはないもの』がクリスマス=冬をイメージさせたのに比べ、『Monopoly』にはこれといって季節感を覚えることはなかった。この点は、残念におもう。作詞家にしても、作曲家にしても、作品そのものを鑑賞者にとっての「季節」にするような、試みがあってしかるべきだと僕はおもう。

まず、ライブパフォーマンスについて、
遠藤さくら、賀喜遥香のダブルセンターは魅力的だった。たとえば西野七瀬、齋藤飛鳥のダブルセンターと同じくらいのワクワクがあった。踊りも悪くない。表情が特に良かったのは、川﨑桜、井上和、黒見明香の3人。山下美月と久保史緒里はやはりもう旬が過ぎているように感じる。ただ演技しているだけにしか見えない。
衣装も良かった。遠藤さくら、筒井あやめなど、アイドルのそなえもつ魅力を上手く引き出している。休業のため「選抜」から外れてしまったが、金川紗耶が着ても良く似合うんじゃないか。
気になったのは、楽曲の最序盤でありながら、センターではないメンバーがセンターとして長く映し出されている点。ダブルセンターということで、当然、中央が空く。そこに2列目の中心に立つ井上和が覗ける、という寸法なのだが、この構図がセンターの価値を引き下げているように感じる。
センターが楽曲の主役であることは間違いない、はずだ。だからみんな主役になろうと眼をギラつかせる。だから順位闘争が熾烈になる。その闘争を勝ち抜いた、一握りの、天意に恵まれた少女しかセンターには立てない。だから、センターには価値がある、ということになる。この芝居じみた、時代錯誤の憧憬を無視して、センターではない少女をセンターよりも目立たせてしまうと、センターへの憧憬が薄れてしまう。つまりセンターの価値が落ちる。とまあ、こうした感慨はただの建前、理屈、文章でしかなく、単純に、センターじゃない奴がセンターに立っていたら、ムッとするよね。それがファン感情ってものだよ、と僕は思うのだけれど。
こういうバレバレの手を使うなら、正々堂々と井上和を連続でセンターにするべきだと思う。3作でも5作でも、卒業するまでセンターをやらせたっていいくらいの逸材なのだから。作り手は、作品をつくる、ということにたいして、もっとプライド・覚悟を持つべきだと思う。今作の、主役は誰ですか?

次に、歌詞について、
モノポリーを、恋愛における「独占」として準備し、語っている。
恋愛において意中の人を独占したいと考えるのは、ごく自然な感情だ。でも実際には、人が人を独占することは叶わない。身体を縛ることはできても、気持ちを縛ることはできないからだ。両想いになって付き合うことになると、人と人だから、かならず打つかり合う場面が出てくる。他人の考えを受け入れたり、受け入れずにそのままにしておいたり、どこかで折り合いをつけながら人は他人と付き合っていく。独占するなんて、とてもじゃないができない。できるとすれば、それは片想いという妄想の中でだけだ。
仮に今作品が妄想をテーマにした作品だとして、その前提に立ち歌詞を眺めてみると、なかなかどうして、気味の悪い歌詞に思えてくる。たとえば、「みんなにやさしい君に腹が立つ」という部分。これが空恐ろしいのは、片想いのなかでいつの間にか両想いになっているからだろう。彼女は”まだ”自分のものになっていないのに、すでに嫉妬している。たとえば、恋愛をとおしてアイドルを眺める人間にとっては、アイドルの笑顔から活力を得る、などという文言は詭弁でしかない。”彼”にしてみれば、みんなに笑顔を振り撒くアイドルを前にしてまず抱くべき感情は、嫉妬をおいて他にない。アイドルが自分のものになることは絶対にあり得ないのに。
こうやって考えてみて思いつくのは、今作の詩情もまた、アイドルとの出会いを描いた『君の名は希望』のシチュエーションを下敷きにしているという点だ。今作を、校庭の片隅に座り込んでいた”僕”に希望を与えた彼女にたいする、”僕”の日常の嫉妬として眺めてみるのも一興ではないか。
いずれにせよ、この”僕”の妄想が行き着く先に「おひとりさま」があるのならば、作り手にしても、ファンにしても、前作品を引きずることになる。メロディにも、そうした気味の悪さを助長・表現する箇所がある。最も気味が悪いのは、こうした妄想を、こと恋愛においては、きっと、誰もが抱くであろうという点だ。

最後に、作曲家について、
杉山勝彦らしさ全開、といった印象を、多くのファンが抱いたのではないだろうか。しかし一見しただけでも、『沈黙した恋人よ』や『ありがちな恋愛』当時に陥っていた自己模倣の繰り返しから抜け出ていることを確信させる。自己のスタイルを守りつつ、新しい作風、と言うか、文体を、自分のセンスのなかで調整しながら、考え作っている。作曲家もまた小説家となんら変わりのない作家だということを、僕たちファンはつい忘れてしまうのだが、杉山勝彦はその事実を思い出させてくれる。音楽の中で、しっかりと、物語を作っている。
作家は、売れるまでの期間に書き溜めた作品と、売れっ子になってから書いた作品とで、文体が大きく変わることは、よくある。むずかしく考えることでもない。若い頃にかっこいいと思っていたものが、大人になってダサく感じてしまうあの瞬間と似たようなもので、自分の過去の作品が急に幼稚に思えたり、自分自身でも意味がよくわからなかったり、目を背けたくなる瞬間に、作家は、かならず出くわす。それは天才でも変わらない。たとえば、大江健三郎や村上春樹の初期の作品は詩的表現に満ち溢れているが、専業作家になってからは、詩的であることからどんどん遠ざかっていった。村上春樹の文体・憧憬が、カート・ヴォネガットからドストエフスキーへと、形を変えたのは、あらためて説明するまでもないし、大江健三郎にいたっては、全集の刊行に際し、過去の人気作品を削除するなど、徹底した行動力、偏執を見せている。
要するに、大人になった、ということなのだけれど、こうした現象を前にして江藤淳は、歳をとると文章が長くなる、説明的になる、と嘆いたりもしている。詩的にやることは、体力が要るのだ。杉山勝彦の音楽に触れると、口腔に乃木坂らしさがあふれるのは、乃木坂らしさの核となる一方を担ってきた作家の手による作品だから、というだけでなく、「乃木坂46」を考え作品をつくることが、より説明的になってきているからだ。『君の名は希望』をもって、アイドルシーンの寵児となった杉山勝彦だが、あれからもう10年経つわけだから、作家の考え、生き方、有り様が変わらないわけがない。人として、成長していないわけがない。乃木坂の初期の作品と新作を聴き比べれば、作家がどのような成長を果たしたのか、想像できるんじゃないか。
もちろん、初期の作風がよかった、と嘆くファンだっているはずだ。でも作家からすれば、現在の作品が自己のキャリアにおいて最高の質だという自信がある。そしてその「自信」が、たとえば生田絵梨花の卒業ソングなど、ここぞという場面で会心作を生むのだ。

 

2023/11/15  楠木かなえ