センターの値打ち 乃木坂46 編

はじめに
「センター」に点数を付けてみたい。遊び心がまた湧いた。と同時に、『ローマ人の物語』や『奇妙な廃墟』のような、妄想の飛躍を記したい、と無謀な欲も出てきた。書き始めてみると、これは”思いつき”の範疇をはみ出している、とすぐにわかった。妄想を飛躍させた文章を作品として両足で立たせるには細部の事実を支えにしなければならない。情報の価値を読み、かつその価値をまったくあたらしい別の価値にぬり替えなければならない。先人の言葉を痛感した。当記事に関しては「不定期連載」という策をとることにした。
「歴代センターの値打ち」
凡庸、未成熟を必需品とする「アイドル」の起源を辿ると、宝塚少女歌劇に打つかる。今日におけるアイドルの”ジャンルらしさ”、つまりアイドル=成長物語とする共通認識の萌芽があらわれたのは、宝塚少女歌劇が帝国劇場の舞台に挑み「恐怖」に打ち勝った瞬間と云えようか。温泉街にある屋内プールを改装した急ごしらえの舞台で踊っていた少女たちの、その幼稚さや未熟さを「丸出し」にしてもかまわない、と覚悟を決めた日、我々が知る「アイドル」が誕生したのだ。
宝塚少女歌劇の第一期生のスターには高峰妙子、雲井浪子の名が挙げられる。とくに雲井は、歌劇のもつビジョン「清く正しく美しく」を象徴する踊り子であり、宝塚少女歌劇を興した実業家兼劇作家である小林一三の記す物語を踊ることで「アイドル」を組み上げていった。雲井浪子の存在感を、グループアイドルへと引用するならば、そこに結びつくのは当然、アイドルのプロデューサーとしても働く作詞家・秋元康の詩情の中心で踊る少女、つまり「センター」となるだろう。アイドルを演じる少女たちは、言わば作詞家の代弁者であり、その中心に立つ、センターが存在することではじめて、作り手の私情に物語性が宿る。
平成が終わり、令和が始まった現在も、アイドルシーンは「宝塚少女歌劇」の作り出したパラダイムのなかを未だ漂っているわけである。
端的ではあるが、センターの値打ちをはかろうとする矢先にこのようなやや遠大な「射程距離」を持ち出したのは、「アイドル」の概念を組み上げた高峰妙子や雲井浪子に比肩する天才は存在するのか、という視点を得るためではない。センターに選ばれたその少女が一体なにを成したのか、この視点をもっとも優先すべき評価基準として準備するためである。
アイドルグループのセンターに選ばれた少女は、グループの主人公と呼ばれ、グループの「顔」と扱われるのが通例であり、宿命である。センターとは、グループの矢面に立ち、その存在感を示すことでグループの人気・知名度を底上げするだけではなく、その「個」を眺めることが「群」を意識することになるという、高いカリスマ性を求められる存在と云えるだろう。センターの役割・使命を挙げ並べはじめたらきりがないが、そのいずれも以下3点に集約されるはずだ。
センターとは、グループに益をもたらす存在でなければならない。
センターとは、未来のビジョンつまり希望をもった存在でなければならない。
また、センターの横顔をなぞるとき、グループの歴史、物語を辿れなければならない。
当記事では『作家の値うち』を模倣する『アイドルの値打ち』の番外編として、歴代総理大臣の値打ちをはかった『総理の値打ち』を下敷きに、政治の権力闘争のもっとも熾烈な場所に立つ人物を批評するというその試みをグループアイドルへと引用し、乃木坂46の、歴代センターを全員、百点満点で採点する。
アイドルの魅力、存在理由を「成長物語」だとするならば、その成長をもっとも裏付け確信させるもの、それはやはり序列闘争にほかならないだろう。たとえば、人が最高度の成長を感じる、これはどのような瞬間だろうか。それはボロボロになりながらもかつて自己を圧倒した強敵を討ち破ったときだろうか。いや、それはおそらく、手強かった相手がどうしようもなく弱く哀れに見えたとき、つまりライバルだと考えていた相手から自分がいつの間にか遠くはなれた場所に立っていた、と自覚したときではないか。
こうした感慨をシーンに引くならば、平成の「アイドル」の主流になり王者の椅子に座ったAKB48をシーンの表通りから引きずり降ろした乃木坂46、その歴代センターの物語をあらためて読み値打ちを問う、これはなかなかタイミングの良い試みにおもう。
list.
【乃木坂46歴代センター】
生駒里奈(初代) 白石麻衣(2代目) 堀未央奈(3代目) 西野七瀬(4代目) 生田絵梨花(5代目) 深川麻衣(6代目) 齋藤飛鳥(7代目) 橋本奈々未(8代目) 大園桃子(9代目)、与田祐希(9代目) 遠藤さくら(10代目) 山下美月(11代目) 賀喜遥香(12代目) 中西アルノ(13代目) 久保史緒里(14代目)
【実力者列伝】
伊藤万理華 柏幸奈 桜井玲香 中元日芽香 若月佑美 佐々木琴子 鈴木絢音
第一代センター 生駒里奈 91点

「希望を拓いた功績不朽のセンター」
生駒里奈、平成7年生、秋田県出身。第一期生。
センター作品:『ぐるぐるカーテン』『おいでシャンプー』『走れ!Bicycle』『制服のマネキン』『君の名は希望』『太陽ノック』
アイドルグループ・乃木坂46の書き出しの一行目に大書されたのは、やはり、と云うべきか、田舎から上京したばかりの右も左も分からない、都会の洗練とは無縁な素朴さあふれる少女の横顔だった。少女は、後日AKB48への兼任を通じて渡辺麻友と親交を深め、肩を寄せ合い笑うが、アイドルとしては前田敦子の直系である。凡庸でありかつ直感的に過ぎ、衝動としての醜態を描く場面が多く、大衆から批評の矢を浴びた。だが、生まれながらの有徳な人物で周囲から愛された。AKB48を下敷きにしつつ独自路線を貫かなければならない、という能動的ダブルミーニングを内包するグループのメジャーデビューに際し「センター」を担ったのがこの生駒里奈である。以降、生駒は5作品連続で表題曲のセンターポジションで踊り続け、乃木坂46の骨格を組み上げて行く。
その境遇の所為だろうか、あるいは生来の愚直さによるのか、デビューから卒業まで、毀誉褒貶に激しい。少年漫画の主人公のような雰囲気の持ち主だ、という称賛もあれば、乃木坂46の黎明期を長引かせた張本人だとする声も多い。その大衆から贈られる好悪は、生駒の代名詞でもある『制服のマネキン』のヒットや、アイドルとそのファンの邂逅を描いた傑作『君の名は希望』をもってグループの主役から退いた後も止まなかった。やはり生駒は、常に大衆と対峙し精神的孤独を抱え込みながらもアイドルを全うした前田敦子と密着した登場人物であった、と捉えるべきだろう。
センター・生駒里奈のビジョンとは、AKB48のおもかげから乃木坂46を引き剥がし「表現者」として自立させることであった。だが、それは裏を返せば、グループを菖蒲色に染めるためには「生駒里奈」の脱色が必要になる、という事態を意味する。前田敦子の系譜に立つ生駒里奈でなければAKB48に接近することはできないし、その「生駒里奈」の強い個人の価値の堕落を通過しなければ菖蒲の花は咲かない。つまりは昨日と今日では自分がまったくの別人に見えてしまうような、目まぐるしく変わる窮境のなかで一体自分になにができるのか、混迷する情況において少女が自我の寄す処にしてきた素志に綻びが生じた。本懐を遂げることによってかけがえのない家郷をひとり喪失するのではないか、予感が立ち現れた。この倒錯を肌で感じる少女は身を引き裂かれ泣き叫ぶしかなかったわけである。
それでも、彼女のビジョンが自己消却されることはなかった。凡庸さ不完全さを成長への唯一無二の原動力とする教養小説的素質をもった生駒里奈が、AKBグループ主催の組閣イベントに際し提示され、受け入れた、希望の前に横たわる試練。AKB48・チームBへの兼任。この、没落しつつある古い価値をあたらしいアイドルグループに持ち込み継承しようとする試みこそ生駒の遠大なビジョン、守破離の第一歩であった。しかしその希望へと突き抜けようとするストーリー展開が実らせた果実とは、皮肉にも、AKBらしさをそなえもつ生駒里奈と触れ合うことで乃木坂らしさを知る、という教養ではなく、AKB48と乃木坂46の決定的な別離である。それをもっとも簡明に表現した、あるいは表出した作品が12枚目シングル『太陽ノック』である。
『太陽ノック』で克明に描かれたもの、それは、絶対的だったかつての主人公に対する不甲斐なさ、センター・生駒里奈の再登板を歓呼でむかえた同志たちの、隠しきれない苛立ちと抑えきれない同情心である。兼任によって生駒の物語の性質が教養小説からロマン・ピカレスクへと変貌しつつあるなか、乃木坂の地に残された少女たちは、生駒と「交換」された闖入者であり清楚の範を垂れる松井玲奈に刺激を受けつつ、なにものにも邪魔をされない、夢と理想へ純粋に突き進むことのできる希望に包まれ、めざましい成長を遂げていた。白石麻衣、西野七瀬の相対として映し出される、家郷にようやく帰還したエースの哀れなほどの弱さと菖蒲色を裏切る中性さを目の当たりにし、少女たちは一つの時代が終わったことを、いや、すでに遠い昔に終わってしまっていたことをその馴れ親しんだ主人公の横顔に教えられたわけである。もうあの頃には戻れないのだ、という確信において『太陽ノック』はまさしく乃木坂46・第一期生の集大成と位置づけられるだろう。それはつまり、一人の主人公を支えにした物語から脱却した、多種多様な登場人物の横顔を活写する群像劇の本格的登場と換言できる。乃木坂46がAKB48をアイドルシーンの表通りから引きずり降ろした瞬間である、と。
生駒里奈というアイドルの、この癒やされることのない物語は、そのアイドルとして過ごした時間が希望に満ちあふれていたのか、あるいは絶望が勝っていたのか、という狭い視野をもって語ることは到底できまい。生駒は、仲間のアイドルから尊敬こそされるが、憧憬を抱かれる存在ではない。おそらく、だれにも理解されなかったし、共感もされなかった。彼女が背負い育んだ遠大なビジョンを肩代わりすることはほかのだれにもできないからである。第二期生オーディションに先立ち、まだ見ぬ後輩に宛てた手書きの「手紙」にこころを打たれるのは、そこに彼女の、未来を照らすビジョンの一端が記されているからだろう。
卒業センターを辞退するなど、アイドルを卒業するその日まで話題が途切れなかった。
次回につづく(不定期連載)