櫻坂46(欅坂46) 小林由依 評判記

櫻坂46, 欅坂46

小林由依 (C) 欅坂46公式サイト

「物語を自らの言葉で完結させる。」

小林由依、平成11年生、櫻坂46(欅坂46)の第一期生。
アイドルの物語をスタートさせるにあたり、西野七瀬の強い影響下に置かれた少女の一人。ただし、おなじように西野七瀬を模倣する渡邉理佐と並べれば、小林はすでに西野七瀬の枠組みから脱しているようにおもわれる。しかしまた、その脱却を可能とした動機が平手友梨奈の描く幻想への決定的な没入である点は看過できない。やはり、結局は他者が作り上げる偶像へ依存することでしか自身のアイドルを物語ることができないのか、と落胆する。だが幸か不幸か、令和が始まった現在、グループが欅坂46から櫻坂46へ名称を変え、青春が破断した展開に鑑みれば、彼女はようやく、ほんとうのアイデンティティを追求できる環境に、自己の可能性を探る境遇に立てた、と云えるかもしれない。
もちろん、(並みなみならぬ個性を持った人物の影響の下にアイドルを育てたおかげなのか、はたまた生まれ持った資質の賜物か、それはまだわからないが)小林由依がグループアイドルとして多岐にわたる分野でトップクラスの実力を持つことは認めなければならないだろう。とくに、アイドルの物語性、この曖昧な話題に対し冠絶したかがやきを放っていることは。

小説とは書き手と読者との休みないかけひきの産物、というのはウソで、正しくは、小説とは書き手と文字として書かれたものとの休みないかけひきの産物なのだ。
書かれた文章は書き手のイメージの写しではない。そんな幸福で安定した文章は十九世紀までのもので、というか最近気まぐれにモーパッサン『女の一生』を読んでみたのだが、文章が正確に書き手のイメージの写しになっているということではモーパッサンが一番で、ほとんど他にいないのではないだろうか。読みながら、デッサン力と言い換えてもいい描写の的確さに感心しながら、的確さゆえに退屈してきて途中でやめてしまったのだが、その的確さは素晴らしい。
話を戻して、書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る、という意味での「かけひき」だ。

保坂和志 / 小説の自由

小林由依は文章を書くことに意識的な登場人物だ。ブログの冒頭に準備される散文詩のようなものは、アイドルを演じる少女の日々の飛翔が描かれ、一つひとつがよく練られている、と感じる。アイドルの日常の繊細な部分が記されており、カメラの前やステージの上に立つまでのアイドルの空白をうまく埋めている。ゆえに、物語性なるものを容易に獲得している。
モーパッサンの文章や、『女の一生』を小林由依(グループアイドル)に重ねるつもりはないが、「書かれた文章は書き手のイメージの写しではなくて、書き手は半分は書かれた文章からその先を書くヒントを得る」という科白については、これは作家だけではなく、ルーチンワークとしてブログを書くアイドルも、当然、迎え撃たれる。自分とは別のもうひとりの自分を演じる彼女たちは、そのもうひとりの自分の足跡を、ブログに記すこと、文章を考える時間の中で発見し、曖昧にされた輪郭を埋めていくのだ。
また、この「ヒントを得る」の”ヒント”のなかには、文章を書くために用意した「イメージ」をフィクションとして成り立たせるための工具=ウソが含まれている、という点も見逃してはならない。

小林由依の文章から物語性を受信する以上、たとえそれがアイドルの日常の繊細な匂いを記した文章であっても、日常をありのままに写したものとは限らないわけだ。彼女の文章を読むことで彼女の作るアイドル=小林由依に物語性が付されていく。これが可能になる理由は、彼女の書く文章が、自身の日常のイベントをそのままイメージして写したものではなく、なんらかのケレン=ウソを付け加えた散文詩あるいは掌篇であるからだ。*1

アイドルがブログに自身の日常をありのままに記すことができれば、それは文句なく日常の写実と呼べるが、そんなうまい話はどこにも転がっていない。日常の写実を達成したアイドルに西野七瀬の名をまず挙げたいが、彼女が日常の写実に成功したのは、自身の日常のイメージの写しに成功したからではない。彼女がスケッチブックに写したのは、作り手やファンが妄執する「西野七瀬」の日常風景である。要するに、作り手やファンの幻想になりきってみせたのだ。アイドルみずからが作り手やファンのイメージを正確に写すのならば、観賞者からすれば、眼前に立ち現れ動きまわる少女の姿形は、疑う余地なくアイドルの日常そのものであり、結果的に西野七瀬は日常の写実を叶えてしまう。しかも、彼女は、いわばそのウソの世界に唐突に本来の西野七瀬の日常を差し込む大胆さもそなえている。それを目ざとく発見する作り手やファンが驚嘆し、興奮するのは云うまでもない。これが彼女の本当の素顔だったのか、とかれら彼女らはカタルシスに遭遇するわけである。
つまり、日常の写実を安易にアイドルの純粋無垢な営みと呼ぶには躊躇がある、ということだ。ファンの眼前でありのままの自分をさらけ出せているアイドルを純潔やピュアといった形容辞で称賛するのにはそれなりの覚悟がいる、と。たとえば、佐々木琴子丹生明里を純潔やピュアと形容するのならば、強い動機と覚悟を強いられる。よって、ファンにありのままの自分を伝えられる、誤解を買わずに素顔を提出できるアイドルとは、ほとんどの場合、その素顔=真実のなかにウソを付け足している、と捉えるべきだろう。この、ウソを作る、という点においてならば(日常での仕草とブログに記す文章といったアイドルを語る手法の違いこそあれど)小林由依は西野七瀬と響きあっているようにおもう。

文章を書く際にウソをつく、これは真実を覆い隠すための行動と捉えられがちだが、そうではない場合のほうが多いのではないか。なぜウソを作ったのか、考えれば答えは明白で、読者になんとしてでも伝えたいとおもう真実(アイドルの場合、それはアイドルを演じる少女の素顔)があり、それを伝えるための方法として「文章」を選択し、準備したイメージ=「文章」に説得力をもたせるためにウソを付け足すのである。凡庸であればあるほど、自身の身に起こったイベント=変哲もない日常風景(真実)をありのままに書いてみても、それだけで果たして自分の素顔がファンに伝わるのだろうか、とアイドルを演じる少女たちは疑問に打つかるのだ(皮肉なことに、なにも起こらない日常を記したほうが読者はそのなにも起こらない世界に違和感を覚え、そこに隠されたものを探り当てようと必死になるものなのだが、そのような文章を書くには、それなりの資質が求められる。だが、小林由依の掌篇小説のような部分に限って云えば、その短さに頼り、なにも起こらない、なんでもないアイドルの日常風景が記されているようにもみえるのだから、眩暈してしまうが)。壁に打つかった少女たちは、どうかファンに自分の素顔がとどきますように、と願いを込めるようにして文章に味をつける、つまりウソを作りはじめる。伝えたいとおもう心に伝わる文章へと仕上げるためにアイデアをひねり出す。そうやってフィクションが少しずつできあがってゆくのだ。
この、文章を用いてフィクションを作る、アイドルを物語る、という観点において、小林が他の多くのアイドルたちと一線を画すのは、思案の末に書き上げた文章の結構がアイドルの日常を受け継ぎ、なおかつ、その日常風景がファンの日常と通い合うからである。上述したとおり、彼女の文章を読んでいると映像世界やライブステージにたどり着く前の、あるいは観客が去ったあとのアイドルの日常の目線を追っているような気分に浸れる。アイドルの空白部分が埋められて行くような、静かな感興がある。
だがもっとも興趣をそそるのは、この掌篇小説のようなものを書き続ける日々に義務感が割り込み、書くことがつらくなった、と小林が告白している点である。これは彼女にとって、アイドルとしての名声を獲得しようと試みる行為が”カッコ悪いもの”に成り下がってしまった瞬間=端境期を迎えたことへの大胆な独白であると同時に(夢に破れ、あるいはあたらしい夢を追い求めるためにアイドルを卒業して行く仲間に向けて発する彼女のメッセージを読めばわかるとおり、小林由依はなんといってもあけすけな性格の持ち主なのだ)、暗に、ウソを作る行為、アイデアをひねり出す毎日に限界がおとずれたことへの自白とも云えるだろう
。もちろん、裏を返せば、自分にとって一番大事なものを、文章を用いて他者に伝える、という行為に対し、小林由依は並大抵ではない意識のつよさを把持している、つまり職業作家のような意識を持ち合わせている、とも云えるはずだ。
いずれにせよ、彼女がブログの冒頭に記す文章の数々は文句なしに「アイドルの日常」と呼べるフィクションを構築できており、彼女のファンは、彼女のブログを訪問するたびに、アイドルの素顔を探す旅へと出られるのだから、グループアイドルの物語性、この曖昧な話題においては、小林由依、彼女は冠絶した登場人物に映る。比喩ではなく、文字通り、読書体験を得られる数少ないアイドルと呼べる。

デビューシングル『サイレントマジョリティー』の冒頭で活写された、自転車のペダルを漕ぎはじめた小林由依が、ラストシングル『誰がその鐘を鳴らすのか?』において「空白」を埋めるように「物語を自らの言葉で完結させ」たのは暗示に満ち溢れた展開の帰結に見え、ややできすぎのようにおもうが、しかしこのシンクロニシティのような偶然の奇跡をおもわせる物語を描けたのも、彼女が詩的に物語を書く、ということに常に意識的に振る舞ってきたがために起きた、ある種の働きかけに因るのではないか、と想像する。記された文字の連なりに文学のひかりが帯びているならば、どうしたってそれは予言と見間違うような場面を”結果的に”描いてしまうものだ。*2
私などは、小説を書ける人間は文芸の世界でならばなにをやっても成功できる、と確信してしまうが、久保史緒里北野日奈子、そして小林由依、彼女らはそれを証明するのに一役買ってくれる人にみえる、と云ったら、やはり、過褒に映ってしまうのだろうか。

暖房って、一度つけちゃうと
その暖かさから抜けられないんですよね

つけると暖かいけどだんだん暑くなるから消す
でも消したら寒くなるからまたつける
この繰り返し。

このブログを書いている間にも
この繰り返しを3回しました

わたしはこの繰り返しから抜け出せるのだろうか。

あ、今もまた暖房をつけてしまった。

小林由依 / 欅坂46公式ブログ

 

総合評価 67点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 12点 ライブ表現 14点

演劇表現 14点 バラエティ 13点

情動感染 14点

欅坂46 活動期間 2015年~

引用:*1 保坂和志 / 小説の自由
*2 児山隆 /彼女の愛情 または彼女は如何にして愛することを諦めその感情と訣別したか

 

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