小坂菜緒 × 青春の馬

日向坂46(けやき坂46), 特集

小坂菜緒(C)クランクイン!

「蒼ざめた馬」

この人は、弱い。あらゆる「弱さ」がアイドルの隅々まで画かれ、弱さの色彩によってアイドルが組み立てられている。青の馬に跨り、一瞬のうちに通りすぎていく蛇行、偶然、必然、奇跡を編むアイドルのストーリー展開、そこに読むアイドルとしての強ささえも広大なものを収斂させるように「弱さ」を支えとしている。
ゆえに、「15番」としてカメラにはじめて映された瞬間に与えたそのビジュアルの衝撃が小坂のアイドルとしての物語において最高度の輝きとなってしまい、以降、少女が自分ではないなにものかを演じれば演じるほど、雑多な人間との交流を通しアイドルとしての名声をいやますほど、成長と引き換えに「弱さ」の一つひとつが過去に転落して行き、複雑な深みをもったアイドルの魅力が消失してしまった。だが、そこに見出す大きな悲痛、儚さ、昨日と今日では別人のように見えてしまう蒼の喪失感こそ、小坂菜緒の本領なのかもしれない。

その彼女の特質を裏付けた作品が、夢と引き換えに青春の犠牲を強いられ、ひしがれ、もだえることの屈託と活力を歌った『青春の馬』であり、その少女の横顔を前にして尽きない献身を誓うファンという、アイドルとファンの間合い、日向坂のアイデンティティ、アイドルシーンのイコンを、あくまでも陽気にペーソスに表現したこの当作をもって、小坂菜緒の名前はアイドルファンの記憶に残りつづけるだろう。

成熟ではなく喪失こそ彼女の本領だと唱えるならば、当然、小坂菜緒の魅力とはつねに「現在」に在る、ということになるのだが、その点において小坂はきわめて険要である。
西野七瀬のサクセスストーリー誕生以降、ファンに自分の素顔を伝えたい、と渇望する少女がシーンに頻出している。坂道シリーズの商業展開を見てもわかるとおり、自我の模索劇そのものを演じ少女の葛藤を打ち出すことが今日のシーンにおいて重要なテーマになっている。「アイドル」を通して素顔を放り出し、それをファンにみとめてもらうことでようやく少女は自我を獲得するのだ。
ファンの妄執や幻想へなりきることによって素顔の提示に成功した西野に対し、小坂の場合、自身の「現在」とファンを出会わせるために、フィクションに憧憬を抱く少女特有の空想の皮膜、たとえば、ジブリ映画に出てくるような樹木でできた、木漏れ日の差し込む、夢と現をつなぐトンネルを準備している。

ルクレシアに会うためには樹や溝のいっぱいある五つの裏庭を通って行かねばなりません。トカゲのために緑色になっている低い土塀を越えて行かなければなりません。そこでは以前には小人が女の声で歌をうたっていました。アブラハムは犬の吠え声に追われて、強い光の下を金属片のように輝きながら走り過ぎます。やがて立ち止まります。もうその瞬間、ぼくたちは窓の正面に来ているのです。まるで眠っているルクレシアに呼びかけるみたいに、ぼくたちは声を抑えて、「ルクレシア」と言います。

落葉/ガルシア・マルケス

過剰な自意識のもとダンスや文章の中に準備される、アイドルの「現在」へと想到するためのこの道のりは、「小坂菜緒」に辿り着くための冒険として知的なワクワクさを提供すると同時に、アイドルに対し抱いた現実的な憧憬をゆっくりと少しずつ損なわせる。幻想の助けがなければアイドルの「現在」に到達できない、という情況は、玄人筋を喜ばせるものの、その圧倒的なビジュアルをもって引きつけた大衆による好奇心は薄れていくばかりに感じる。事実、『JOYFUL LOVE』の映像作品において、青空を見上げ、風に揺らされ、大きく深呼吸し、物語の主人公に選ばれてしまった人間特有の孤閨を描いたのを最後に、内に秘められているであろうアイドルのあざやかな素顔への想到は困難を極めている。
彼女の素顔を発見するとき、それは往々にして、すでに「過去」になった「小坂菜緒」の内からである。つまり、アイドルの魅力をつねに「現在」とする小坂にとっては、他のトップアイドル同様に用意する、素顔を伝えるために作るウソがアイドルの魅力につながらず、むしろ足を引っ張っている。

その人気、キャリア形成に反し、彼女に対する大衆の好悪をシーンの上にまったくと云っていいほど拾わないのは、かれら彼女らが「小坂菜緒」のことを何も知らないからである。
あるアイドルに対し、大衆が激しく怒るのは、大衆がそのアイドルのことを知りすぎているからである。あるいは、知っている、と錯覚するからである。小坂菜緒が大衆から激しい怒りを投げつけられないのは、彼女がだれにも本音を伝えることができていないからだろうし、アイドル本人もまた、その鋭利で邪推深い予感にもだえているように見える。どれだけ言葉を尽くそうとも、他者に本音を伝えることができたという実感が持てない、という自意識があつめる屈託こそ彼女の「弱さ」の結晶ではないか。

先人のおもかげ、たとえば小坂自身が目標だと語る「西野七瀬」のおもかげを彼女に密着させ、アイドルのストーリー展開を語らうならば、こうした「弱さ」の結晶、つまり夢を前にして宿命的に握りしめてしまう屈託を打ち消すには、職業アイドルとしての夢を断念し、幻想から覚めるほかにないのだが。
平手友梨奈に次ぐ、資質と人気の合致した逸材が、メジャーデビューから一貫して物語の中心に立ち続けた少女が、グループの主役から降りた際に、しかしアイドルを卒業しなかった、「アイドル」を延伸してしまった、という展開から予測するものとは、今後まず間違いなく「センター」に返り咲く光景であり、それはつまりグループアイドルとしてまだまだ起伏を描くという意味であり、この群抜く存在をしても職業アイドルでありつづけなければならないのか、とシーンの現状を前に失望の念を禁じえない。