アイドルとドラゴンクエスト

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(C)DQ4リバスト伝説

「クローンゲームを遊ぶ」

先日、ある編集者が「大江健三郎って、同人作家の親玉ですよね」と云った。そこから引用マニアとして知られるW・ベンヤミンへと話題は移り、引用とクローンについて、盛り上がった。
すると、別の編集者がノートパソコンを取り出し、クローンゲームなるものについて熱弁をはじめた。
クローンゲームとは、要は二次創作物である。キャラクターや物語といったシナリオをふくむシステムそのものを引用することによって、あたらしい世界を作り上げる。その世界は、引用元の世界と地続きになる場合もあれば、並行世界である場合、またはまったく関連性のない別世界と設定される場合もある(当ブログも言うなれば『作家の値うち』のクローンと呼べるだろう)。
しかしながら、名作とされているクローンゲームのタイトルはいずれも原作の世界観に忠実であり、制作者が自分の頭の中にある世界を表現するというよりも、まず原作の世界の再構築が最優先され(自分の趣向を自由に表現できる場で制限を設けるというのは、実はかなりシビアな試みになる)、システム面の瑕疵を改善するといったメンテンス作業を通して、ようやく、自分の趣向に宿るもののうちのどれがこの世界に浸透でき、どれがダメなのか、理解する。説明するまでもなく、この過程を成立させるには、原作に向け、並々ならぬ想いを秘めていなければならないはずだ。それこそ、小説を読み、批評を一本書き上げるくらいの熱量を。
たとえば、『ドラゴンクエスト』のクローンゲームを作ろうと試みるのならば、当然、主人公は喋ってはいけない。明確な意思表示を、動作をもって示してはいけない。これに付随するかたちで、その世界の住人たちの言葉づかい、使用する語彙の選択にかなりシビアにならなければならない。「本編」において、そこで生活する住人たちが口にすることのない表現は絶対に避ける必要がある。やれるけれど、あえてやらない、といった選択に迫られる。
『ドラゴンクエスト』、本作品の凄さ、魅力とは、ゲームブック『グレイルクエスト』のつよい影響のもとに出発し、古井由吉的人称の不在した物語を記し、かつ教養小説を形成するとともに、しかし小説ではできないことを実現している点だろう。テレビゲームだからこそ表現可能なこと、を見事に達成している。まず、主人公は絶対に喋らない。主人公の言葉がそのまま画面に表示される、これはけして起こらない。しかし物語は不思議なほどスムーズに進んでいく。主人公が喋らないことで、主人公はプレイヤーのあなた自身です、といった冗長な説明はなされず、作り手の語りかけによる架空世界の広がりをまえに、プレイヤーは無意識の内に主人公の目線に降り立ち物語に没入する羽目になる……。このゲームは、初制作当時、かなり厳しい制限のもとに制作されたゲームだ、というエピソードは様々なメディアにおいて報道されている。第一作『ドラゴンクエスト』のファイル容量はわずか64KB。おそらく、その制限のおかげで緻密に練られた世界観ができあがったのだろう。語彙の制限があるということは、当然、登場人物の感情表現にも制限が生まれるということである。この感情表現の制限が、むしろユーザーに思考することを強い、想像力が試され、仮想世界がぐんぐんと広がって行った。そして、自分だけの物語が作られ、ある種の自己劇化が完成される。原作のファンに愛されるクローンゲームを作るには、この”凄さ”を丁寧に保存しなければならない。
余談だが、この”凄さ”、つまりは、これまでにはできなかったことができるようになった、という到達点には、批評家として、忸怩たる思いをいだく。本来(本来と云ってしまうとやはり驕りにみえるが)小説家が示すべき姿勢を他の分野の人間に示されてしまったわけだが、なによりもこの事実から、小説家も、小説でしか表現できないことにこだわるべきだ、と啓蒙されてしまう点こそ、悔いるべきだろう。日々、映像化され消化されていく小説に、一体、何を想うべきだろうか。

実際にいくつかのクローンゲームをプレイし、上述した点をクリアできていると感じたタイトルは、やはり、名作と呼ばれ、コアなユーザーに愛されているようだ。ゲーム開始から1分もたたずに原作では起こりえない表現を用いてしまうタイトルに関しては、予想通り、評判は前者と比較するとかなり落ちる。
プレイしてみて”良い”と感じた作品は『DQ4リバスト伝説』『Dragon Quest Ⅲ”』『T-DRAGON QUEST』の3タイトルだ。『DQ4リバスト伝説』についてはゲームクリアまでプレイした。現在は『T-DRAGON QUEST』の”冒険”を本格的にはじめている。また、ドラゴンクエストシリーズ以外では、『EvaliceSaga』の完成度に驚いた。
どこの誰が作ったのかもわからないゲーム。しかもクローンを、最後までプレイできてしまった、というのは自分でも驚く。これは、並大抵のことでは実現されないだろう。『DQ4リバスト伝説』は、原作にあたる『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』の世界を可能な限り忠実に再現し、本編では語られなかった過去の出来事に焦点を当て、小説化されている物語を引用しつつ、なぜリバストが”てんくうのよろい”に固執していたのか、その核心部分を、制作者の譲れないこだわりのもと、清心に語っている。文句なしにアナザーストーリーと呼べる水準の物語が作られており、最初から最後まで飽きずにプレイできた。とくに、リバストの親友であるメルバに対する読者の葛藤を、迎え撃つかのように握りつぶす展開には、なるほど、と舌を巻いた。

(C)T-DRAGON QUEST1

この教材をアイドルシーンへと強引に持ち込むならば、作詞家や作曲家、映像作家は説明するまでもなく、アイドル自身もまた、感情表現やファンのまえで口にする言葉の制限に独自な枠組みを設けることが、むしろ物語性を豊かなものにするのではないだろうか、という可能性の発見である。また、これはあたりまえの前提だが、ファンが抱いているであろう幻想の世界に、アイドルみずからヒビを入れる、というのは絶対に避けなければならない。
さらに砕いて云えば、クローンゲームをアイドルに引くとき、作詞家・秋元康から提出された詩的世界に暮らす主人公にアイドルを演じる少女たちがなりかわるとき、そこに「制作者」が表現しなかったものを明確に付け加える、つまり、クローンゲームの作者が勇気を持って踏み込んだ一歩とおなじような、「本編」では語られなかったなにかを記す、アナザーストーリーを作る、自分だけのこだわりのようなものを発露させる、つまりは表現行為を試みるとおもしろいのではないか。
グループアイドルにとっての自己表現の方法には、乱暴に云ってしまえば、定形からの脱却がある。ただし、定形を脱するのであって、作り手の用意した枠組みを乗りこえるというわけではない。枠組みの破砕とは、これはなかなか評価されにくいし、実は衝動さえあれば、実行容易でもある。むずかしいのは、予め用意された箱の中で、その箱を作った人間の想像の外側に回り込むことだ。ここで、クローンゲームに対する思考経験が活きてくるわけだ。たとえば、『後悔ばっかり』という楽曲の振り付けで、片手で眼を覆う振りがあるが、実際には手を眼の上にかざすだけであり、直に眼を覆うわけではない。ならば、そのあらかじめ準備され決められた行動を破り、実際に、本当に眼を覆ってみたらどうだろうか。おそらく、それが一握りのクローンゲームが達成するアナザーストーリーと同等のもの、つまり表現行為になるのではないだろうか。

2021/02/04 修正、加筆しました

 

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