乃木坂46 アトノマツリ 評判記

のぎざか, 楽曲

(C)アトノマツリ ミュージックビデオ

「アトノマツリ」

ミュージックビデオについて、

山手線の回転を青春の回想にたとえた作詞家のレトロスペクティブな詩情の、その情感豊かなイメージを、やはり情感豊かな色づかいをもって上手に表現している。アイドルが、映像が、しっかりと「思い出」になっている。あるアイドルが、自分以外のアイドルを眺める際に、今作品で言うならば同期のメンバーを眺める際に、自分以外のアイドルも常に「アイドル」であり続けている、どんな場面でも「アイドル」として存在している、という意識のもち方、有り様が作品によく表されているから、そう感じるのかもしれない。
あるアイドル個人がもつ空想に対し現実を突きつけ陥れようとする無粋さ、他のアイドルの個性を毀すようなアマチュア精神を宿したアイドル、つまりグループの価値を損ねるようなメンバーが一人もいないというところに乃木坂46・4期の強さ、魅力があるのではないか、とこの映像を眺めながら、思ったりもする。
乃木坂46でなければ撮れない、撮ろうとすることができない映像、と云えるのではないか。

歌詞について、

電車の揺れ、移動力に逆らわずに、とにかく自ら行動を起こさない主人公の眼に映る、世界の回転、ぐるぐると回る風景を心象風景にすり替えていく、恋愛の機微として語るところなどは、秋元康らしさ、がよく出ている。
ところで、アイドルが(ここでいうアイドルとは当然秋元康のプロデュースするアイドルということになるが)ヒップホップを演じる際に、韻文を作り差し出さないのはなぜだろう。ラップ=韻文とはならないし、ラップでなくとも韻は踏むし、それは歌にかぎらず小説、文章においてもかわらないのだが(散文は、小説の前にある。韻文は、音楽の後に生まれる、ことが多い)、ことヒップホップにおいては、そのジャンルを成り立たせるためには韻を踏むことは絶対に外せない要素・制約だとおもう。情報として、ヒップホップ=韻、とくに、押韻の制約、を取得することは容易だし、詩作において韻を踏むことも、実は、そこまでむずかしい作業ではない。それなのに、なぜ、韻を頑なに踏まないのか。
韻を踏むことのもっとも強い抵抗を挙げるとすれば、それは韻を踏むことによって、つまりノートを開いたり辞書を引いたり言葉を探す行為によって、本来自分がもっていた感情を捻じ曲げてしまう、という葛藤になるだろうか。伝えたいこと、にこだわらなければ、韻を踏むことは容易い。見栄えとして、ヒップホップを成り立たせることは、容易い。才能を試されるのは、伝えたいこと、を曲げずに韻を踏む行為、であり、ある制約のもとに私情を詩情へと編み上げることは、才能がなければできない。
秋元康にしても、こうした葛藤があるのではないか。付け焼き刃で韻を踏むことで、伝えたいこと、が詩情のうちから消えてしまうことを理解している。あるいは、それは「配慮」と換言できるかもしれないが。ヒップホップというジャンルに対する、あるいは自分が立つジャンルに対しても、ある種の配慮がある。だからアイドルがヒップホップの真似事をする際には、それを楽曲として提示する際には、韻を踏ませない、踏まないのかもしれない。だからこそ、今作品の詩情は、秋元康らしさ、にあふれているのだ。


歌唱メンバー:遠藤さくら、賀喜遥香、北川悠理、林瑠奈、弓木奈於

作詞:秋元康 作曲:藤田卓也 編曲:藤田卓也