『君の名は希望』は本当にサカキバラを救えるのか?

座談会, 櫻坂46

(C)自業自得 ミュージックビデオ

「アイドルの可能性を考える 第三十九回」

メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

「櫻坂46の『自業自得』のミュージックビデオを観た感想」

横森:『Monopoly』あたりから欲の出し方を間違えてるよね、この監督。
OLE:若手に刺激を受けてるんじゃないの。それで散漫になってる。特に小道具の用い方が安っぽい。
楠木:テクスト的には、「脱臼」と言うんでしょうね。
島:これを観ると、ダンスって文章と同じなんだなあって、つくづく思いますね(笑)。センテンスを詰めていって高級に仕上げても全体の構成が引き締まっていないと美しくは見えないんですね。
横森:ラップシンガーがスネアとかキックに耳をすませるみたいな、そんなノリだよね。
島:それで生き生きすれば良いんだけど、コンテクストをただ排除しているだけにしか見えない。
OLE:そんなもの最初から無いのかもしれない。
楠木:はじめから無いものをそこに在ったものとして、それを排除したと云うのは、たしかに視点としてはおかしいですね(笑)。ないものはないんだから、なぜコンテクストがないのか、考えたほうが良い。
横森:コンテクストをもたないほうがリピートされるからだよ。
楠木:コンテクストがないのはたしかだけれど、ないはないなりに、作ろうとして失敗しただけにも感じるけどね。
OLE:自分のスタイルを守っているだけでしょう。映像とエクリチュールの話題ではずば抜けた存在なんだから。
横森:そのエクリチュールを「踊り」っていうクリシェの多用で作ってきたから行き詰まっちゃったんだよ。
島:スタイルとしての文体を確立しているなら、それで行き詰まることなんてないですよ。
横森:そうかなあ。
楠木:文体は、思考の方向と言うんですか、決めてくれますから。小説を読んで、その文体をマネして文章を書いてみる。すると思考が本来の自分から外れるというか、普段考えもつかない発想が降りてくることがある。たとえばガルシア・マルケスの文体なんかは多くの小説家にマネされていますよね。『百年の孤独』の文体はフィクションを作るのに格好なんですよ。これは小説家だけの特権じゃなくて、誰にでもできることです。違う人間のつもりになって言葉を作ってみれば、アイデアが湧いたり、悩みが解決したり、するはずなので、試してみるといい。話を戻せば、エクリチュールによって行き詰まる可能性があるのかと問うならば、当然、あり得るでしょう。『静寂の暴力』とは違うことをやらなきゃならないんだから、同じエクリチュールの中で。
横森:今さ、ユーチューブで『自業自得』を眺めていたわけだけど、自動再生で次に”僕青”の曲が流れて、俺は心地よく感じたんだよね。もうそれがすべてをあらわしていると思う。音楽作品としてはあきらかに破綻している。
OLE:センターは魅力あるんだけどね。
横森:それは如何にもアイドルファンって感じの反応だ(笑)。
島:谷口愛季さん?じゃないんですね。
OLE:この子のほうがカラーに合っているんでしょう。
楠木:言葉・文章に魅力がありますよ。経験に鍛えられているというか。僕は推したいなこの子。顔つきも良いよね。眼に力がある。澄み切っていますよ。言葉が身体の動きを作ってる。
島:最近、バレエの特集を組んだのですが、歴史を読んでいくと、ある時期から文学テクストの影響をかなり強く受け始めているんですね、バレエって。フィッツジェラルドやら、D.H.ロレンスやら。なんでかって調べていくと、ただ単純に、当時の若者の夢の一つに「バレエ」があって、その若者のあいだで流行していたのがフィッツジェラルドだったってだけで、じゃあ今の若者の夢に「アイドル」があるなら、アイドルは小説に影響を受けて踊りを作っているのかなって、考えていたんですが、もちろんそんなことはなくて、じゃあなにがアイドルの踊りに影響しているのかと考えても、なにもないんですよ。コンテクストをはじめから無いものとして『自業自得』を語るなら、この作品はそれなりに時代を表しているのかなと、安易にも発想してしまう(笑)。
楠木:アイドルの踊りに影響をあたえるものが社会の中に一つもないというのは、そのとおりかもしれません。アイドルのインタビューを読んでいるとね、ほんとうにくだらなくて、いや、アイドルが、じゃなくて、インタビュアーのことなんだけど、「勉強はどうでしたか?」なんてくだらない質問をしている。幼稚だなあって、思うよね。こういう幼稚な人間に囲まれるからアイドルも幼稚になるんですね。
OLE:アイドルソングが社会を取り込んで反映しようと試みられているってのは大げさでもなんでもなくて、モーニング娘。は説明するまでもなく、AKBにしても初期から取り組んでいることだよね。秋元康の志の一つにあるのは間違いない。『軽蔑していた愛情』とかね。乃木坂で言えば『君の名は希望』。透明な存在というのは、あれは「神戸連続児童殺傷事件」のサカキバラのことを書いているんでしょう。無意識かもしれないが。アイドルをとおして社会を語る、社会に活力を付すことがアイドルの役目なんだと、そういう使命感を作詞家が持つことの現れだね。
島:サカキバラをアイドルヲタクにすり替えるって、かなり際どいですね(笑)。『君の名は希望』は、アイドル=恋に出会ったことで”僕”は救われたんだって歌った作品でしょう?恋愛のパワーで透明人間であるサカキバラが救われるなら、事件の可能性を未然に防いでいるので、間接的に社会をもアイドルが救っているわけですね……。かなりバカバカしく思えてきましたが。
横森:時と場所をしっかりと選ばないと、大恥をかくような考えだね。

OLE:無意識の訴えかけが本当にあるのだとすれば、秋元康の切れ味は、アイドルとファンの仮想恋愛が社会を救うことになるんだっていう正当化を遂げている点だね。アイドルとの仮想恋愛が人生をダメにすると考えるのが一般的な視点で、つまりアイドルヲタクと世間を隔てるものが「仮想恋愛」になる。しかし『君の名は希望』ではこれを逆手にとっていて、アイドルとの仮想恋愛が透明人間であるサカキバラを立ち直らせる、つまりアイドルが社会を救うという可能性のストーリーが起こされている。
横森:起こり得る可能性を消すっていう意味での「救い」としては、上田美由紀も救っているんだよね。上田美由紀ならAKBでトップになれるからね。
楠木:前提として、アイドルをとおして社会を語っていくことはかなり退屈なので、それなしでは語れないという場面を除けば、避けるべきなんだけど、しかし「救う」という言葉は使い方がとてもむずかしい。『君の名は希望』はアイドルと出会うことで救われた、というのを歌ってはいるけれど、その「救う」の読み方を間違えると人間性の薄っぺらさをさらけ出してしまうというか。アイドルがファンを救うというのは、ファンの人生を変えるということではなくて、本来の自分に戻すというのが正しい表現なのかなと、個人的には思います。サカキバラにしても上田美由紀にしても、道を誤る前にアイドルに出会っていれば本人も社会も救われた、といった可能性を示すのは大きな間違いで、アイドルという存在が与えるべきは、現実のサカキバラにほんとうの自分を取り戻させることでしょう。悔い改めろ、と言っているわけではありません。殺人犯になった上で、本来あるべきだったはずの自分を取り戻すきっかけとして「アイドル」があるべきなんですね。言うまでもなく、『君の名は希望』にはそんな力はそなわっていません。物事が起きる前の可能性にたいして音楽がある、というような、そういう考えじゃダメで、すでに起こった物事にたいしてどうなのか、そういう視点のほうが、すくなくともこの話題では、僕は大事だと思う。


2024/06/13  楠木かなえ