塩釜菜那とか、村山美羽とか、雑談

座談会, 櫻坂46

(C)僕が見たかった青空 YouTube公式チャンネル

「アイドルの可能性を考える 第三十三回」

メンバー
楠木:文芸批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回も、アイドルに文学をこじつけアプローチしていく。

「羊を数える塩釜菜那」

僕は二本の缶ビールを飲んでしまうと、空缶をひとつずつ、かつては海だった埋立地に向けて思い切り放った。空缶は風に揺れる雑草の海の中に吸い込まれていった。それから僕は煙草を吸った。
煙草を吸い終わる頃に、懐中電灯を持った男がゆっくりとこちらに歩いて来るのが見えた。…きっと地域施設の警備員なのだろう。
「さっき何かを投げていたね」と男は僕の脇に立ってそう言った。
「投げたよ」と僕は言った。
「何を投げたんだ?」
「丸くて、金属でできていて、ふたのあるものだよ」と僕は言った。
警備員は少し面食ったようだった。「何故投げたんだ?」
「理由なんてないよ。十二年前からずっと投げてる。半ダースまとめて投げたこともあるけど、誰も文句は言わなかった」
「昔は昔だよ」と警備員は言った。「今はここは市有地で、市有地へのゴミの無断投棄は禁じられてる」
僕はしばらく黙っていた。体の中で一瞬何かが震え、そして止んだ。
「問題は」と僕は言った。「あんたの言ってることの方が筋がとおってることなんだよな」
「法律でそう決まってんだ」と男は言った。

村上春樹/羊をめぐる冒険

OLE:後悔といえば、最近、和田まあやがね、ラフ×ラフのユーチューブ番組に出演してバラエティのイロハ、また失敗談を語っていた。彼女にとってのアイドル時代一番の後悔は、カエルを怖がって触れないまま終わってしまったことなんだって。笑いに昇華することができなかった悔しさを今でもよく覚えているらしい。それを見ていて、やっぱり彼女はちょっとズレたままアイドルを続けてきたんだなあと思ったね。和田まあやが一番面白かった瞬間って、カエルを本気で怖がって絶叫したそのシーンなんだけどな。でも本人は正反対に考えている。後悔するにしても、ズレてちゃ意味がないんだな。そういえば、林未梨が辞めてしまったようだね。
楠木:へえ。
横森:今、アイドルにほとんど興味がないでしょ(笑)。
楠木:そうかな?そう見えるってことはそうなのかもしれないけど。林未梨って星野みなみに似ている子じゃなかったかな。覚えてるよ。あとは、「僕が見たかった青空」の配信を見たかな、直近なら。塩釜菜那がね、カメラの前で延々と羊を数えるだけっていう、意味があるんだか、ないんだか、わけのわからない配信。4時間だか5時間、ただずっと羊を数えてる。1000を超えても、2000を超えても、何も起こらない。雑談もなにもない。ひたすら羊を数えるだけ。2500くらいになっても淡々と数えているのを見ていたら、さすがに不気味に思えてきて、おもしろかった。とくに意図はないということが意図になっているので、その意味では「意味」はあるんだけど、あくまでも意図はないので、アイドル本人が一番だろうけど、見てる方もいろいろ考えてしまう。時間が長く感じる。おなじことをひたすら繰り返すというのは思考させるんだなあ、と。これをやったからといってなにがどうなるわけでもないってのは、わかりきっているはずなので。それでもやるっていうのは、まあ「アイドル」が理由になっているんでしょう。4時間以上、ひとりのアイドルを眺め続けたのは、後にも先にも、塩釜菜那だけだとおもう(笑)。
横森:この子、どこかヒステリックなところがある。怒ったら怖そう。
OLE:気を張ってるからそれが伝わってくるんだよ。
楠木:言わんとしていることは、乃木坂の『泥だらけ』とまったく同じで、今自分が打ち込んでいることが自分の将来になんら貢献しないだろうという予感のなかで、羊を数えている。しかもこれはおそらく、アイドル本人よりも、それを見ているファンのほうがわかっている。羊を数えたからどうなんだ、と。まあでもそういうもののほうが「青春」になりますから、もし、のちにヒットすることができれば、成功体験になるわけです。で、そうした成功体験の共有が、1期の強さ=グループのイロになるんですね。
横森:ずいぶん後ろ向きだなあ(笑)。
OLE:新曲がすでに後ろ向きだから(笑)。
楠木:未来=前を見ていないのは明白ですね。昭和歌謡をどれだけ反復しても、将来、未来に生きる若者が過去の歌に価値を求める際には、昭和なり平成なりでその時代にじかに作られた楽曲を探すはずなので、昭和を反復しただけの楽曲にはまるで価値がありません。要するに、『卒業まで』は昭和歌謡というノスタルジーの効力に魅力があるわけじゃない。アイドルが昭和歌謡に佇むことでノスタルジーが引き出されるのならば、それはただ単に昭和=過去に触れている実感が自己の過去を呼び覚ますという喚起につながっているというだけの話で、その「喚起」に魅力があるんですね。楽曲に触れて喚起されるものが「昭和」である必要はまったくないということです。鑑賞者のそれぞれが、個々の過去を喚起すれば、それでいい。

「リップシンクの達人、村山美羽」

地味な翻訳仕事だってインチキなマーガリンの広告コピーだって根本は同じさ。たしかに実体のないことばを我々はまきちらしている。

村上春樹/羊をめぐる冒険

楠木:過去を呼び覚ます、これは要するに、自己の内に宿ったものを形として表す、ということです。これは、たとえば文章でも変わりません。前回、翻訳の話題でみなさん盛り上がったようですが、もちろん翻訳にも通じるものがある。翻訳は、訳者による原書への個人の解釈の表現にほかならない。他人の言葉をかなりの時間を費やして読んで、それを自分の言葉に、すくなくとも自分が生きる上で、考える上で用いる言語にかえて表すことを翻訳と呼ぶ。換言すれば、翻訳と原書はまったく異なる作品だということです。職業翻訳者にしてみれば、原書に忠実になっているつもりだし、またそうした志があってしかるべきなのだろうけれど、現実的には、原書と翻訳がフュージョンするなんてことはまずあり得ません。
横森:翻訳作品の最大のややこしさは、翻訳は原書だけじゃなくて、過去の翻訳をも受け継いでいく点なんだよな。村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』の失敗点は、野崎孝の翻訳に敬意を払いすぎているところだね。野崎孝の作品に目を通すことなく翻訳していたら、多分、まったく色の違う翻訳作品が生まれていたはず。書き出しだって、野崎孝作品を知らなかったら、あんなリズムにはならない。
島:そう言われると、翻訳って批評と似ている部分がありますね。
楠木:似ているけれど性質はまったく異なりますよ。批評は、原作の翻訳になってはいけませんから。批評の効力は、ある作品にたいして、なにやら大仰な思い込みを語っている奴がいる、とふざけ半分で眺めていたら、その作品に興味が出てきた、そこまで真剣になる奴がいるなら価値があるんじゃないか、と。それだけ良いんです。それでもう批評の役目は終わっているんですよ。それとは別に、物書きの側に立って言わせてもらえば、書くことそのものに営為があるので、書き終わったらもうそこに用はないというか。自分の書いたものが他人の手によって好き勝手に色を塗られようが、正直、そこはどうでもいい。一方で、考えるまでもなく、翻訳の場合は、そうもいかない。
OLE:そういう姿勢が純文学を作るんだろうなあ。しかしそうなると、極論、純文学には編集は必要ないということになってしまうんじゃないか(笑)。
横森:編集はその前段階にあるから絶対に必要と言いたいところだけど、純文学に”げいじゅつ”とルビをふるなら、まあ必要ないだろうね。芸術なんてのはそもそも他人に作品を見せるって前提に立ってないから。
楠木:編集者が作品に及ぼす影響は、作家のキャリア、たとえば村上春樹なら、新潮社から出版された作品と講談社から出版されたものを比べてみると、手にとるようにわかるはずです。村上春樹はスタンスに一貫した作家というイメージがありますが、出版社によって作風がおおきく異なります。新潮から出版された作品群を眺めれば、新潮がいかに優れた場所か、読者の誰もが痛感するはずです。
島:やっぱり新潮は別格ですか?
楠木:今の文壇の事情は知らないですよ。ひさしく興味をもっていないので。そもそも今の日本に文壇というものが存続して、機能しているのかさえ知らない。だから、あくまでも僕が作家としてデビューした頃の話に限定されますが、やはり新潮社というのは、これはもう別格でしたよ。僕だってね、なんとしてでも新潮社からデビューしたかったですから。でも、全然ダメ。箸にも棒にもかからない。まあ正確には、一度だけ手応えを感じたことがあるにはあったんだけど、一度きり、それきりです。才能がなかったんだね。諦めて別のところに応募してそこは一発で通った。それだけに僕のなかで新潮は高い壁としてそびえ立っている。純文学作家としてやっていくなら、絶対に新潮の新人賞を獲ってデビューしなければダメだと、確信していましたから。こんなこと言ったら怒られそうだけど、乃木坂に受かるか、AKBに受かるか、それくらい違いますよ。
横森:一強多弱ってのも困ったもんだけどね。
島:競争は大事ですよね。三島由紀夫だって当時は連載を待たされてるんですよ。文壇の寵児と呼ばれていても連載はそう簡単には取れなかった。今の時代に三島由紀夫を後回しにできる出版社がありますか?
楠木:話がかなり逸れましたが、過去を呼び覚ます、という文脈において「翻訳」を語るなら、たとえばレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』と村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。この2作品には物語の設定に多くの類似点があります。「刑事」と「二人組」とかね。ただ、一番の類似点は、やはり主人公像ということになるんだとおもいます。『世界の終り』の主人公である「私」の横顔は間違いなくフィリップ・マーロウを意識して描き出されたものです。フィリップ・マーロウに読者として触れた実感、ある種の違和感ですか、一般的にはハードボイルドと表現しますが、ハードボイルドに醸し出される魅力、言い換えれば、レイモンド・チャンドラーが行間として醸し出したもの、語っていない部分を語り象ったのが村上春樹の「私」です。チャンドラーが自意識の窃視できない文体を完成させ、それに影響を受けた村上春樹の主人公像がニル・アドミラリであることは、なかなかのアイロニーではありますが。いずれにしろ、あの「私」にたどり着くためには、やはり、翻訳という行為が必要だったんじゃないかな、と僕は思うんですがね。仕事として『ロング・グッドバイ』を翻訳したはるか以前に、村上春樹は個人的に翻訳にチャレンジしていたはずですよ。村上春樹のような天才と比べるべくもないけれど、その意味では、文章における僕の立ち居振る舞いがゴビノーに似ているとよく指摘されるのは、若い頃にゴビノーの翻訳にチャレンジしつづけた青春の時間が響いているのかもしれません。若い頃にゴビノーの言葉に長く触れていたその経験=過去が、忘れた頃になって、形をもって呼び覚まされているんだと思います。自己演出、とかね。
横森:チャンドラーの文学性を語る村上春樹の言葉のリズムの世界って、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を物語っているのと大して変わらないからね。チャンドラーを語ることが自分を語ることになっている。そういう意味じゃ楠木君が文章をとおして自分を語るとき、そこにゴビノーが姿を現すのも防ぎきれないことなのかもしれないね。
OLE:他人の言葉を自分の言葉にかえていくって、アイドルも同じだよね。秋元康の言葉がすべて「詩」であるっていう前提に立つ以上は。
楠木:アイドルが秋元康の言葉を自分の言葉にかえていくというその行為の技術的な問題にリップシンクがあるはずですが、櫻坂の村山美羽、彼女はリップシンクの達人ですね。あそこまで音楽と同期した動きを僕は今までに見たことがない。ワンシーンだけじゃないです、あらゆるシーンで、です。芸術的ですよ、あれは。
OLE:ダンスが段違いに上手いから、可能になるのかな。
楠木:呼吸を大事にしていると語っているのを、なにかの記事で読んだ記憶があるにはあるんだけど、それにしても、驚かされる才能・魅力です。
横森:体を揺さぶってみたり、小声でささやくようにしてみたり、みんな工夫してるけど、なかなか合わないんだよね(笑)。リップシンクって結局は演技力だから。
楠木:演技、と一言で表すのはかなり無理があるけれど。劇的ではあるね。村山美羽の表情を見れば、一目瞭然でしょう。彼女は音楽を劇的なものに見せるのが上手い。
島:リップシンクはアーティストとして必要不可欠な能力ですが、アイドルの場合、そこにファンが着目することって極端に少ないように見えます。
OLE:そんなディテール、大衆は気にかけないよ(笑)。悪目立ちしてなければ、それでいい。
楠木:大衆に理解されちゃったらそれはもう天才ではないですからね(笑)。理解はされないんだけれど、まああいつは天才なんだろう、と無関心のなかで納得しているような、そんな状況になってはじめて天才と言えるわけです。言葉で遊んでいるようにしか見えませんが、たとえば、柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』をヴァレリーと言ったのは、まあそういう意味合いが大きい。これは柄谷行人の名前を出すことでやっと発言できることですが、天才を作るのは批評家なんでしょう、やはり。大衆は、自分で判断しません。批評家なる存在が極褒めすることで、そういうものなのか、と受け入れていく。理解とは遠い場所で、納得していく。
島:そうなってくると村上春樹ってやっぱり天才なんだ。
横森:じゃあ三島由紀夫は凡人だね(笑)。
楠木:小澤征爾とNHK交響楽団の和解の裏では石原慎太郎、三島由紀夫、中島健蔵、浅利慶太やらが暗躍・躍動していたらしい。作家が社会に参加していた時代ならではで、三島由紀夫は小説から死に方まですべて劇化の人でしたから、案外、浅利慶太に多少なりとも影響されたのかもしれない。こんな迂闊なことを言ったら三島由紀夫研究者に怒られそうだけど(笑)。ただ、師匠にあたる川端康成の天意を前にして自己の平凡さを否応なく育んだのだろうし、それが劇的なものを求めるに至ったのだと、僕は思うけどね。
OLE:今のアイドルシーンで天才を探るとなると藤吉夏鈴くらいしか思い浮かばなかったけど、村山美羽にも可能性を感じはじめるね。
島:遠藤さくらがいますよ。
横森:遠藤さくらこそまさしく三島由紀夫じゃん(笑)。演じることで大衆をねじ伏せているんだから。藤吉夏鈴も同じタイプでしょ。天才ではないよ。
島:アイドルを小説家に例えるのは、ちょっと面白い。
楠木:久保史緒里はさしずめ柳美里ですね(笑)。中西アルノは江國香織の影響を受けているのはわかる。でも期待された存在感は辻仁成ですよね。ただ、江國香織の文体を模倣している今の経験が、将来、なんらかの形をもってはっきりと姿を現すとおもう。
横森:村上春樹がいないんだよな、アイドルシーンには。

「憎しみは、自分のために、忘れよう」

島:楠木さんが翻訳した『ヴァリエテ』を読んで、どうしてもイメージしてしまうのは、ジャンルの曖昧さです。僕は自分の中であの作品をどのジャンルに区分すべきなのか、どの本棚に置くべきか、判断できない。小説でもないし批評でもないし、詩でも散文でもない。目眩がします。アウグスティヌスの『神の国』と同じような気持ち悪さ。車の中であくびをするような。
横森:それは……、ヴァレリーの生きた時代を考えれば答えは明白だよ。でも散文とか批評の出現とかそういうのは抜きにしても、批評なのか小説なのか、よくわからない文章ってのは、憧れるもんなんだよ、作家って。表現しか置かれていないってやつ。
楠木:まあ。
OLE:売れっ子の批評家ってさ、物語を書けるよね。
楠木:もちろん。文章で生活できる人間は、今も昔も「物語」を書ける人間だけです。ただ、作家として食えるようになった今思うのは、作家ってかっこよくないんですよね。作家って、普段、かっこつけられないんですよ。文章のなかでしか、格好が良くない。鳶職人と同じですね。鳶職人は現場の花形と呼ばれるだけあって、たしかにかっこいい。見た目もそうだし、ヒョイヒョイ足場を組み上げていくところとか、かっこいいですよ。でもそれって、意中の異性に見られることはまずないので(笑)。それに比べ、役者とか歌手って、普段からかっこつけられるんですよね。作品のなかで作り上げたものと日常とを見比べることができますから。
OLE:ギャップだね。
楠木:アイドルなんかまさにギャップに活かされる職業ですよ。普段は可愛いらしい女子で、音楽が流れたら表情が変わって、バキバキに踊り始める。こんなにかっこいいことはない。小畑優奈とか森田ひかるとかね。普段はいかにも女子って感じなんだけど、音楽が流れると表情が様変わりする。そういうのがかっこいいんですよ。羨ましいな、僕は。
OLE:もともと役者、歌手が夢だもんね。

横森:この前、大好きな女優さんに話しかけられて耳真っ赤になってたよね。
島:今までで、一番かっこいいと思った役者さんは?
楠木:浅野忠信さんかなあ。ホテルのフロントに車のキーを預けてるところを偶然見かけたことがあるんだけど、映画のワンシーンに見えましたよ。あとは夏川結衣さんとか。神秘的でしたね。
OLE:そういう眼差しがアイドル観に侵入しちゃうことってあるの?
楠木:どうなんでしょう(笑)。そこまで細部に生きてはいないと思いますが。ただ、アイドルにたいしては、文字どおり憧れみたいなものをつねに抱いているべきだと思ってはいます。たとえば、もうかなり昔のことですが、ある編集者から戸田恵梨香さんにインタビューしてみないかって誘いを受けたことがあって、二つ返事で引き受けたんだけど、結局、スケジュールの都合で流れてしまった。まあよくあることです。でも当時は、相当ワクワクしましたよ、僕は。あのワクワクをアイドルに求めているというのはあるかもしれません。
横森:なんだかんだ言ってさ、過去をふり返るってのは、そういう瞬間であるべきなんだよね。最近は、恨みつらみを過去から引っ張り出してくる人間の多いこと多いこと。
OLE:たしかに。
楠木:心の内に宿って、ときおり姿を現すもの=過去の中には、当然、「憎しみ」もありますよね。僕は思うんだけど、過去の憎しみというのは、それがひとつの連なりをもった出来事であったとしても、時間が経てば、ひとつひとつの、些細な場面、ワンシーンに区切られて、ある時ふっと許せるようになるというか、許すというか、自分が悪かった面を見出して、しかもそれを受け入れられるようになる。憎しみが不条理な出来事によるものであっても、そこにたどり着くまでの自分というのをね、観照するようになるんですよ、人間は。そうなってしまえば、もうほとんど憎しみというのは湧いてでてこない。憎しみというのは一刻も早く忘れるべきなんです。もちろん、憎しみをいつまでたっても忘れられない人のほうが多い。なんていったって世の中は凡人に溢れかえっているわけですから。でもそうではない人もいて、残酷かもしれないけど、そういう人のほうが、たしかなしあわせを手にするんです。恋愛にたとえれば、恋愛がなぜ人を成長させるのかというと、他人との異常な距離感の近さを経験するから、まあこれが一番の理由になるのかもしれません。とは言っても、それは最初だけで、最も普遍的なことは、やはり別れ際に憎しみ合って別れたその相手のことを、時間が経ったとき、不意に許せてしまう、その成長にあるんだと僕は思う。致命的な裏切りをした、軽蔑すべき恋人、恋人とも認めたくないような存在が、僕にもあったんだけど、でも、あるとき、不意に、自然と許せてしまったんです。クリスマスだったかな、当時、僕の部屋で彼女が泣いたことがあって、訳も言わずただ泣いている。当時の僕はそれを見ても、心が動くことはなかった。軽蔑していたからね。でも歳を重ねてから、その涙を不意に思いだすことがあって、そういえばあのとき、彼女はなにを理由に泣いていたんだっけかな、と考えている内に、きっと自分が知らぬ間に傷つけていたのだろう、ただただ悲しかったんだろうな、って確信が生まれちゃって、だから、許せてしまう。別れてからかなり時間が経っても、新しい恋人ができても、僕はその人のことを軽蔑していたんだけど、今はそうではないんです。過去を独りよがりに反省することで、憎しみは消えるんですよ。


2024/02/10  楠木かなえ