乃木坂46の「ごめんねFingers crossed」を聴いた感想

「成功を祈る」
『SCHOOL OF LOCK!(乃木坂LOCKS!)』にて乃木坂46の27枚目シングル『ごめんねFingers crossed』(6月9日発売)がラジオ初オンエアされた。
前作『僕は僕を好きになる』はテレビの特番での初披露だったと記憶するが、個人的な好みを言わせてもらえば、新譜の音源解禁の場はラジオに限る、と考えている。楽曲との出あい方というのはやはり大事で(どれが一番良いというのではなく好みの話題ではあるのだけれど)、映像と共に出あうのと、音のみと出あうのとでは、音楽に対する純粋さが異なるようにおもう。もちろん、映像も歌詞カードもなにもない、ラジオから流れてくる音だけに耳を澄ませる、そういった状況、情況、シチュエーションが、閑散とした美術館で絵画を前にひとりだけの時間を過ごすような、作品との実りある関係だ、などと言うつもりはない。しかし情報の狭さという意味では、やっぱり純粋さがあるようにおもえる。
それから、曲を流す前の、曲ふり(曲紹介)をするアイドルの声も季節の記憶になることがあるため、個人的に楽曲を通してアイドルを想起する際の、重要なファクターとなっている。『シンクロニシティ』の録音には斉藤優里のキュートな声が入り込んでいるし、『帰り道は遠回りしたくなる』には堀未央奈の声が、『しあわせの保護色』には新内眞衣の声が楽曲のプロローグのように刻まれている。たとえば、新内眞衣は『しあわせの保護色』を紹介する際、「え~と」と言ってしまったのだけれど、そういうところにアイドルの性格や成長の有無を見るし、それがそのまま楽曲のイメージのひとつになっていたりもする。
結局、楽曲の評価とは、どれだけ自分のなかでその楽曲に対するイメージを作れるのか、というところに落ち着くのではないか。グループアイドルのおもしろさは、その妄想によって育んだイメージが、アイドルを演じる少女の横顔に重なり連なっていくところにある。たとえば前作『僕は僕を好きになる』は、楽曲を前にして、一歩引いて見てみたり、一歩踏み込んでみたり、という経験が、狐につままれたようなイメージをあたえ、その所為か、楽曲に対する妄想ができあがったかとおもえば、次の日には覆され、結局なにがなんだかよくわからないまま新作を迎えることになった。そして、そのよくわからなかったという「結果」が、つまり楽曲の素顔が見つからないというイメージがそのまま「センター」の山下美月に重なっていくことになった。
『ごめんねFingers crossed』を聴いた感想は、固有のイメージが出てこない、これに尽きる。歌詞を書き起こしてみてもいまいちパッとしない。「遠藤さくら」を楽曲の前に立たせてみても、反響しない。もちろん「センター」と楽曲がストーリー展開という意味で響き合う必要はないのだが。そういえば、『夜明けまで強がらなくてもいい』を今日あらためて鑑賞するも、やはり「センター」に立つ遠藤さくらとの響き合いを発見することは叶わない。つまり楽曲を作る際に「センター」の存在が看過され、アイドルがその楽曲を演じたあとも、アイドルと楽曲に歩み寄りがない、ということなのだが、今作においてもそれは繰り返されるのではないか、予感がすでにある(もちろんミュージックビデオでの演劇やライブステージでの表現によって印象のすべてが覆されるだろうという期待もある)。ようするにこれは、作詞家によるアイドルの写実がなされていない、という事態を指し、どうしても退屈に感じてしまう。鳴りを潜めているのだ、秋元康が。
作詞家・秋元康の魅力とは、アイドルに自己を投影することでのみ可能となる「青春の反復」にあるのだから、青い馬にまたがって過去に戻ったとき、眼の前にひろがる日常、そこで”ふたたび”愛するのは、思い出の彼女、ではなく、現在を生きるアイドルであるべきだろう。
こうした考え、つまり作詞家が封印した、あるいは巧妙に隠蔽した妄想の肥大を借用しあらためて『ごめんねFingers crossed』を眺めるならば、そこにはっきりとイメージされるのは金川紗耶であり、彼女の横顔を通して歌詞を眺めるとその物語がぐっと懐に手繰り寄せられるのである。あやふやだったものが整理され、力強いストーリーが展開されていく。歌詞に書かれた登場人物の輪郭が埋められ、楽曲が息を吹き返す。妄想に、イメージにリアリティが出てくる。アイドルに物語性がそなわる。
つまり、現実では得ることができない物語のつづきが、楽曲世界のなかで語られていく、というフィクションのおもしろさを『ごめんねFingers crossed』は教えている、といった視点で眺めるのも一興ではないだろうか。
2021/05/07 楠木
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