日向坂46(けやき坂46) 丹生明里 評価

日向坂46(けやき坂46)

丹生明里 (C)ORICON NewS inc.

「終着駅」

村上春樹のデビュー作とされる『風の歌を聴け』は、文章論、つまりは「文章についての文章」からはじまっている。…それは、さして愉快ではないし、気も利いていないジョーク集として、新人賞の応募作としては、ずれた、あるいは失礼な、場所を心得ない代物として、下読みの段階で落第の烙印を押され、葬りさられてしまう、そういう運命がもっとも適切で正しい、行く末であったかもしれない。だがそうはならなかった。一作、数千円程度のギャランティで応募作を読む、下積みの作家、批評家、アルバイトも、賞の候補作を選ぶ文芸誌の編集スタッフたちも、そして選考委員たちも、この作品を外す事ができなかった。今の時点から見れば、当然の処置のように思われるが、本当にそうだったのか。そんなものだったのか。それはある意味で奇跡であり、まぎれもない、スリムチャンスをモノにした、そういった事態ではなかったのか。…今や私たちは、その存在を当然のものとして受け入れるだけでなく、彼がいない世界を想定できない、という認識の下で生きているのだ。

福田和也 「村上春樹12の長編小説」

丹生明里に遭遇したとき、私は『現代作家の中で最高の実力と資質をもつだけではなく、近代日本文学のあり方そのものを変えた大きな存在である(*1)』村上春樹を想起した。彼が遭遇した「奇跡」と「回帰」を想起した。作家を志す者の新人賞への応募と、アイドルを目指す若者のオーディション応募は似ている。「特別な運」のようなものを持っていなければ潜り抜けることが出来ないトンネルの存在が、似ている。トンネルを抜けた者だけが、その存在を当然のものとしてファンに受け入れられる。日本文学史に銘記されるべき作家(村上春樹)がスリムチャンスをモノにしたように、けやき坂46の丹生明里もスリムチャンスをモノにする。オーディションの審査員だけではなく、彼女の”声”を聴いたアイドルファンもまた、彼女を”外す事”ができなかった。

『欅って、書けない?』初登場時、少し強ばった表情で、虚構の中に初めて足を踏み込んだ少女が、体内を駆けめぐる”何か”の足音が涙となって溢れ出るのを抑え込むような仕草をみせた後、始まった自己紹介。その時点で、アイドルとしての存在感は、彼女を囲繞していた欅坂46と日向坂46(けやき坂46)の第一期生のメンバーたちのほとんどを圧倒し、凌駕していた。文芸の世界に身を置く者ならば、この逸材を目のあたりにして、それがカメラに映し出される光景を目撃すれば、どれだけ鈍感者であっても、自身の存在を根本から揺さぶられるような危機感を抱くのではないか。私が知る限りでは、丹生明里はアイドル史において最も透明感をもつアイドルであり、私が見た限りでは、丹生明里はどの現役アイドルと並べても、その存在感が薄れることはない。古今東西、アイドルを評価する際に使用される「清楚」というワードに対してならば、最高到達点と云って良い。

スリムチャンスをモノにした「奇跡」への実感は彼女のモチベーションをより高い次元へ押し上げる。また、それを丁寧にしっかりと言葉にして表し、奇跡との遭遇をファンに伝播させることでモチベーションの維持という難題を解決している点は、現代アイドルを評価するうえで看過することはできない。他者の心を洗うのではなく、心を鷲掴みにする丹生明里の”ピュア”は無意識に人を傷つけてしまう無防備さを露呈するが、彼女が引き出しからノートを取り出し、丁寧に書き留めたエピソードを口述して行く立ち居振る舞いは、ファンと共有した「過去」のコンテンツ(物語)の息を吹き返すことに成功する。今や、ファンたちは彼女が「いない世界を想定できない、という認識の下で生きてい」くことになった。(*2)アイドルとして、時代に呼応する稀有な資質の持ち主であり、古典的で、正統な、しかしあたらしいアイドルとファンのあり方を示している、と云える。

ある作家が、ある時代に、ある作品を書いたことと、ある読者が、他の時代に、この作品を読むことと、この二つの行為に精神的必然性が存在する場合、その作品を不朽と呼ぶことができる。また、多くのものを未知のまま残し、多くの誤りを犯したといって、現代物理学が古典物理学を嘲笑するなら、それは無知と滑稽以外のなにものでもない。グレアム・グリーンが『失われた童心』の中で、『オリバー・ツイスト』を評した小論の冒頭に、「批評家はおのれの時代のとりこになることを避けなければならぬ」と書いているのは、そういった意味で正しくもあり、正しくもない。

中村能三 「オリバー・ツイスト」

現時点で、彼女を特別なアイドルとして評価することは、時代のとりこになっている、と言えるかもしれない。あるいは、グループアイドルというコンテンツが時代の流れと共に収斂していき、洗練されたひとつの結果として、宿命的な存在が誕生する瞬間を目撃した感興に酔っている、と。収斂とよばれる現象は、やがて「完全さ」への希求を生む。アイドルグループの第一期生、特にAKB48の黎明期に活動したアイドルたちは、後世のアイドルと比較して、能力の面ではおおきく劣るだろう。しかし、彼女たちが群像劇として残した物語は、現在活動をするアイドルが書く物語よりもきわめて豊穣である。それは、彼女たちが不完全な集合体であったからだ。『ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人の心を強く引きつける——少なくともある種の人間の心を強く引きつける。(*3)』その群像劇(奇跡)を「情報」として収集する新しい時代を生きるファンたちは、無意識のうちに、それと同等のストーリーを描けるアイドルの誕生を希求する。より確実に、洗練された、完成されたアイドルが望まれるという一種の倒錯が起きてしまった。この倒錯、要請の条件のすべてを満たす「宿命」として丹生明里というアイドルが誕生したと云える。

丹生明里のアンチテーゼとして大園桃子の名が挙げられる。時代の要請という枠組みの外側に立つ人物である。大園桃子は、どのような時代に生を受けたとしても、その姿形を眺める者に、我々現代人とまったく変わらない感情を抱かせるだろう。それは彼女が、文学的な、神秘的な異物感を抱えるからである。ゆえに、正統な純文学アイドルと云える。
純文学アイドルの代表として前田敦子、エンターテイメントアイドルの代表に大島優子の名が挙げられる。現代アイドルの多くは、純文学、エンターテイメントのいずれかに明確に分類することが可能であった。しかし、丹生明里は、純文学とエンターテイメント、そのどちらにも属さないアイドルに映る。彼女は純文学とエンターテイメントという岐路に立っていない。彼女は、ある意味では”生まれたまま”であり、ある意味では、少女がモラトリアムで獲得せざるを得ないモノ、自我を確立するために握り潰す固まりを手にしなかった人物である。
『文章論、つまりは「文章についての文章」から』作家として”はじまった”村上春樹は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『海辺のカフカ』において、純文学とエンターテイメントの交錯を試みる。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では”私”(エンターテイメント)と”僕”(純文学)の物語を、『海辺のカフカ』では”僕”(純文学)と”ナカタさん”(エンターテイメント)を交互に語ることによって純文学とエンターテイメントを明確に分類し、二つの物語を交錯させることによって(読者に二つの虚構を行き交いさせることによって)純文学とエンターテイメントの境界線を不分明にしてしまった。それは、文壇の未来を、時代そのものを先回りして迎え撃っていたようにおもう。その後の村上春樹の作品がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やディケンズの『大いなる遺産』と同じ姿形をとるのは、彼が文学を回帰させたからである。共時性を信じるのならば、丹生明里というアイドル(物語)はアイドル史の収斂、回帰を象徴する標になるのではないか、とおもう。彼女のフラジャイルがある閾に到達し、それが損なわれるのではないか、という不安が結実しないのは、彼女の抱えるピュアに生硬が内在しないからである。ピュアと生硬は共存し、生硬が砕け散る時、少女からピュアが喪失される。丹生明里に生硬さは覗けない。しかし、彼女はピュアである。それはやはり、村上春樹のような、”行き交い”を達成しているからである。

現代アイドルシーンの動向は、丹生明里の誕生によって、ここから更にどんどん小さくなっていくだろう。丹生明里というアイドルの誕生はシーンにとっての終着駅であり、彼女を超克するアイドルの出現は、ブームといった事象とシーンそのものが一度壊れて無くなるまで訪れないだろう。もちろん、大園桃子のような神童タイプのアイドルが、アイドル界の抱える苦悩、時代の趨勢などとは無関係に、超常現象として”発生”する余地は常に残されているが、丹生明里のような、時代の要請に適合する宿命的なアイドルは、今後しばらくの間は出現しないはずだ。あるいは、アイドル=グループアイドルという概念の崩壊が訪れてしまったら、彼女のような人物が”アイドルとして”我々の前に立ち現れることは、二度とないだろう。

 

総合評価 83点

現代アイドル史に名を残す人物

(評価内訳)

ビジュアル 19点 ライブ表現 14点

演劇表現 16点 バラエティ 18点

情動感染 16点

けやき坂46 活動期間 2017年~

引用:(*1)福田和也「作家の値うち」
(*2)福田和也 「村上春樹12の長編小説」
(*3)村上春樹「海辺のカフカ・上」

評価点数の見方