アイドルにとってのプロ意識とは、
「アイドルの可能性を考える 第三十八回」
メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。
「アイドルという肩書は死ぬまで剥がせない」
楠木:インタビューなどを読んでいると、アイドルって、肩書にたいする意識が過剰というか、卒業後、元AKBだとか元乃木坂だとか、アイドル出身者として見られたくないのに、嫌でもそう見られてしまうのだと、屈託している。その種の屈託には共感できないけれど、肩書が剥がせないという点にたいしてならば、僕は実体験をもとに同情できるんですね。僕は文芸批評家としてデビューして、そのあとに音楽の批評とか、演劇の批評とか、畑を広げていったわけだけど、演劇の方面ではオーディションの審査員をやったり、演技指導したり、それなりに仕事の立場が成熟してきた今でも演劇畑の人間から見たらやっぱり僕の存在って門外漢なんですよ。「小説を批評する人間」ってイメージが抜けないから、同業者としての意見、ではなく、他のジャンルで活動する人間としての視点が期待されていることがはっきりと感じ取れる。最近なら、映画の脚本を書くにしても、文芸批評家という前提、肩書は絶対に消せません。要するに、デビュー時のイメージって死ぬまでついてまわるものなんですよ、きっと。今は「wikipedia」でも「amazon」でも、なんでもネット上で簡単に経歴が確認できちゃうから、尚更です。職業アイドルとしてスタートしたのなら、それを完全に消すのは大変だと思う。
横森:しかしウィキペディアほどデタラメなところはない。俺のページを編集した奴は頭がどうかしてる。出身地も出身大学も、略歴がなにもかも間違ってる。俺の知らない「俺」がいる(笑)。
OLE:ウィキを信じるのは、カーナビを信じて田んぼの中を突っ切るようなもんだよ(笑)。
楠木:記述の誤りもさることながら、記述の甘さと云えばいいのかな、出典やらなんやら賑やかだけれど、肝要なところが抜けているというか。たとえば中西アルノからアルノ河を想起してフィレンツェ(フロレンティア)について調べている際にウィキペディアを覗いてみると、すぐに違和感にぶつかることになる。ウィキペディアには、カエサルが自下の退役兵を入植させたことが起源だと書いている。でも僕の記憶がたしかなら、スッラですよね、始まりは。スッラが、自分の兵士たちの除隊後の居住地として利用したのがローマ史のなかでは起源になるはずです。その後、住民たちが戦争に際し敵地にいるスッラの元に再集結したことでゴーストタウン化した。カエサルが政治利用したのはそれからかなりの時間が経ってからです。これ、けっこう大事な部分だと思うんだけど。子供がああいう「文章」ではない何かを読んで学んでしまうと、困った育ち方をするんじゃないかな。
島:虚構にもなれませんからね。虚構なら虚構で構わないのですが。本人たちはあれが将来的には史料になると考えて大真面目で書いているわけでしょう?
横森:グーグルのチャットAIはウィキペディア主体で構成してるから、未来には貢献してるよ(笑)。
OLE:グーグルにしてみれば、ウィキペディアはインターネット検索の「検索」の部分に合致した存在だからね、これはもう評価せざるを得ないわけ。セルゲイ・ブリンだったか、ラリー・ペイジだったか、ネット空間に自前の図書館がほしいというようなことを言っている。しかしまあ考えるまでもなく著作権の問題がクリアできないんでね、そこで妥協して利用されたのがウィキペディアってことになる。要は、ウィキペディアってのはグーグルに愛された存在だから、検索サイトを利用する際に目につきやすいのは当然だよ。まあ、チャットAIの登場でその役目も、もう終わりつつあるけれど。
島:作家とかライターになりたくてもなれなかった凡人が集まってワイワイやっているだけにしか見えません。素性の知れない人間同士で編集の真似事をするって、バカバカしくならないのかな。
OLE:そこはまあ、ある種の「やりがい搾取」だから(笑)。素人をその気にさせて、ヘタクソでもデタラメでもいいからページを量産させることが目的で、それ以上でもそれ以下でもないんだよ。膨大なコンテンツを用意することでグーグルの評価を高める、つまりアクセス数を稼ぐことだけを目的にしている。高尚な理念なんてないよ。「このページには問題があります」と表示する一方で、そのページを非公開にして検討せずに、公開状態のままネットの海に垂れ流している。とにかくアクセスが欲しいってのが透けて見えてる。要するに、アクセスを稼ぐ=検索サイトから評価を得る=ネット上の図書館としての権威を得るために、頭の良い人間が暇人を利用しているってだけ(笑)。もちろん本人たちは大真面目でやっているから、そんなこと気にも止めないだろうけどさ。
横森:調べ物をするってことは知識を身につけるってことに繋がるべきでしょ。しかし、ことインターネット上においては必ずしもそうではない。むしろ逆効果になるケースのほうが多い。それはウィキペディアっていう紛い物でしかない「図書館」をグーグルが評価してしまった所為だね(笑)。
「5ちゃんねるにはバカしかいない」
楠木:久しぶりにフランスに行って、ちょっとガッカリしたのは、向こうの若者も日本の若者に負けず劣らず幼稚になっているという点です。取材の空き時間に役者たちと人狼ゲームをやったり、ポーカーをやったり、毎日遊んでいたんだけど、どうも用いる言葉が変わったというか、幼稚というかね。インターネットの世界からそのまま出てきちゃったみたいな、そういうノリなんですよ。こういうノリ、日本でもよく見かけるよなあって。
OLE:子どもが日常的にクレヨンしんちゃんのモノマネをするってのが社会問題になったじゃない。あれと同じことが今インターネット上で子どもから大人まで、起きている。みんながみんな同じ言葉で会話してるでしょ、今。
島:日本のネットスラングが極めて幼稚なのって2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の存在が決定的ですよね。
横森:決定的にしたのはツイッター(現X)だよ。短文でコミュニケーションをとらないといけないって強制は2ちゃんねるのヤバイところを凝縮してるから、幼稚な言葉の反復でしかコミュニケーションが取れない人間であそこは溢れかえってる。
OLE:厄介なのは、自分もいつのまにかその「反復」に侵されているんじゃないかって点だよな(笑)。
横森:それはまた別の問題だよ。どっちが後か先かって問題でもあるから。
楠木:5ちゃんねるですか、あそこってバカしかいないよね。
島:誰もかれも間投詞だけで会話してる。おなじ時代、おなじ国に生きている人間とはとても思えません。
OLE:(笑)。
楠木:5ちゃんねるで生まれたスラングをツイッターなど外部で使っている人間を見れば誰でも気色悪いと思うはずです。「草」とか、ああいうの。物書き志望でその種の言葉を使ってるバカがいたら、お前もうちょっと私生活に気を配れよって、だからプロになれないんだよって、ついつい思っちゃうんですが。自分では場面に応じて使い分けているつもりなんだろうけど、そういうことじゃないんだよって。作家は言語で成り立つ職業なんだから、幼稚な言葉を使っている時点でその幼稚な言葉が自分を作っているんだよ。マコンドの不眠症の伝染って、あれはペストとかコロナのことを書いていると考えていましたが、不眠症の果てに言葉を忘れてバカになっていくという点は見事にインターネットにおける幼児退行を撃っていたんだね。
OLE:「草」って活字の「笑」がどんどん変化したものだよね。
横森:だって5ちゃんねるって元ネタを探ればほとんど小説や漫画・アニメからの借用だからね。だからこそ退行なんだよ。本人たちは進化させているつもりなんだろう。でもそれは卵を割ってオムレツをつくっているのと何も変わらない。
OLE:そんな意識だれも持ってないよ(笑)。
島:小説や漫画の台詞を借りなければ自己表現ができないって点は興味深いですけどね。
楠木:文章を書く際に、誰だってまず文章語を用いますよね。物書きでもない限り口語から入る人間はあまりいない。みんな自然と文章語になるんです。国語教育の成果として。要するに頭で考えている言葉を、日常的には使わない言葉にかえていくわけだけど、日本のネット上ではその「違う言葉」のカテゴリーがほぼ決まっていて、どうやらみんな意図的にしろ、無意識にしろ「2ちゃんねる」から借用しているらしい。これはネットメディアも同じです。だからバカになる。書く側も読む側も、自分が思ったことを、考えた言葉・感情を、あらかじめ決められた数少ない単語=感情の中に自ら落とし込んで表に出しますから。しかもそれをSNSで書く。SNSでの交流手段として用いる。まあ、「俺はバカな人間じゃない。でも5ちゃんを利用してる」なんて考える人間がいちばんのバカであることは間違いないのですが。なんていったって、5ちゃんを利用している時間は例外なく全員がバカになってるんで。幼稚で小さな爆発としてのアーツ・アンド・クラフトですね。
OLE:5ちゃんねるはもうサービスとしてかなり古くて、ユーザーが少ない。でも枠は残ってる。フリッツ・ラングの『メトロポリス』のような、その手の幼稚なイメージの世界が完成しつつある。
横森:古い未来って意味じゃ次はツイッターなんだろうけどさ、ツイッターで使われているスラングのほとんどが「2ちゃんねる」の借用か、派生だからね。じゃあ「2ちゃんねる」に文化的な価値があるかというと、それはもう『電車男』で打ち止めなんで。それ以上もそれ以下もない。あれ一つで事足りる。
島:『電車男』とかどうでもよくて、いちばんのストレスは言葉が通じないことの虚しさですよ。
OLE:うん。
島:想像してみてください。馬鹿者相手に真面目に接して、真面目な言葉を投げかける滑稽さを。最終的に自分が虚しくなるだけですよ。相手に期待して知識と言葉を投げて、結果、伝わらなかったとか、そうじゃなくて、馬鹿者とわかっていながらそれを諭すように真剣な言葉を投げてしまった自分を鏡で見て、虚しくなる。
楠木:それは体験を語っているように感じるけど(笑)。アドバイスするなら、たとえば「バカ」に間違いを指摘したとして、相手がそれを認めなかった場合、一番腹立たしいのはどういうケースになるでしょうか。「バカ」が自分自身の誤りを理解した上でしかしそれを認めたくない一点で子供じみた反論を続けてくることの営為のなさでしょうか。それとも、そもそも「バカ」には言葉が通じない、という「呆れ」でしょうか。おそらくこの2点よりも腹立たしいのは、「バカ」が自身の主張を本気で正しいと思い込んでいて、その上でこちらを口撃してくるケースになるんじゃないかな。途方に暮れるのは、5ちゃんねるにはバカしかいないので、こういった状況がつくられた際には、こちらの正しい言い分よりも「バカ」の主張に同調する人間のほうが圧倒的に多いだろうという点です。こんなものはもう考えるまでもないですよね。近づかない、という以外に策はありません。バカの群れを説得するのは動物園の猿とコミュニケーションを取ろうとするくらい難題なので。人生は、そこまで長くありません。「まとめサイト」なんてのはその最たるもので、あれは四六時中5ちゃんねるに張り付いているバカが「バカの言葉」をくびって並べた展示会場です。5ちゃんねるのなかでも特に頭がバカになっている人間ということですね。下水に飛び込んで泳ぎ回っているようなものなので。そんな気色悪い人間・サイトにだれが近づこうと思うのか。もし、そんな人間がいるとすれば、それはやはり同類のバカということになるんでしょう。
OLE:単純な話で、無知であることが明らかな「バカ」に口答えされるから、腹立たしい思いをする。現実であればね、互いに、それぞれの立場を認識しているから、口答えされても「立場」というものを壁にできる。でもインターネット上ではそうもいかなくて、とくに匿名掲示板では立場なんてものはなく全員が全員、現実から離れて平等だという認識に立つ。だから、バカが図に乗って口答えしてきている、という状況が生まれる。なおさら腹が立つわけだ。現実では親兄弟にしか口答えできないようなクズでも5ちゃんねるの中でなら生き生きと会話できる。となれば当然、同じよう境遇で育った人間が集まって、群れることになる。はじめは違ったかもしれない。多種多様なユーザーがいて、多用な言葉で、多用な意見が飛び交っていたかもしれない。ただ、共通言語でのコミュニケーションを強いるような空気感、一体感がうまれて、「バカ」だらけになってしまうのは時間の問題だったわけだね。まともな人間は、その幼稚な空間にたえられなくなって次第に距離を置くわけだから、なおさらだ。楠木君が言ったとおりでね、まとめサイトなんてのは、なんの取り柄もない人間の末路だよ、あれは。本人は社会に参加した気になっていても、それは勘違いで、社会にはなんら影響をもたない営みでしかない。社会を動かし、動向を左右するのは、考えられた言葉たちだからね。それこそ作家がそういった立場を担った時代が確かにあったわけだし。
横森:島君はまだまだ純粋すぎるんだよ。頭のおかしい人間がそこかしこにいるって事実に慣れないと。
OLE:そういうのに慣れたらオシマイだってことを言っているのでは。
島:そこは僕も反省しないといけないな。だって昔は「死ね」とか「ブス」とか、そういう下品な言葉を見て驚いてましたから。でも今ではなんとも思わない。慣れてしまった。慣れちゃダメですよね。慣れる、馴れる、まあどちらでもいいですが。公衆便所の中で生活できるのかってことですね。
楠木:5ちゃんねるやツイッターですか、ああいうところで起きる出来事の一切って、たとえば「バカ」に巻き込まれた自分の感情って、感情そのものは時間が経ったあとも覚えているかもしれませんが、出来事自体の内容ですね、これはすぐに忘れてしまうんじゃないのかな?自分が何を言った、相手に何を言われた、とか、とにかくすべての言葉が軽いから、覚えていられない。
横森:アンコンシャスにノスタルジーが食われちゃうんだよ、それ。
OLE:そう、ライブ、スポーツと真逆だね。
楠木:文字だけで思い出を作るのって大変ですよ。幼稚な言葉の応酬でみんな心を乱すんだろうけれど、でもそれは思い出にはならないよね。だって情景がどこにも拾えない。そう考えると、かなり悲惨です、今の日本人は。記憶が思い出になりえない。ネット上で心を乱された経験が、10年後20年後に思い出されても、なにも形として浮かび上がらない。ストレスを感じた記憶だけしかそこにはない。悲惨ですよ。
島:一般人はともかく、本気で作家になりたい、本気でアーティストになりたい、それこそアイドルになりたいって考える子は、5ちゃんねるに近づかないことがプロ意識の一歩かもしれませんね。
「プロ意識について」
楠木:プロ意識が高い、って褒め言葉あるじゃないですか。白石麻衣とか。ファンだけじゃなくてメディアでもそういう表現を盛んに使っている。恋愛スキャンダルが出ないとか、仕事を休まないとか、見た目のコンディションとか。まあそれも「意識」の高さによるものなんでしょうけど、僕が考えるに、これは物書き特有のものかもしれませんが、プロ意識というのは要するに、自分が大衆と隔てられていることを意識する、この点に尽きると思う。アイドルで言うなら、ヲタクでもアンチでも、それこそ掲示板やらSNSやら、なんでもいい、とにかく自分がそこから隔てられていると自覚することがプロの階段を登ることにつながるんだと思う。逆説的に、この「意識」をもったアイドルなんて数えるほどしかいませんから、つまりそれをプロ意識と呼べると、答えが出ていると思います。
島:実際に、楠木さんから見てプロ意識が高いアイドルってだれになりますか。
楠木:平手友梨奈と齋藤飛鳥ですかね。自分はこいつらとは違う、っていうのをね、打ち出しているでしょ。平手友梨奈は実際にそうやって大衆を突き放して神秘性を獲得している。齋藤飛鳥は逆にそういう姿勢が共感を呼んで人気者になっている。でも根っこにあるものは同じですよ。大衆=バカと同じようには絶対に見られたくない。ここは絶対に譲らない。平手友梨奈にしても齋藤飛鳥にしても、彼女らの気質はエンタメではなくアートなんですね。勘違いしてはいけませんが、大衆と違う立場を取る、ということと、大衆に認められることは、まったく矛盾しないという点です。アイドルとして食っていくには、大衆に認められなきゃいけませんし、そうあってしかるべきです。これは小説でも演劇でも変わりません。アートと書くとなにか高尚なものだと勘違いするバカが大勢いますが、アートで食うには、と言うよりも、アートで名前が残るのは、古今東西、最終的には大衆にその存在が認められた人間・作品だけです。
OLE:堀未央奈もそうじゃない?
楠木:堀未央奈はアンチにたいしてだけですよね。アンチと対峙することで大衆を味方につけようと行動していますから、そこにプロ意識はないですね。
OLE:ああ。
楠木:別の言い方をすれば、ある職業で食えるようになると、僕の場合は作家ということになりますが、プロと素人の差というのが、わかるようになる。もっと正確に言えば、プロになりたかったけどなれなかった素人との差、ですね。プロになりたかったけどなれなかった素人から見るプロって、往々にして、自分がやりたかったけどできなかったことをやっている、自分では制御してしまったことを制御せずにやっている、自分が正しいとは思えなかったことを、正しいこととしてやっている。そういうふうに見えているはずなんです。プロになるとかれら彼女らのそういう思考がわかるようになる。プロはプロになれなかった人間の弱さがわかるようになるんです。自分とそうした人間が紙一重ではないことを、理解している。決定的に差があることを理解している。これをプロ意識と言うんだとおもいます。まあ、これが理解できる人は、もうすでにプロになっているはずだからアドバイスにもならないんだけど。
2024/05/12 楠木かなえ