レビューではない、批評=クリティーク

座談会

「アイドルの可能性を考える 第二十四回 『アイドルの値打ち』 編」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回は「アイドル」について、ではなく、「アイドルの値打ち」について、話した。

「批評のなかにあるのはレビューだけではない」

文学を考えること、あるいは文学の言葉に直面してそれを用いるということが、ものを考える時に欠かせない。それがどういうことかを考えるのが批評であり、あるいは二十世紀の思想や文学について考える時に決定的ではないか。

福田和也/20世紀の批評を考える

楠木:前回、文学テクストに囚われることがどのような発想につながるのか、軽く触れました。今回はその続きではないんだけど、考えてみると、ブログという言わば閉じられた日記としての純粋さみたいなもののなかで思考を試みるという僕の好事家としての姿勢は、ルバテではなく、実はヴァレリーの「カイエ」に撃たれているんじゃないか、と。しかも僕の場合、その純粋さへの架け橋として「アイドル」を準備していることがジッドにも撃たれてしまっている。ヴァレリーとジッド、という対峙を、ブログとアイドル、で再現・反復している。『アイドルの値打ち』の着想・出発地点は『作家の値うち』なんだけど、実際にやっていることはゴビノーで、さらにその先にヴァレリーとジッドの対峙への明確な模倣・刺激があるという、文学テクストの囲繞に遭ってしまった。
横森:ヴァレリーとジッドの関係性って秋元康とアイドルの関係性に似ているよね。
島:飛躍でしかないけど、わくわくしますよね、そういうの。
楠木:アイドルが書いた物語を読む、という視点の持ち方、表現は、ジッドの小説の起こし方と変わらなくて、アイドルというのは自分ではないもうひとりの自分であり、なおかつその「自分」の日常をさらけ出し、それをある種フィクションとして物語っていく。もうひとりの自分、をアイドルに意識させるのが秋元康の詩であり、そのもうひとりの自分への意識こそヴァレリーの「カイエ」にほかならない。
OLE:「乃木坂46 理想の『選抜』を考える」でアートとエンタメの対峙を話していたけれど、あれもヴァレリーとジッドの引用に思えちゃうね。
島:あの記事は徹底してクリティークですよね。レビューからまた遠ざかったというか。
横森:そもそも「アイドルの値打ち」ってレビューの要素はほとんどないけどね。
島:点数をつけるところはレビューじゃないですか?
OLE:うん。
楠木:点数をつけているのは、読ませるためですよ。まず前提として、アートであろうがエンタメであろうが、読まれないものを書いても意味がないので。個人サイトというのはネット上の孤島です。ツイッターでつぶやくのとは訳が違う。読者を自分の力だけで手繰り寄せないといけない。そこで「点数」が役立つわけです。批評そのものに傷を付けず、かつ、読者を獲得するための工具が「点数」です。サント・ブーヴや小林秀雄、ボードレール、ノースロップ・フライ、柄谷行人、ハイデガー、カントなど、挙げたらキリがないですが、教養として過去のテクストを読了していない人間、つまり「批評」をこれまで身近としなかった人間に僕の日記=カイエを読ませるための工具が「点数」なんですね。つまり「点数」をつける行為はレビューであるかクリティークであるかという話題には立ちません。むしろ僕の批評がクリティークであることを成立させる行為と云えます。
横森:クリティークというものをこの場で読者に向けて説明してあげれば。と言うのもね、連休前に「アイドルの値打ち」の管理人と、編集やってる子と会う機会があってね、楠木君も交えていろいろ話してたんだけど、そのときに、読者からの感想をプリントアウトしたものをいくつか読ませてもらったんだけどさ、そのほとんどが批評=レビューだと考えているというか、それしか知らないというかね。
楠木:レビューというのは言葉のとおりで、その意味は考えるまでもないでしょう。ではクリティークとはなにか。端的に言えば、ある事物・事柄に対し、自分の内に芽生えたその価値に至るまでの思考の過程を物語ること、ですね。シュルレアリスムとかロシア・フォルマリズムとか、考えろと言っているわけじゃなくて、あくまでも僕にとっての批評とは、この意味におけるクリティークである、というだけのことです。これは仕事でも趣味でも変わらない。僕に批評の仕事を依頼する人間も当然この点を期待しているし、だから批評で食えるんですね。要するに物を比べる、その良し悪しを論じるレビュアーとはまったく毛色が異なる職業なんです。もちろん、批評を書くなかで、レビューを冠した記事もいくつか書いてきたし、「アイドルの値打ち」にしてもレビューを掲げた記事もあるはず。
島:僕は楠木さんのレコードレビュー、また読みたいですけどね。
楠木:レビューって、僕のなかではもうクリシェになってしまったのかも。
OLE:「点数」というのはやっぱり読み物として「レビュー」だと思うんだけど、「アイドルの値打ち」はある時期から記事のタイトルに「評判記」を付けるようになった。これを楠木君は、批評の前段階にあることを指している、と話していたけれど、俺には、批評の出現を待っている、そういうふうに見える。そうなると「アイドルの値打ち」はクリティークに支えられているんだな、と。

横森:読者からの感想を読んでいて笑っちゃったのはさ、友達感覚で書いている奴から、批評とはこういうものだ、なんて説教臭い爺さんまで、まあ色とりどりでね。しかもほら、楠木君の手前、管理人も編集の子もそういう読者の声をバカにするってのはできないわけじゃん。だからふたりとも神妙な顔つきで読んでるの。ダウンタウンの「絶対に笑ってはいけない」みたいな空気になってて、結局俺が我慢できずに最初に笑いだしてしまった(笑)。
OLE:悪趣味だなあ。
横森:だって作家を名乗っている人間に向かって素人が知ったかぶりして「批評」を語ってるんだよ。笑うに決まってるでしょ。批評とはこういうものだ、なんて鼻息荒くして言っている時点で批評を書いたことも読んだこともないってバレバレ。
楠木:それはともかく、友達感覚でも構わないけどね。お酒を飲んだ勢いで書いていますって人がいて、僕は嬉しかった。そういうノリが一番嬉しい。楽しんでくれているんだなって。あとは、誰々の批評が読みたい、とかね。希望を書いてくれる人。モチベーションが上がるよね、やっぱり。

島:批評の成り立ち、性質の一つは、既存の枠組みからどうやって抜け出るのかを考えることにありますからね。批評のスタイルは作家自身が定義するものであって、他者が定義することはできないし、他者に定義されてしまったらそれはもう批評ではない。
楠木:そう言われてしまうと肩身が狭いというか、僕は先人のスタイルから未だ抜け出ていませんから……。「アイドルの値打ち」で言えば、最近はより意識的になってきましたが、アイドルをフィクションとして物語ることで発想を得ることが可能なのか、この点を考えることが僕にとっての「批評」です。こう言うとなにか高尚なことをやっているように思われるかもしれないけれど、そんなことはありません。一言で云えば、妄想の飛躍、をやっているだけです。

「作家はツイッターから逃げるべき」

OLE:でも楠木君に感心するのはそういう声に一切左右されないところだよ。俺は自分のサイトに書き込まれたコメントとか結構気にしちゃう(笑)。自分が書いた記事の評判は特に。
楠木:僕はそこまで無関心な人間ではないんだけど、読者の声が自分のスタイルに影響することがあり得ないというのは、影響することがあり得るという選択肢が最初から一つもないから、としか言えません。人間性とか性格とか、言ってしまえばそれまでなんだけど、不思議なもので、プロでも素人の意見が気になってしまう人間ってけして少なくはないらしい。以前、『アイドルとエゴサーチ』という記事を書いた際に強く思ったのは、アイドルが素人であるファンの声に左右されて屈託する、あげくそのスタイルを変えてしまうというのが僕は信じられなくて、たとえば僕は尊敬するプロの作家に認められてデビューした。つまりプロとしての自分を信じるということはその尊敬する作家を信じるという意味でもある。だから読者の意見が自分のスタイルに影響することはまずあり得ない。素人の声に影響されて、プロの作家のもとで修行を重ねた成果を裏切る、ようやく先生に認められたそのスタイルを崩すって、どう考えても愚か者です。これはアイドルだって変わらないはず。乃木坂でいえば3期以降になるのかな。乃木坂をヒットさせた作り手に選ばれたという確かな事実があるんだから、素人のファンの声にその物語が左右されるのはどう考えてもおかしい。才能と実績のあるプロの眼力にかなったから貴女はそこに立っているんだ。あるいは、そういうことを教えてやれる人間がアイドルの身近に存在しないことが問題なのかもしれない。
OLE:ここでもまたエンタメの問題が顔を出すんだよな。エンタメをやる以上はそのプロの作り手がファンの声に左右されてしまうからな。そうなるともうアイドルはどこにも逃げられない。
楠木:そう展開されてしまうと、SNSに背を向けることで自衛しろ、としか言えませんね(笑)。作家もアイドルも。
横森:島田雅彦が袋叩きに遭うのがSNSだからね。あれだけの天才であっても、大衆を敵に回すともう打つ手はない。
OLE:以前、蓮實重彦が三島由紀夫賞を受賞したときにやっぱり大衆から袋叩きにされたんだけど、その光景に対して東浩紀が、叩いてる奴のほとんどが蓮實重彦の本を一度も読んだことがない、といった趣旨の発言をした。まあ現象としてはあれと変わらないよな。
楠木:肝心なのは、それらがすべてSNS上、ツイッターのなかでの出来事だという点でしょうね。東浩紀という人を眺めるに、SNS上での立ち居振る舞いの巧みさが作家としての才能にすり替えられてしまっているように感じる。でも僕は思うんだけど、本当に頭が良い作家は、SNSから退避するんじゃないか。それとも、これからの作家、特に批評家はSNSができないとダメなのか。
横森:ラッパーとSNSの関係に似てる。ラッパーのくせにツイッターで口喧嘩してどうすんだっていう。
島:でもツイッターで話題に挙がらないようじゃラッパーとしてはなかなか食えないんでしょう?
横森:それ言い出したら最近じゃ格闘技もそういう傾向がある。
OLE:ラッパーの事情はよく知らないけど、ライターとして食えるようになると、自分の言葉=お金だからな。俺はせこいから、タダで自分の言葉をくれてやろうとは思わない(笑)。熱く語るなら、それを記事にしてしまえばいい。物書きってそういう仕事でしょう。
楠木:その意識があればSNSから離れることができますね。


2023/05/07 楠木かなえ