アイドルとエゴサーチ

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「エゴサーチを乗り切る」

最近、エゴサーチによって嘆き傷つくアイドルが多い、という話題を耳にした。
エゴサーチとは、自分が属するコミュニティの中で、自分がどのような評価を得ているのか、スマートフォンを片手に夜な夜な確認してしまう行為、とでも表現すべきでしょうか
この行為のもっとも厄介なところは、画面に映し出される無数の称賛よりもたったひとつの批難に動揺し、こころを乱されてしまうという点です。しかもこの動揺からは、どれだけ成功を収め幸福な人生を手に入れようとも決して逃れられない。これはブログやSNSが普及した現在、もはや芸能人だけではなく一般人にとっても他人事ではありません。
今回はこの「エゴサーチ」を乗り切る方法を、文章を書きながら考えていこうと思います。

考えていく、とは言ったものの、これを言ったら元も子もないのですが、エゴサーチなんてものは、やらないにこしたことはありません。だってどう考えてもメリットよりもデメリットのほうが大きいですよね。自分のことを褒めている言葉を探す過程で悪口を見つけて気に病むわけですから、間抜けにみえます。いますぐにやめてしまいましょう、そんな行為。時間の無駄です。人は限りある時間のなかで幸福に向って生きるわけですから、不幸な気分になる場所に自分から向かうのはやっぱりおかしい。
けれどアイドルの場合は話が変わるようです。芸能人は人気商売ですから、ファンの声を情報として積極的に汲み取らなければならないという事情があるようです。グループアイドルなんてのはその最たるもので、「夢」をファンと共有するわけですから、アイドルを演じる少女たちは日々ファンの声に囲まれた生活を強いられる境遇にあると言えるでしょう。だから、エゴサーチをするなと言われても、それは非現実的な要求にしか聞こえない。まあ、もうすでに売れている、夢を掴みつつあるトップアイドルに限って言えばエゴサーチをする必要はないし、そんな暇な時間などないのかもしれませんが。

では、どうしてもエゴサーチと向き合わなければならない人間の葛藤、これはどのようにしてほぐすべきでしょうか。インターネットで検索をしてみると、いちばん最初に目がついたのは、”褒め言葉よりも悪口が気になるのは人間の本能だから諦めることが肝心だ”、という教えです。つまりこれは、自分の感情を情報として客観的に眺めることで怒りがしずまる、というのを狙っているのだとおもいます。なるほど、これはこれで効果的なように感じます。
でも本能だから仕方ないって言われてもストレスが溜まることにはかわりはありませんよね。だって本能なのだから。エゴサーチをしたとき、これからも本能によってまず怒りを感じるだろうし、悪口を書いてる奴にやり返したくなるのが本能ってものじゃないのでしょうか。そのたびにこれは「本能」だから仕方ない、と唱えることで自分の感情をしずめる……、これはちょっと想像しただけでもハードルが高そうです。お坊さん並の修行が必要に感じます。

眼の前に置かれた現実を前に、メンタルケアでそれを凌ごうとする……。これは、実は才能を求められる手法です。メンタルってものは訓練でどうにかなるものじゃありません。これはプロスポーツの世界あるいは投資/投機の世界では常識で、メンタルの強さ柔軟さとは持って生まれた才能によって発揮されるものです。
ではその才能を持たない人間はどうすればよいのでしょうか。

下記は、元メジャーリーガー・松井秀喜の言葉です。

甲子園で5打席連続敬遠を受けたときも、僕は打席の中で「1球でも好球がきたら必ず打ってやる」と自分に言い聞かせていました。プロに入ってからも、相手投手はボール球を使って勝負してきます。ボール攻めにイライラしたら自分の負けです。
いや、人間ですからイライラするのは仕方がないでしょう。しかし、態度に出さない、口に出さないことはできます。態度や口に出してしまうと 気持ちが乱れ、バッティングが乱れ、自分が苦しむことになる。
そして、乱れたバッティングを修正するのは、とても大変で苦しい作業なのです。だから、僕は少しでも乱れる可能性がある行動を慎もうと考えています。

松井秀喜 / 不動心*1

「イライラ」するような情況から自分を遠ざけることこそ本当のメンタルケアなのだ、ということですね。松井選手の場合、日常の所作によってそれを実行している。つまり、メジャーリーグで活躍する超一流のスポーツ選手でさえも一度「イライラ」してしまったら、それを抑え込むのは至難の業なのです。どうやったらこの怒りをしずめることができるのか、という葛藤そのものがあやまった考え方なのです。この情報を取得しただけでもすこし気が楽になるのではないでしょうか。そしてこれは「エゴサーチ」にも通じるところがある。

では、エゴサーチそのものを遠ざけることができないアイドルの場合、どのような方法をもって「イライラ」を避け、自分のスタイルを守るべきでしょうか。物書きの目線でこの屈託の解消につとめてみましょう。

江藤さんの批評が面白いのは、貶すのもすごいけれど、やっぱり褒めるのがうまいのです。批評をやっていて本当に思うのは、褒めることの方が貶すより全然難しいのです。駄目なものを貶すのは簡単だし、大体読者は悪口のほうが好きですから、悪口を書いて失敗するということは滅多にないけれど、褒めるというのは本当に難しくて、自分の書いたものを褒められてもわかるのですが、やはり的外れで褒められても嬉しくないのです。褒める時というのは、まずその作家が何をやろうとしていて、何を目指しているのかということを全部わかっていなければならない。それをわかった上で、なおかつその作家が気付いてない可能性とか、良いところを引き出してやることをしないと、褒めた批評というのは成り立たないのです。

慶應義塾と批評家 / 福田和也

この文章が私の批評家としての出発点でもあるのですが、これは当サイトでアイドルの文章を書く際にも何度も痛感しています。やはり貶すよりも褒めるほうがむずかしい。しかもアイドルの場合、アイドルとは無条件で褒め称えるものだ、という否定し難い側面を持っているので、なおのことむずかしく感じるわけです。アイドルに対する文章を書き始めた頃は、アイドルに限っていえば褒めるよりも貶すほうがむずかしいのではないか、とすら思っていたほどに。しかし、それはアイドルに対する文章を書けば書くほど逆転し、やはり褒めるほうが大変だな、というところに落ち着いた。
ではこの「批評」の話題を「エゴサーチ」にどう活用するのか、引用するのかといえば、要するに、褒め言葉よりも悪口が気になる、という情況がつくられる理由とは、結局、眼の前に垂れ流される大量の褒め言葉のほとんどが説得力をもたないからなのです。悪口を書く人間の言葉に力があり鋭さがあるのではなく、褒め言葉を書く人間の筆づかいが甘いだけなのです。さらに厳しいことを言えば、アイドルに向けて無垢な褒め言葉を書く人間よりも、悪口を書く人間のほうがアイドルのことを真剣に眺めている場合がほとんどなのです。だから大量の称賛がひとつの悪口に一刀両断されてしまう。弱すぎるのです、褒め言葉たちが。
じゃあどうすれば良いのか。たった一人で良い、自分の身近にいる人間の中に尊敬できる人を見つけることです。そして他者の語らいに関しては、その人の言葉だけに左右され生きていけばいい。そうすれば他の言葉は褒め言葉も悪口も雑多でくだらないものに勝手に成り下がっていく。たとえば、作家の場合、大衆に気に入られるよりも、まず一人の編集者に気に入られなければなりません。というか、一人の編集者に認められさえすれば、自分の本が出版され本屋に並び、公衆に存在が認められるわけです。アイドルも同じではないでしょうか。まず自分の身のまわりにいる人間の中から、尊敬する人、尊敬するスタッフ、尊敬する作り手を見つけ、その人に認められるように頑張ったらどうだろうか。そういう人から与えられる一言こそ、ほかのどんな褒め言葉よりも贅沢で実りがあるし、ほかのどんな悪口よりも説得力を感じるのではないでしょうか。

「君はいろいろ悔悟の種を抱え込むことになる」ミスタ・ジョンは以前ニックに言った。
「それは人生最高の経験と言っていい。悔悟するかしないかはいつも自分で決められる。とにかく肝腎なのは、そういうものを抱え込むことだ」
「僕、悪いことなんかしたくありません」ニックはそのとき言った。
「私だって君にしてほしくはない」ミスタ・ジョンはそのとき言った。
「だが君は生きていて、いろんなことをしでかすことになるんだ。嘘をついたり、盗んだりするなよ。誰だって嘘をつかなくちゃいけない。でも、この人だけには嘘をつかないっていう人を選びたまえ」
「あなたを選びます」
「いいとも。どんなことがあっても私には嘘をつくなよ、私も君に嘘をつかないから」
「がんばります」ニックはそのとき言った。
「そういうことじゃない」ミスタ・ジョンは言った。「心からそうしなくちゃいけないんだ」
「わかりました」ニックは言った。「あなたには絶対嘘をつきません」

最後の原野 / ヘミングウェイ(柴田元幸 訳)

ヘミングウェイが師と仰ぐエズラ・パウンドは、ヘミングウェイから原稿の閲読を頼まれた際に、形容詞、接続詞をすべて削ぎ落として返したそうです。その体験がそのままヘミングウェイの文体に宿っているのです。


2021/05/31  楠木


引用:*1 松井選手はなぜバットを投げ捨てなかったのか 新人選手必読の書『不動心』/デイリー新潮