アイドルの可能性を考える 第十七回 遠藤さくら 編

座談会

(C)乃木坂46公式サイト

「アイドル批評を考える」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回は、とくにこれといったテーマはなく、年末年始、それぞれが読んだ小説、鑑賞した映画など、語らうなかで「アイドル」に触れた場面があったので、その抜粋になる。

「テクストの上を歩く遠藤さくら」

「あのね、電話があったんだ。栗坂のお兄さんから」(中略)
「電話があったのは何時ごろ?」
「一時間ぐらい前」
「なんの用だって?」
「ボクにはしゃべれないって。お父さんが夜はうちにいるかって訊いた。大事な用があるから、来るってさ」
「今夜かな?」
「うん」
「なんだろう」(中略)
「途中で一度、テレフォンカードの度数がなくなっちゃったんだと思うけど、切れちゃったんだ。そしたら、あわててかけなおしてきてさ、スゴイ早口でしゃべってさ」
「へえ……珍しいこともあるもんだ。まあ仕方ないね。来るっていうんなら、そのつもりで待っていようか」*1

楠木:宮部みゆきの『火車』は1992年頃に書かれた作品なんだけど、このテレフォンカードのくだり、当時の生活の匂いを削がずに上手に活写しているとおもう。当時は携帯電話なんて普及していないから、約束のあり方が今とは当然異なる。一度約束したらそう簡単には変えられない。約束の場所に向かって移動を始めている相手に連絡を取ることは容易ではないからね。だからこの『火車』のシーンのように、一方的に来訪を告げられたら、とりあえず、待つしかない。そういう意識のなかで生活する人間の表情が、小説にとじこめられている。秋元康がやりたがっていることって、この「テレフォンカード」なんだけど、秋元康のダメなところは「テレフォンカード」と書くだけで「待っていようか」に思惟が辿りつかない。「待っていようか」まで書けたら、文句なしなんだけど、それがなかなか生まれてこない。今回、アイドルソングランキングを作った際には、この「テレフォンカード」に足を引っ張られた曲も多かった。
島:ランキングを眺めていて、みなさん、それぞれが自分の1位を挙げたらおもしろいんじゃないか、って。
OLE:俺はぐるぐる考えが回っていってさ、何周も、今、1位を挙げるなら『条件反射で泣けて来る』。
楠木:『シンクロニシティ』を諦めきれないのかな、って思いましたけどね。条件反射。

島:僕は『絶望の一秒前』ですね、やっぱり。
横森:俺も『絶望の一秒前』。これが1位だろうなって記事読んでたら、8位でびっくり。で、なんでだろうって考えて、思ったのは、これってさ、要は「まくら」の歌なんだよね。芸能界にデビューした子がさ、「まくら」して、それで性行為が終わったあとにラブホの天井を見つめながら、希望を見出そうとしてる、みたいな、そういうのをキラキラと歌うのがアイドルなんだってのを表現してるように感じる。だからすごく幼稚な歌に感じなくもない。『僕が手を叩く方へ』とか、そのへんと比べるとものすごく若者の幼稚な思考に寄り添った歌詞だよねこれ。だから上位に挙げることに馬鹿らしさを感じちゃったのか、勇気が求められたのか。
OLE:そういう解釈の仕方は身も蓋もないけど、『ここにはないもの』がアイドルの卒業ソングじゃなくて秋元康の卒業ソングだ、っていう、楠木君の批評と実は似通ってる。
島:でもその思考の運動力って『アイドルの値打ち』に対する反応ですよね。楽曲ではなくて。
OLE:たしかに。

楠木:『絶望の一秒前』って哲学にかぶれているんだよね。だから「季節の記憶」としては弱いのかな、と。『僕が手を叩く方へ』はしっかりと「アイドル」を見ているから、当然、季節の記憶化が起きている。
横森:そうやって秋元康の詩を秋元康によるアイドル批評として捉えていくと、サント・ブーヴじゃなくてドゥルーズ=ガタリなんだよね『絶望の一秒前』って結局。
OLE:その「アイドル批評」の「批評」っていわゆる論評としての批評ではないよね。
横森:秋元康の原稿・脚本、要はテクストとして活かされるアイドルと、詩によって表現されるアイドルは、またべつものだとおもうんだよね、俺は。さっきの『火車』で例えるなら、「テレフォンカード」はテクストにおけるアイドル批評ということになるはず。
楠木:詩に活かされる、いや、生かされる、と書くべきか。詩に生かされるアイドルの代表格は齋藤飛鳥だとおもう。じゃあテクストは誰だろう?
OLE:生田絵梨花。
楠木:生田絵梨花は秋元康の思惟から抜け出てしまっていると思いますけどね。現役当時すでに。正確に言えば、『帰り道は遠回りしたくなる』を歌った瞬間に、秋元康の詩情を迎え撃ってしまった。

島:思うに、ドゥルーズ=ガタリにしてもベンヤミンにしても、楠木さんに向けて語るのは釈迦に説法になってしまうけれど、楠木さんの現在のスタイルが思索から離れようとしているんじゃないんですか。NGTに向けて書く文章が顕著というか。
楠木:それはありますね。最近は、書くことが考えることにつながる、それこそが文章だ、なんて、あたりまえのことを今更引用してしまったものだから、書きながら考える、ってのに支配されちゃってて、じゃあこれを突き詰めるとどうなるのか、というと、それは哲学というジャンルなんですね。でも哲学っておもしろいですか?アイドルの値打ち、とタイトルに付しておいて、都度、ベンヤミンやらハイデガーが出てきたら、退屈でしょう。詩にしても、小説にしても、哲学になったらダメなんですね。そして小説は詩の批評ですから、批評というジャンルもまた哲学にかぶれちゃダメなんですね。
OLE:批評と研究の対峙でもおなじことが言えるんじゃないか。批評と聞くとなにか社会現象と一致させようとする。アイドルで言えば、現代の社会背景とアイドルを結びつけて語ろうとする”批評家もどき”が多い。そういうのは研究者がやることで、批評家の領分ではない。批評と研究はまったくの別物、と言い切るくらいでないと。
楠木:批評と研究の懸隔とはまた別に、小説と哲学、小説と詩とか、その立場の違いを最近は昔のように強く意識していて、小説というのは詩の批評なんだけど、しかし書くことで考えるつまり批評していくなかでそれが哲学になってしまうことは大きな過ちなのではないか、反芻している。批評を書いているつもりで、ただの評論になってしまう書き手が多いのも、哲学、しかも既存の哲学をかじろうとするからなんだとおもう。哲学にかぶれたいんですね、物書きって。頭が良いように思われたいんですよ、駆け出しの頃って誰でも。だから哲学をかじる。アイドルシーンに批評家と呼べるような作家が現れないのは、哲学という手に取りやすい得物を無視したり、突き抜けたり、両足で立ち上がった作家がまだ一人も居ないから、なんだとおもう。小説も批評も「哲学」とはべつのところになくてはならない。
横森:哲学をひけらかすことが自分の批評に説得力をあたえるって考えてる浅学なライターがうじゃうじゃいるからね。
楠木:小説が詩の批評だというその「批評」を考えるときに、その「批評」を意識して批評を書く人間がどれだけいるのか。というか、それを意識しない書き手こそ、その「批評」に囚われているんだね。批評を書くときに、たとえば、右に出たように、アイドルの批評を書くときに、あたり前のように現代社会に照らし合わせてアイドルを語っているんじゃないか。そうした書き手はおそらく小説をしっかり読んだ経験がない。だから小説というものを、その時代を語るもの、だと無意識に捉えている。だから批評を書くときにある種使命感として、現代社会を語ってしまう。もちろんそういう退屈な文章も批評ではあるんだけど、それは小説つまり現実とフィクションのその二つをほとんど読んでいないし、アイドルで言えば、「アイドル」を見ていないんだね。批評における、公私、で言えば「公」でしかなくて「私」が欠けている。批評はまず、作品を眺めた際に、私だけが発見した部分、という確信がなければならない。もちろん、これは諸刃の剣を今おおきく振っていることになるんだけど(笑)。
OLE:アイドルに教えられる、っていう視点がそこで手を差し伸べてくれるんだな。ああ……なるほど。
横森:うまく結びつけたね(笑)。
楠木:アイドルから教わる、という考えを引っ張るなら、たとえば最近なら「向井葉月」。彼女を前にして想うのは、教わるのは、このアイドルはこれこれこういった人物だ、というイメージを抱いた後に、その自己のイメージを自己の内で覆すことのできるファンが一体どれだけの数いるだろうか、という点。アイドル自身が過去との決別を表明したことで、そのアイドル自身がどう変わるのか、という興味・関心とは別に、ではそのアイドルが変わることを受け入れることができるのか、という問い以上に、その変わってしまったアイドルを眺め、自己の内に根を張ったアイドル観を変えられるのか。変えられるファンというのはものすごく少ないんじゃないか。と、向井葉月の物語はこうした問いに打つけてくれる。

島:哲学のきょうべんは避けなければならないけれど、哲学を支えにして批評を書くこともまた避けられないですよね。
OLE:まあね
楠木:アイドルソングランキングで言えば、まず楽曲の批評を書いた、点数をつけた、これは「私」。その点数を裏切る音楽プレーヤーの再生回数を眺めながら、あたらしい批評=ランキングを作る、これも「私」です。でもその「私」を裏切り、もう一度「私」を利用して批評を書かせる原動には「無私」があります。「私」とはまったく関係ないところに音楽が置かれているのは考えるまでもないことで、その「私」と関係のない音楽の力によって再生回数が積み重ねられていくのだから。当初に記した「私」の批評を「私」に裏切らせるのは、「私」とはまったく無関係に存在する音楽の力にほかならない。つまり「私」が「無私」に負ける。裏を返せば「私」に頼って批評を書くことしか僕にはできないのだけれど、それを実行させるのは「無私」にほかならない。そして、こういう思惟こそ、哲学、に思えてしまい、情けなくなる。
島:でもなにか持ち帰りたいですよね(笑)。思索、って。
楠木:アイドルに結びつけるなら、引用ですか、それが許されるなら、やっぱり僕は遠藤さくらかなあ。遠藤さくらって、眺めていると、どんどん問い詰めたくなりますよね。鑑賞者を哲学者に育て上げてしまうというか。でもアイドル本人の魅力はべつのところにあって、もっと空想的で、小説的。さっきの問いにならえば、テクストつまり言葉に生かされている、ように見える。人は、言葉を利用して、うまく生きていく生き物、ですけど、この人は言葉に生かされているように見える。
OLE:言葉をうかつに発しない人って、言葉を持たないんじゃなくて、言葉に意識的になりすぎているだけって場合が往々にしてある。そういう人間が、頻繁に他者から言葉を与えられて、その他者の代弁者になって言葉を口にする仕事をしているっていうのは、おもしろい。
楠木:たとえば、これは僕もアイドルに対する文章を書く際に、毎回、頭を悩ますことなんだけど、あるアイドルをして同じグループに所属しているアイドルのことをどう呼ぶべきか、ライバル、仲間、同期、同士、友達…、なにひとつ一致するものがないんですね。以前、桜井玲香が同じ1期生に対して、安易に仲間や友達とか、表現したくない、という趣旨のことを言っていたんだけど、そのとおりで、グループアイドルってその関係性を一言で表現することができない。それはなぜか、考えていく際に、遠藤さくらという人の横顔、仕草、演技がここでも役立ってくれて、たとえば、MVの撮影で、遠藤さくらが筒井あやめと向き合って踊るシーンがあるとする。その演技・踊りのなかで目が合う。その瞬間って、日常で接している筒井あやめと目が合っているわけじゃなくて、作品のなかに登場している”なにものか”と目が合っているわけで、そうした経験が、自己の内で解決されないから、言葉をつまらせるのではないか。
OLE:貴女が誰なのか、わからないから、わたしも自分が誰なのか、わからない。

島:演技が上手いですよね。思うに、彼女くらいになると、演技の内に演者の日常を垣間見るんじゃなくて、演者が演技の内に日常のヒントを残しているんじゃないかって。『ここにはないもの』のミュージックビデオを眺めていて、ふと、齋藤飛鳥との関係性みたいなものを記録しておこうと、企んでいるような、そんな演技に見えましたよ。


2023/01/15 楠木かなえ

*1 宮部みゆき / 火車

 

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