STU48の『花は誰のもの?』を聴いた感想

STU48, ブログ, 乃木坂46

(C)花は誰のもの?ミュージックビデオ

「ブログが復旧したようです」

現在、「アイドルの値打ち」では、ライターである私が原稿を友人に渡し、友人がそれをサイトにアップする、というかたちをとっている。友人にサイトのすべてを任せ、管理してもらっている。サイト立ち上げ当時は自分で管理画面にログインをし記事をアップロードしていたのだが、実際にサイトを管理するとなると、ただ記事を書けばいい、という状況を作ることが困難で、様々な問題に直面する。私は作家だから、それでは困る。そこで友人に相談し今に至るわけだが(彼は自分でもいくつか趣味でサイトを運営している)、金曜日の夜、その友人から連絡があった。サイトに問題が起きた、らしい。すこし、困った様子だった。
ただ、これまでにも似たようなことは何度かあった。そのたびに、二人でパソコンの前で四苦八苦してきた。管理人、とは言っても彼はブロガーであってその道の専門家ではないし、当然、私も素人だ。ブログ用のツールをインストールした瞬間、管理画面にアクセスできなくなり冷や汗をかいた、なんてこともあった。しかしそれでもこれまでのトラブルは1~3時間もあれば解決できたと記憶しているが、どうやら今回は深刻だったらしく、復旧まで丸一日かかった。

結論から言えば、今回、サイトのデータベース(SQLと言うらしい)のディスク容量の上限値を超えてしまったことで、データベースにアクセスできない=サイトが応答しない事態に陥ってしまった、ということらしい。
よって、データベースの最適化、復元を試み、復旧した。とはいえ、実際にはなぜ復旧したのかわからないし、復旧しているように見えるだけで問題は解決されていないかもしれない。また、友人の作業によって復旧したのか、あるいは、サーバー管理会社側の行動で復旧したのか、これもいまいちわからない。今回、サービス業者に対して感じたことは、ユーザー側が抱いている不安との距離、システマチックにならざるをえない人間との、懸隔だ。ただ、しばらくして、サーバー管理会社から、多数の同時接続が発生し該当サーバーへの高負荷状況が確認された、という内容のメールが届いたとのこと。

要するにBOTやスパムといった、セキュリティ面の問題、あるいは導入しているプラグインの問題なのだろう。問題は、我々ユーザー側が、異常行動をとった自覚、問題認識を持たない点だろう(えてして、こうしたトラブルが起きた際には、当事者にはその自覚がないものだ、という自覚ならばあるのだが)。つまり今後の対応策がまるで浮かばない。プラグインに問題があるとわかっても、なにがどうダメなのか、解決策がわからない。問題のプラグインを削除する、これだけでは、当然、解決したとは言えない。自分の身は自分で守るしかないから、学び続けるしかない。つまり、ただ文章を書く、という理想からやはりぐんぐんと遠ざかってしまうように感じる。

「『アイドル』をはかる」

トラブルが起きても、バックアップさえあればどうにでもなる、とたかをくくっていたのだが、今回のトラブルではデータベースにアクセスができないのだから、バックアップファイルをいくつ持っていようが意味をなさないのではないか、と疑問にぶつかった。データベースそのものを削除して作り直し、そこにバックアップしたデータを入れれば理論上は復元できるはず、と友人は言うが、それを聞いて私が抱いたのは、もしそれに失敗したらどうなるんだろう、という抑えようのない不安。3年間の積み重ねがすべて無に帰すのだろうか……。頭が真っ白になった。というよりも、クラっとした。
これまでに書いた批評は697記事。サイトの復元を実行する前にこれを手作業ですべてメモ帳にコピーするか……、情動に左右されたバカげた行動に思えるかもしれないが、私はアナログな人間だから、そうすべきだと考えた(幸いなことに、かなり不安定ではあるが、編集画面ならば表示することができた)。毎日バックアップをしっかりとっているから大丈夫、と言われても、不安しかない。そのファイルに問題があった場合どうなるのか。起こってほしいと願うことは絶対に起こらないのに、起こってほしくないと願うことは絶対に起きるのだ。文章とは、これはもう、おなじものは絶対に、二度と書けない。一度失ったら最後、再現など不可能だ。かの小説家・ガルシア・マルケスは日常のアイデアを詰め込んだ貴重なメモ帳を紛失した際、酷い自暴自棄に陥ったらしい。今ならその気持がよくわかる。
とりあえず、その日は結論を保留。友人と別れ、眠れぬ夜を過ごした。眼を閉じながら、いろいろなケースを考えた。最悪の場合、ここで終わりにする、という選択をとらなければならないな、とも。正直、3年分の記事を失った状態からまた批評を書き始めることはできないだろうな、と。記事をすべて手作業でコピーしてさらにそこから一つずつアップしていくことも、もちろん可能だが、その途方もない作業を考えると、心が挫けた。

サイトが復旧した今、こうした不安や想像は(とくに専門家から見れば)バカバカしいものに感じるかもしれない。けれどやはりそのひとにはそのひとなりの、人生の時々の、他者とは比較することができない恐怖、こころの傷みというものがあり、それはやはり「絶望」と表現すべではないだろうか。
と、そこで私が抱いたのは、こうした落ち込んだ情況のなかでアイドルソングはどのような効力を発揮するのだろうか、言葉どおり「活力」になるのだろうか、という好奇心。物書きである以上、なにかあればそれを文章にしてみる、これはもう職業柄仕方のないことなのだ。たとえば、投資家のカーティス・フェイス。彼は自身の経営する会社が”落ち目”になり、その価値が下落した際、躊躇なく持ち株を売り続け生活費を稼いだという。それは彼が経営者である前に投資家であったからだ。
アイドルを真剣に語る、と高らかに宣言したは良いものの、理由はどうであれ、実際に自分が落ち込んだとき、「アイドル」を身近なものとして扱えるだろうか。今はアイドルどころじゃない、と考えてしまうのではないか。タイミング良く、STU48の新曲のMVが公開されたと聞いた。さっそく、眺めてみた。
冗長の極みにおもえる学園ドラマだが、中盤から登場人物がマスクを着けるようになり、それがコロナ禍における青春の喪失のドラマであることに気づいた。とはいえ、アイドルの演技の拙さはさておき、展開の乏しさと展開の唐突さには辟易するものがある。ドラマ部分に25分も準備したのに、季節の移り変わり、その機微を表現することに失敗している。しかし終盤にさしかかりようやく主題の音楽が流れたとき、アイドルが砂浜に並び歌を唄いはじめたとき、わずかだが、こころが揺さぶられたような気がした。現実問題を凌ぐなにか、現実を忘れ、かつ、現実に戻った際に、現実の問題が些細なことに感じられるような、活力をもらったような気がした。
この、気がした、という部分が肝心で、ここに自分の本音があるわけだから、批評を作るうえでは絶対にこの本音を隠してはならない。

この構成で30分はやはり長すぎるようにおもう。けれどこれは、おそらく、曲に自信があったのだろう。会心の手応えがあったのだろう。ドラマが冗長に感じれば感じるほど、それが退屈であればあるほど音楽の力が増幅されるという、そうしたケレンがあるようにおもわれる。『花は誰のもの?』は傑作かもしれない。
AKBグループにあっては、今年、SKE48の新曲『心にFlower』に続き、このSTU48の新曲を見るに、坂道シリーズの楽曲に比肩するクオリティの実現に成功しているようにおもう。2015年に発表された『Green Flash』を最後に、AKBグループの表題作は軒並み平均以下の作品が並ぶが、ここにきて、平均を凌ぐ力作が並んだ。

では乃木坂46の『絶望の一秒前』はどうだろうか。まさに絶望の内にある今の自分の情況と一致し、音楽の力を発揮するのではないか、期待した。が、こちらはピンとこなかった。それもそのはず、これは絶望と希望のあいだに線を引き、絶望の次の瞬間にひらく希望を歌っているのだから、落ち込んでいる今の自分が共感できるはずがない。むしろ、理想的にすぎ、共感ともっとも遠い場所にあるように感じられる。
5期生の多くは現在この楽曲と合致した場所に立ちその「希望」を体感しているはずだが、一方で、中西アルノ、岡本姫奈の両名は、自分が演じ歌った、絶望の次の瞬間にひらく希望を表現した『絶望の一秒前』を、とても活力とは捉えられない、落ち込んだ時間を過ごしているのではないか。
何が言いたいのか、というと、不安に満ち屈託を抱え込んだ人間が、カメラのレンズを通して眺めるように、手の届かない眼前にいるならば、それがどこまで大ごとなのか、それがどれだけの絶望なのか、共感ではなく、同情でもなく、ボーダーの向こう側に立つその人の感情を、まず想像しようと試みる、これが肝要なのではないだろうか。


2022/04/03 楠木