山下美月 × 前田敦子
「私は私を好きになる」
根性なしですぐ弱音を吐く自分と向き合いたくなかった。いつの間にかテレビ画面から消えた芸能人や歌手、引退してコーチにも解説者にもなれなかったスポーツ選手は、いったいその後何をしているのだろうと他人事のように思っていたが、実際ブレイクしてそれまでの半素人気分が抜けて完全な芸能人として周囲から認識されている今になっても、自分がどこに行き何をするのか見当もつかない。もし私が人々から完全に忘れ去られるときが来たら、そのとき私はどこにいるのだろう。
綿矢りさ / 夢を与える
山下美月、平成11年生、乃木坂46の第三期生。
前田敦子に似ている。顔だけではない。アイドルとしての性(さが)にも遠く響き合うところがある。
とはいえ、山下本人の言によれば、彼女が憧れた人物は前田敦子の好敵手であった大島優子であり、たしかに、たとえば生まれながらに強い主人公感を放つ少女のアンチテーゼとしてつつがなくヒールを演じきるだけの力量を備える点、またそうした役割の強制を笑顔で凌ぎつつ、それをアイドルの飛翔力に還元するだけの行動力のめざましさは、大島優子がつくりあげたエコールの影響下にあることを教えている。
「大島優子」という存在を下敷きにして立ち上げられたグループアイドル・山下美月の魅力を一言で統括すれば、暗示に満ちたアイドル、ということになるだろうか。
アイドルに生まれ変わることを夜明けつまり希望と歌った『夜明けまで強がらなくてもいい』のミュージックビデオにおいて描かれた、一度、大切な場所から去る決意をした人間が、しかし大事な忘れ物に気づき、あるいはやりのこしたなにか、諦めかけたなにかを取り戻そうと振り返り、走り出す、そのシーン、その役を演じた山下の横顔は、身も蓋もなく、暗示に満ちあふれていた。
暗示という言葉のイメージ、字面どおり、この人は、星の見えない夜空のように陰鬱で暗い気分の持ち主、素顔のよく見えない人、であり、ゆえに、デビュー直後、次世代の注目株と目され高い期待感を多くのファンから寄せられるのも、エースやセンターの話題に対しライバルたちの常に一歩うしろを歩んできた。
人は、初対面の、自分の過去を知らない相手のほうが、無防備にこころをさらしたり、打ち明け話をしたり、できる。個人的な打ち明け話をするような間柄ではないということをつい忘れ、語ってしまうような、距離感。しかしそうやって一方的に内面をさらけだしたことで、相手との距離をより広げてしまったことを自覚する虚しさ、に山下美月という人の最高度の魅力があると思うのだが、なおざりにされてきた。
白石麻衣の卒業、またコロナ禍という窮地にあってようやく、未来をつくる、という作り手の高い志向の試弾となり、満を持すかたちで表題作のセンターに立ったが、間を置かずして、アイドルである実感が未だに持てない、とインタビューで語り転向の素振りを見せた。そしてそのような場面にあるとき、彼女はほとんどいつも、笑っていた。笑顔を絶やさなかった。やはり暗示に、ジャーゴンに満ちている。
こうした、山下美月のアイドルとしての相貌、生来の暗さを「笑顔」で凌ぐ、笑顔=仮面の裏にアイドルの本音がある、と確信させるような、アイドルの編み方、にこそ大島優子の存在感を見出すのであり、換言すれば、山下が大島優子のエコールにとらわれることの最も明確なしるしとは、アイドルを演じることの命題に「活力」つまり「笑顔」を置く点にある、と云えるだろう。
とすれば、この人は、この山下美月というアイドルは、凡庸、とするしかない。
しかし肝要なのは、意識的にしろ、無意識にしろ、山下に強い影響力を与えた大島優子は凡庸なアイドルではけしてない、という点に証される、矛盾にある。
前田敦子のライバルとして、未完成・未成熟つまりはバナールにさんざめき輝く少女から「アイドル」の主流を奪還するために笑顔=アイドルという古典を自己の演じるアイドルの内奥に引いた大島優子というアイドルは凡庸から遠く離れた存在なのだが、その大島のエコールにとらわれ、「アイドル」のひとつの解釈でしかない「笑顔」をアイドルの本分だと確信してしまうところに山下の凡庸さがあるのだが、この山下美月の凡庸さを、あるいは、通俗、と換言・表現することが可能だろうか。世間の通念の範囲内においてでしか物事を解釈できない、想像力の限定された人、他者の想像力の内側で溺れ反響する人、と呼ぶべきかもしれない。そして、その想像力の限定さ、狭さ、にこのアイドルの本領があるのだ。
笑顔をもってファンに活力を与えることが「アイドル」の本分だと唱え、そのとおりにアイドルを演じるつもりならば、当然、まず自分自身が笑顔にならなければならないし、自分が笑顔になる、という言葉の意味を考えれば、これもまた至極当然、自分のことを好きでなければならない。
ここに、ひとつ、矛盾が、屈託が生じる。
笑顔を振り撒くことが「アイドル」の使命であるならば、その使命感に発揮される行動力とは、説明するまでもなく、あらゆる場面で笑顔を振り撒く「アイドル」への演技、であり、つまりは、自己の感情を圧し殺す日常の演技、トラバイユにされた「アイドル」のなかで、自己の笑顔が偽りのものであるという自覚、他者=ファンに活力を与えるために用意し彫琢した笑顔にほかならないという自覚によって彼女が発見してしまうのは、自己に対するある種の裏切り、ほんとうの自分ではないなにか、を演じているにすぎないという現実感覚の支配であり、そうした自分を好きになれる人間など果たして存在するのだろうか、仮に、自己の感情を無視し笑顔を作り他者に活力を与えるという無償さに自己愛を見出すとしても、そうした自己愛に肥大して行く人間を、自分を、果たして人は好きになれるのだろうか、いずれにせよ、彼女は矛盾に引き裂かれる。
こうした、通俗としての凡庸さ、通俗としてでしかありえない、という点、ともすれば、通俗のなかでアイドルを解釈されてしまう一面にはまさしく前田敦子を想起させ運命につかまるのだが、通俗と闘いそれを打ち破ることを成長の物語にかえてアイドルの魅力を発散するという、天険の利を生かす前田に比して、山下は、通俗にとらわれることをユーモアにかえて語れてしまう大胆さ、演劇の才を持っている。
山下美月のユーモアがアイドルの作品として実ったのが『僕は僕を好きになる』のミュージックビデオであり、アイドル=芸能人として暮らし働くその日常風景が、唐突に、アイドルを演じる少女の日常風景へと切り替えられるという、ウソを作ることのおもしろさ、ケレンの実体験として、遊び心の内に表現されている。女優やアイドルつまり芸能界に無性に憧れた人間が実際にその夢を叶えた際の歓喜、要するに、通俗、野心、虚栄心が映像の端々に、というよりも、作品の構図・モチーフそのものに刻印されている。
同作にて作詞家・秋元康が提示した詩情、人生を生きることへの活力を込めたその世界観に山下の思惟・アイデアを反映した映像作品を照らし合わせ、読むならば、笑顔の演技=嘘をつくっている自分も、嘘をついていない自然体の自分も、どちらもほんとうの自分なんだ、という励まし、活力が込められているように感じる。自分ではないもうひとりの自分を日常的に演じ「私」を喪失して行くグループアイドルだけが表現し得る境地に達し、その活力を悲喜劇=ユーモアにもたれかかりながら、作品の内に見事に落とし込んでいる。
おもしろいのは、そうした活力を描く過程で、演者自身がより混乱し、より自分を見失っているように見える点であり、素顔の提示すら演劇で表現してしまう、他者に向けて素顔を提示しないところに素顔があるのだと確信しジャーゴンを演じてしまう山下美月の横顔には、『夜明けまで強がらなくてもいい』のミュージックビデオにおいて伝えられた暗示を転向する、一種の勇敢さが出てきたようにおもう。
現在の、衒気に満ちた演技を八双する山下美月を眺めるに、電気ストーブの前で、膝を抱えて座り、吹出口の奥で揺れる青白い炎をじっと見つめるような、彼女のかつての暗さ、寂寥が払拭されたかに見える。暗示に満ちていたその横顔が、どこか示唆的になったかに見える。
問題は、その成長、変化を遂げたアイドルの容貌がまったくもって魅力的に映らない点だろう。たとえばそれは踊りによくあらわれている。アイドルの動作、表情、表現される感情のすべてが「演技」にしか見えない。
演技を下敷きにして踊りを作り上げることと、踊りを演技に見せてしまうことでは、意味がまったく異なる。3期生楽曲『僕が手を叩く方へ』のミュージックビデオにおける山下の表情にはたしかにアイドルを演じる人間がほかならぬ「アイドル」そのものにやつされていくことを笑顔で表現するという、過去と未来に挟撃されてきたアイドルの集大成を目撃したが、他の作品で演じ表現される表情の大部分は、演じることへの心がまえの強さに笑顔と踊りが束縛され硬直され、見るに堪えない。
もちろん、演技力そのものを問うならば、その実力は折り紙付きで、現在のアイドルシーンにあっては一頭抜き、もはや鉄壁にすらおもう。しかしその鉄壁さをして、演じられるアイドルの容貌に画一化をまねき、どの楽曲、どの映像作品においても同じ登場人物にしか見えない。ともすればそれは、乃木坂であることの志の高さ、理想に向けた彼女の言葉の率直さも見栄えの良いエスプリ、リップサービスにすぎないのではないか、という、「アイドル」に向ける熱誠、モチベーションの枯渇を想わせる。
しかもそれとは別にグループアイドルとしての「成功」が約束され日々積み上げられていくわけだから、「アイドル」そのものが退屈なフェーズに入ってしまった、と思えてならないし、そんな彼女が、忘れられない人になりたい、と願うのも当然の結実に見えて仕方ない。しかしまた、そうした凡庸さの現れに、やはり、この人のアイドルとしての値打ちがあることもまた否定しようのない事実なのだろう。
大島優子=AKBへの憧れが夢を象り、理想のアイドル=偶像を作り上げたからには、当然、自分もだれかの憧れでありたい、と強く願うことになるのだろうし、それは、忘れられない人、という詩的言語への憧憬に裏付けられてもいる。アイドルとしての成功を手に入れ、”完全な芸能人”になった今、その憧憬はより具体的なかたちをもって彼女を縛ることだろう。始まりがあれば、終りもある。否応なく、いつか必ず自分の存在が大衆の記憶から抜け落ちてしまうことの不安にふるえている山下の横顔、笑顔のリアリティは、たしかに、今日のアイドルのなにがしかを先回りして撃っていると云えるかもしれない。肝心なことは、その「大衆」に彼女自身もまた含まれているという点だろう。アイドルを演じる過程、つまり夢の途中で編み上げたその笑顔が、他者のためだけに用意された偽りの笑顔などではなく、僕は僕を好きになる、とつぶやいた、ほんとうの笑顔であると胸を張れば張るほど、笑顔を演じ生きることのなかったかつての自分、つまりほんとうの自分を記憶の内に見失っていくという、その倒錯に、最も強い希求があるかに見える。
2023/01/19 楠木かなえ
2024/04/25 タイトルを変更しました