「増田三莉音」に心を騒がせつつ、

「アイドルの可能性を考える 第五十回」
メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。
「神の子どもたちはみな踊る」
島:乃木坂の6期生はどうですか。語るにはまだ早いですか。
楠木:正直、パッとしない子が続いたけれど、最後の子(増田三莉音)で僕は心が騒いだかな。これが本音なので、この点は記憶・記録しておかなきゃね。
横森:全体的に映像が悪いよ。作り直そうって言えるスタッフはいなかったのか。
楠木:ここ最近、映画を作っていて痛感したのは、文章と違って、出来上がった作品は、誰かひとりのものではない、制作に関わった、大勢の人間のものなんだって点で、つまり、完成した作品を観て、これはまたつまらないものが出来上がったな、なんてことは、口が裂けても言えないんですね。だから、世の中には退屈な映画がいくつもあるんだなと、最近よくよく思っている。文章との決定的な違いがもう一つあって、それは改稿・加筆が基本的にはできないという点です。映像は、撮り直しが大変ですから。セットを組み直して、役者を呼んで、あらためて演技指導して、というのは、ほぼ不可能です。そうなると、編集の能力がかなり求められる。2時間の映像を1時間にするくらいの大胆さ、なおかつ、ストーリーにキズを付けない発想が求められる。でもそんなことを言ったって、相手にされないからね。だって、眼の前にある映像は、みんなで頑張って準備して、作り上げたものだから。
横森:日本のテレビドラマや映画って、なんであんなに退屈なんだろうか。映像のクリシェの問題もあるんだろうけど、単純に、会話がつまらない。海外の作品はさ、場面に展開がなくても、会話に退屈な部分が少ない。映像と言語の相性なんじゃないかって、考えてしまうくらい。
楠木:最近なら『極悪女王』は楽しめたけどね。
OLE:『極悪女王』で「実力でいちばんになれるのはアマチュアまでだ。プロは実力だけじゃいちばんにはなれない」というようなセリフがあって、これはアイドルも同じだろうなって、思ったね。いや、この手の葛藤は陳腐なんだけどさ、言葉では言い表すことができない、光るものがなきゃ、やっぱりダメなんだね、芸界ってのは。
島:でもそれって、実はその「光」を見出す側が、いちばん大変ですよ。ほとんどが、ないものをあるものとして、持ち上げることになるんだから。
OLE:ないものをあるものとして持ち上げているように見えるのは、自分が感じたものを、うまく言葉にできていないってだけだよ。まあアイドルを見る「眼」は、俺にはないけどね(笑)。
島:それはここにいる全員がそうですよ。みなさん、作家やら役者やらへの眼力はあるのに、アイドルはまるきりじゃないですか、はっきり言って。乃木坂の5期生だって菅原咲月だの川﨑桜だの、売れる売れるって息巻いてたのに、ぜんぜんダメで、逆に黙殺していた池田瑛紗や小川彩がすごく伸びてる。小説は読めてもアイドルは読めないんですね。五百城茉央なんて、最近じゃ僕のところにも名前が出てきますよ。
楠木:菅原咲月って、わかりやすく通念に囚われた人なんですね。世間の諒解の上に立つことでしか物事を発想し得ない。人と違うことを言う、言わない、ということではなくて、人と違うことを言わなければならないという抑圧、ある種、言葉の緊張感をもっていない。中西アルノなんかは、つねに人と違うことを言ってやろうと身構えています。言えるかどうか、ではなくて、言おうとしているかどうか、なんです。そういう意味では、副キャプテンですか、将来のキャプテンってことで、菅原咲月は適材適所だと思う。
横森:五百城茉央の凄さは、乃木坂の権勢を知らしめる存在として、作り手に選ばれた点だよ。アイドル本人を眺めても、風采が上がらない。でも、そういう子を売れっ子にできちゃうのが乃木坂なんだってのを、知らしめているわけ。業界受けが良いとすれば、そりゃそうだって言うしかない(笑)。
楠木:五百城茉央は中庸というイメージから抜け出た点が特筆的に感じます。素朴さってところが作り手に受けて、そういうアイドルを売り出すことがグループの価値につながると考えるのは生駒里奈の頃から変わりませんが、生駒里奈と違い、五百城茉央にはエロティックも備わっているという点が、新しいのかな、と。でも、ちょっと流されやすいのかな、とも思いますが。覚悟を持つことと、流されてしまうことは、錯覚しやすいので。もちろん、そういう危なっかしい部分が魅力でもあるんだろうけど。
横森:『歩道橋』を歌うよりも五百城茉央の写真集を売るほうが、アイドルの価値を知らしめるんだよな。6期生にしてもさ。AKBや乃木坂などのメジャー・アイドルに限って言えば、境遇はかなり恵まれていて、オーディションに合格さえすれば、とりあえずの生活は保障される。審査員に才能があろうがなかろうが、アイドルで生活が成り立つことは約束されている。文壇なんて、芥川賞を獲ったって小説家として文章一本で食える作家なんて10年に1人出るかどうかでしょう。10年に一作、受賞作品が出るくらいのハードルを設ければ良いのであって、毎年毎年ハードルを下げていって、つまらない作品を無責任に選出するから、自分には才能があるって思い込んで人生をダメにしちゃうような人間が生まれちゃう。しかし裏を返せば、生き残るには書き続ける才能を求められる世界ってことでもある。賞がゴールになっていない。今のアイドルは、オーディションにさえ合格すれば、アイドルであるうちは生活できるからね。それがどういうことを意味するのか。才能だとかオーラとか、審査員は見ようとしなくなるんじゃないか。売れるかどうかは、自分たち作り手の力量で決まると、考えるようになるんじゃないか。
楠木:森田ひかるを眺めていると、平手友梨奈によく似ていることがわかる。眼がよく似ている。次に、山下瞳月。彼女を眺めていると、森田ひかるに似ているんだね、やはり眼が。偶然ではないと思うけどね。
島:そのポジションが中西アルノではダメだったんですか。
楠木:中西アルノは森田ひかるには似ていないから。あと彼女は踊れないので、櫻坂には合格しない。中西アルノが『静寂の暴力』を山下瞳月レベルで踊れるとはとても思えない。でも彼女はトップアイドルです。皮肉ではなくて。
OLE:そういう意味だと、誰よりも乃木坂らしいアイドルと呼べるね(笑)。
楠木:乃木坂に自分の居場所があるということですね。だからほだされるんでしょう。別の云い方をすれば、自分の価値とか、役割とか、明確に教えてくれるグループなんだろうね、乃木坂は。
島:アイドルにすれば、それはそうなんでしょうけど、そういう職場環境の良さみたいなものって、到底作品の魅力には結びつかないものですよね。
OLE:アイドルの場合は、むしろそれがコンテンツになっているんだよ。ファンが喜ぶんだから、それで。
横森:啓発ってことでしょ。時代だよ。
島:そういうものが透けて見えてしまうと、気持ち悪くないですか?
OLE:まあ。
楠木:時代を切り結ぶなにかがあるとすれば、やはり「青春」になるんだと思います。その時代を生きている人間のなにかをアイドルが象徴し得るとすれば、それはやはり「青春」になるんじゃないか。アイドルが若者の当事者であるから、という話ではなく、若者というのは、青春が過ぎてしまうことに怯えはするだろうけれど、その本当の価値にはまだ気づくことができない。まだそれを失ってはいないからね。ほんとうの価値というのは、本来的に失ってから気づくものなので。けれど、アイドルを演じる少女の場合、ある種、青春を犠牲にしてアイドルをやるわけでしょう?なら、その価値に気づけるんじゃないかな。「青春」の価値をなんらかのかたちをとってあらわすことができる。だから現代人を象徴し得る、ということです。
横森:「青春」ってのは、まあ「恋愛」に占められるが、なんせアイドル諸君はセックスを悪いこと、してはいけないことだと、固く信じているからね(笑)。
島:アイドル自身は思ってないんじゃ?セックスが悪いことだと思っているのはファンの側であって。
横森:してはいけないことだと考えているんだから、悪いことなんだよ。
楠木:矛盾はありますよ。だってアイドルはコンドームの宣伝・啓蒙はしないからね。若者をリードする存在であるなら、コンドームは積極的に広めるべきだし、広告塔になるべきでしょう。けれど、それはアイドルの商品価値を下げてしまうらしいので、絶対にやらない。こうした矛盾は、作品の価値にも響いているはずです。アイドルを社会にむすびつけて、応援ソングをつくっても、どこか説得力に欠ける。それはあるいは、若者の性の部分につながることをみずから拒否しているから、かもしれない。ほんとうはセックスをしたいけれど、できない、みたいな、青春のもどかしさって部分で通い合っていると言えるかもしれないけれど……。
横森:それはかなり都合の良い「青春」の使い方に見える(笑)。
島:アイドルは「処女」のほうが良いのか、という話題ですよね、結局。
OLE:売れる売れないって話なら、売れるのは「処女ではないけれど処女に見せれる人」だよ。ただ処女で売れるなら、こんな簡単な話はない。むしろ処女のほうが、今は人気を出しにくいんじゃないかな。
楠木:処女は言葉がまだまだ硬いですからね。思い込みも強いはずです。「生硬」と表現してもいいけれど、そういう少女だけにしか表せない音楽もあるはずです。アイドル批評の立場を取るなら、やはり「処女」のほうが希求は高いと思います。あるアイドルを眺めて、たしかに引かれるものがある、しかし、その引かれる部分を上手く言葉にして表すことができない。そういうアイドルがいたのなら、そのアイドルは処女性がたかい、つまり青春の只中に立っている、ということです。それをどうにかして言葉・文章にすることが、批評につながるはずです。処女ではないアイドルは、自分の魅力をもう理解していて、すでにファンに言葉にして伝えているはずですから、「青春」という意味では、語れる部分がほとんど残されていない。
横森:性交が、ある意味では青春のゴールなんだってのは、いつの時代も変わらない。
OLE:「処女」って部分が、秋元康の啓蒙を支えているんだと思うんだよね。新人のアイドルに向けて応援ソングを作るじゃない?『絶望の一秒前』とかさ、あれは「処女」が条件になっている気がしてならない。
横森:そういう「啓蒙」ってもう成り立たないでしょ。啓蒙ってのはさ、ヴォルテールに従えば、働いたあとに飲むビールがいちばん美味い、ってことを言っているわけでしょう。でも若者にとってはさ、その手の説教はもはや生きるための教えにならないんじゃないか。労働というものが、救いにならないんだから。啓蒙するだけでは応援ソングになり得ない。
OLE:労働が救いにならないなんてことが、果たしてほんとうにあるのか、とも思うけどね。『カンディード』で結ばれるところの労働の救済の意味は、労働の対価ではなく、リスボン地震という災禍にあって、土地を復興することそのものが活力になり得るってことを、言っているわけでしょう。現代人でもそれは変わらないんじゃないの。それとも現代人は復興における逆転すら無気力に眺めるわけ?
楠木:『現代文学』を上滑るなら、阪神淡路大震災への応答として書かれた『神の子どもたちはみな踊る』は『カンディード』の敗北を唄っているということになります。大地震が人々にもたらすのは、世界の終わりなどではなく、より身近なもの、自分の内に眠っているなにかを呼び覚ます点にある。比喩ではなく、実際的に、地震という災禍をとおして、今まで自分では気づけなかった自分の本性のようなものに、不意に、きづく。それが「善」であるのか、「悪」であるのか、わからないけれど、村上春樹は、最終的には、短編を一つ、書き下ろしてまで、「善」で結んでいる。この点はかなり無垢に見えるけれど、その無垢って点では、アイドルに引用できなくもない。たとえば秋元康は、この「善」を「アイドル」として書いている。乃木坂の4期以降は特に顕著ですが、「アイドル」を人生の夜明けとする、「アイドル」を、自分のなかにあるなにかを呼び覚ますものとして扱っている。この点がひとつ、アイドルにとっても、作り手にとっても、そしてファンにとっても、アイドルを眺めることのヒントになるんだと思います。眼の前に立つアイドルを眺めて、その少女が「アイドル」によってなにを呼び覚まされたのか、他人にはない、どのような感情で世界を理解しているのか、考えることが、アイドル観をじかに養うんじゃないか。
2025/02/22 楠木かなえ