日向坂46(けやき坂46) 齊藤京子 評価

齊藤京子 (C) メンズノンノ 2017年12月号

「自家撞着」

ふてぶてしく勇敢、末端的登場人物の一人としてアイドルの扉をひらいたが、画面に映し出された瞬間に、すでに強い”ヒーロー”感を具えていた。齊藤京子は日向坂46の「撞着語法」を象徴する人物である。欅坂46とけやき坂46の2つの家郷を抱え込むことになった日向坂46のなかにあって、その境遇にもっとも苦戦するアイドルである。齊藤京子のアイデンティティとは表面的な中森明菜的”声音”などではなく、逆境に立たされてもそれに物怖じしない”風姿”だろう。デビュー直後に遭遇した、けやき坂46の不遇を前にしても、欅坂46のメンバーに囲繞されても、常に存在感=並なみならぬ個性を発揮できた要因に彼女の力強い”風姿”を挙げられるが、”大人たちの決定”でグループが日向坂へと歩を進めたことによって、その姿形は逆境のなかでのみ作られる奇跡であった、という事実が、悲観が露見してしまった。まるで、森の中で枯枝を踏みつけたときのように。

自己の内から生来の輝きが欠落して行く光景に耐えきれず、物語性の獲得、平易に云えば安易な想像力に頼ったキャラクターの構成に奔走するアイドルは少なくない。(結果的に)日常の写実の欠如を招く彼女たちは、真実への架け橋となる”嘘”を作ることができず、内情を吐露する場面に乏しい。むしろ、齊藤京子が、自身の作るアイドルに降る身勝手な期待感(ヒーロー感への妄執)を裏切り、典型的な耽美に傾倒して行った一連の流れこそ、日常を演じる少女たちの内情(不安)の表出を象徴する出来事なのだろう。ふてぶてしさが伝える異物感を打ち消し、凡庸を抽出する耽美こそ歌手ではなくアイドルを演じることになった彼女(齊藤京子)の不安の徴なのだ。自身が演じるアイドルの底の浅さ、平板な物語を看破される不安は恐怖に姿を変えて彼女に卑屈を描かせる。

物語性の欠如を前に、その場しのぎでアイドルのキャラクターを作ろうと企て空回りする齊藤京子の子供じみた不作法や無邪気とは、卑屈の仮装に外ならない。夢への軌跡に対する科白に自家撞着が現れるのはめずらしい話ではないが、齊藤京子の場合、立ち居振る舞いや仕草そのものが自家撞着に映る。筐体の移動によって自己の内からは容赦なく欠落したのに、それを喪失せずに”生まれたまま”の輝きを放つアイドルに対する卑屈の自覚は、無感動に他者を傷つけ、摩耗させ、損なわせる行為を彼女に強いる。彼女は、自身の内に在る”大切に抱えたものを欠落し失うことを恐れたり不安に思う気持ち”が一つのリグレットとして結実した経験を一度も持たないのだろう。だから、不嗜の前に置かれるべき抵抗がない。グループ改名後に見せる彼女の無思慮=衆目を集めようと試みる行為を大園桃子や前田敦子的な情動の発露と捉えきれない理由は、それが仮装だからである。彼女の行為は、苔が剥げてむき出しになった石段の上で交尾するダンゴムシや、勢いよく回る扇風機の羽に毎朝求婚しに訪れるオニヤンマのような本物の無邪気、醜態ではないし、孫息子の結婚式で手に持った黄金色のシャンパンが注がれたグラスの存在を忘れたまま花嫁を抱きしめようと手をあげた瞬間にシャンパンを花嫁の顔に浴びせかけてしまった老婆のような後悔も背負わない。齊藤京子の「自家撞着」とは、堀未央奈的「恬然」と酷似しており、無邪気なアイドルや滑稽なアイドルを演じる卑屈の徴である。だからひどく痛々しい。裏を返せば、彼女は自身が作るアイドルの行き詰まりを自身の行動によって証明してしまっているのだ。”無邪気な子供”を演じていることを観者に看破されたアイドルほど無残な登場人物はいないのではないか、資質の減衰という意味では、平成と令和の境界線を踏み越えたアイドルのなかでもっともその量が多いアイドルと呼べるだろう。
あるいは、少しずつ、しかし確実に自身を蝕む減衰を受け入れ、得意の歌でアイドルの苦渋を表現することが可能になれば、声音だけでなく、儚さも中森明菜に近づけるかもしれない。

 

総合評価 56点

問題なくアイドルと呼べる人物

(評価内訳)

ビジュアル 12点 ライブ表現 15点

演劇表現 10点 バラエティ 11点

情動感染 8点

けやき坂46 活動期間 2016年~

評価点数の見方