ブログを書くことの難しさ

乃木坂46, 特集

(C)斎藤ちはる 公式ブログ

「ちはるーむへようこそ」

自身のこころの内にある感情を、ストレートに、そのまま言葉にかえて、文章を用いて表現することは、実は、考えている以上に難しい作業だ。物は試し、実際に、頭に浮かんだ言葉をそのままノートに、メモ帳に、書き込んでみてほしい。おそらくはほとんどの人間が指を動かす段階で無意識に言葉を校正してしまい、元あったイメージとはニュアンスのズレた文章を作ってしまうはずだ。
文章を書くとき、人は往々にして、自分のなかでだけ了解されているものごとを他者に説明する、という態度を無意識にとってしまう。だから、言葉が変わる。言葉が、話し言葉ではなくなる。自分の言葉を他者に伝える方法の一つに文章があり、他者に理解されるものを文章と呼ぶのだから、当然と云えば当然なのだが。しかし皮肉なことに、読者にとって最も退屈な文章こそ、そうした説明的な言葉の羅列、なのである。
この点が、文章を書き始めるにあたって誰もがまず直面する「壁」と云えるだろうか。この「壁」をアイドルに引くならば、自分の魅力をファンに伝えたい、理解されたい、と切望する多くの少女が、理解されたいがために自己の言葉を類型に落とし込み、アイドルという一般生活者とはかけ離れた生活の匂いを、自ら消してしまう。感情の整理など一切無視した、文法の乱れた、わけがわからない言葉のほうがリアリティ・独自性があって、ブログを読むファンに向け素顔の扉をひらくはずなのだが、そうした文章を書くアイドルは極端に少ない。
ちはるーむへようこそ、と両手を広げ、ファンに日記を差し出し続けた斎藤ちはるのその行動力が、ファンを期待感で包まずに、むしろ辟易させてしまった理由も、ここにある。逆説的に、ファンの眼前で素顔を描き出すことがどうしてもできないという点に、このアイドルの弱さがある。文章を、ブログを果敢に更新し続けることが、アイドルの魅力の無さを証し立ててしまうという意味では、ブログを書くことの難しさを体現した人、と云えるかもしれない。どれだけ美人であっても、言葉が、文章が退屈であれば、人は惹かれない。

素顔をさらけ出すアイドルが売れることは、もはや説明するまでもない事実である。アイドルも、作り手も、またファンの多くにとっても、すでに自明の理である。たとえば、斎藤ちはると同年齢でデビューをした生田絵梨花は、この云わば”あるがままに”という姿勢づくりへのハードルを乗り越えてしまう資質=演技力をそなえており、ファンの眼前であっさりと、自身のこころの内にある言葉を、なんらかの企図によって変換させることなく、感情の一切を水増しすることなく提示し、その素顔の迫力によって多くのファンをとりこにしてきた。斎藤ちはるには、多くの平凡なアイドル同様に、その資質が欠如していた。
とはいえ、問題は、文章における資質の欠如にあるのではなく、アイドルの序列闘争を前になんとかしてその競争を生き抜こうと果敢なチャレンジに打って出るとき、よりにもよって自己にとって最も不利であろう分野で勝負をかけてしまうという、自己分析の弱さ、つまりセンスのなさ、にある。

他者に素顔を提示できるだけの才腕、ユーモアを持たないアイドルが、日々、ファンに素顔を提示しようと積極的に行動するとなると、とても困ったことになる。どれだけ熱量に満ちた言葉を投げかけられても、そこにアイドルの素顔に想到できるだけの情動が宿っていないのであれば、「食傷」を抑えきれない。膨大な数の情報、言葉を前に、辟易し、嫌味の一つでも言いたくなる。これでは、人気など、出るわけがない。
たとえば斎藤ちはるが唯一シングル表題作の歌唱メンバーに選ばれたのが『何度目の青空か?』なのだが、そのアーティスト写真を眺めれば、生田絵梨花を中心にカメラに不敵に笑いかけるアイドルたちの存在感、乃木坂46の歴史において段違いの豊穣さを描くその構成のなかにあって、斎藤ちはるだけ酷く浮いて見えてしまうことにも、それなりの理由がある、ということなのだろう。そういえば、この頃からだったか「思い出選抜」なる言葉がファンのあいだで囁かれるようになったのは。
しかし、文章力の弱さが引き出す素顔の魅力の乏しさも、ことアナウンサーであれば不要な資質と云えるかもしれない。感情を抑制することに尽力するアナウンサーにとって、斎藤ちはるの、感情表現の乏しさ、人間味の薄さという特性は、一転、大きな武器になるのではないか。
ゆえにアイドル・斎藤ちはるから教訓を得るとすれば、アナウンサーへの就職を目指す徹底したマネジメントの素晴らしさ、のみならず、ブログを書き続けることの難しさ、も挙げるべきではないか。