天才・秋元康に教えたい、奥田いろはの魅力と影響力

乃木坂46, 特集

奥田いろは(C)オリコンニュース

「天才として脚光を浴びるべきアイドル・奥田いろは」

『サマーラの死』を覚えているかい?召使いが真っ青な顔をして主人の家に帰り、「ご主人様、先ほど市場で死神を見かけたのですが、やつはわたしに脅すような仕草をしたのです」と言う。主人は召使いに馬と金を与えて、「サマーラへ逃げなさい」と言う。召使いは馬に乗って逃げ出す。その日の午後早くに、主人は市場で死神を見かけた。「今朝方、お前はうちの召使いを脅しただろう」と言うと、「いや、脅したんじゃない、びっくりさせただけだ。サマーラから遠く離れたこんなところで見かけたものだからね。今日の午後にも、向こうへ行ってあの男をつかまえなきゃいかんのだ」と答える。

ガルシア・マルケス / 物語の作り方*2

この『サマーラの死』のあらすじを読んだ読者がまず感じるのは、おそらく、登場人物が死神と当たり前のように会話していることの違和、ではないか。『サマーラの死』そのものはガルシア・マルケスの手による一編ではないが、『サマーラの死』をバイブルにして、現実生活のなかに当たり前のように非現実を持ち込み、しかもそれをギリギリの線で保ち現実を壊さないバランス感覚のなかで物語を語りつづけたところにガルシア・マルケスという作家の才能、魅力があった。そのフィクション性、ガルシア・マルケスにならえばマジックリアリズム、『サマーラの死』で言えばこの「死神」こそアイドルを演じる少女が作り出す「アイドル」なのだとおもう。すくなくとも私にとっての「アイドル」とは現実生活のなかに当たり前のように姿を現す非現実であり、すなわちフィクション=作品にほかならない。

作詞家・秋元康が詩を書くとき、そこにアイドルの物語=批評が立ち現れ、フィクションつまり芸術が生まれることはすでに述べた。ではその物語を覗き見る際に大衆のだれもが発見する「死神」つまり非現実とはどのような存在になるだろうか。それはきっと、天才、ではないだろうか。
一度ここで、物語の作り方、に話を転じれば、私たちが生きるこの現実世界に果たして本当に天才は存在し得るのか、というフーコーへの言及はさておき、ことフィクションにおいては、古今東西、スタンダールから村上春樹まで、そのフィクションの内には常に天才が描かれてきたことは疑うまでもない。天才が登場しない物語を探すことは、むずかしい。視点を換えれば、フィクションを自立させるもっとも有効な手段として、存在として、「天才」という言わば超常的存在があるはずで、ここでいうフィクションの自立とはこれまでにすでに述べてきたように、言葉を芸術に変える、つまりアイドルを「アイドル」たらしめることを指す。
言葉を使ってアイドルを語る、物語を編み上げる、批評を作るのならば、そこには「天才」が求められる。いや、天才を書かなければならない、という必要に迫られるはずだし、フィクションにおいて天才というイメージ、非現実の設定を準備することは、現実世界において天才=死神を発見し論じることに比べ遥かに容易いという事実も天才を書く行為を後押しする。私たちは天才を、言葉では説明できないもの、と定義しなければならない無意識の強制に囚われがちだけれど、小説を書く人間、批評を書く人間つまり物語を作る人間はそうした制約には囚われない。もちろん天才が描き出されるのは小説だけではない。テレビドラマや映画、漫画やアニメのなかにだってほとんど毎回かならずといっていいほど天才が登場する。ならばそれは、大衆が認識できていないだけで、芸術に変えられた「アイドル」に対してもすでに当たり前に起こっているのではないか。

アイドルシーンにおける天才、秋元康の原稿用紙の上を歩く天才とはどのような少女を指すべきか。
まず思い浮かぶのが、凡庸の天才。凡庸であるがゆえに途方もない可能性を秘めた少女、という憧憬をファンの心の内に芽生えさせ、そのとおりの成長を描く登場人物。たとえば、賀喜遥香がこの枠に入るだろう。
天才とは、知性と情熱の合致した人間である、と云ったのは塩野七生だが、この条件を緩和せずそのままシーンに持ち込み探り当てるとすれば、それは中西アルノに一致するだろうか。
天才とは、なによりも量である、という文壇の格言を再利用すれば、一定の水準を保ちつつ、多くのファンに向け日々思考を言葉に変え洪水のごとく発信しつづける池田瑛紗のその熱量がアイドルを卒業するその日まで枯渇しないのであれば、この場合はアイドルの枠組みにすぎないが、彼女もまた天才と呼べるかもしれない。
しかし私がいま、もっとも「天才」として描かれ脚光を浴びるべき登場人物だと考えるのは、賀喜遥香でも中西アルノでもなく、奥田いろは、という少女、歌姫のことである。冒頭に記した疑問にこたえ得る、つまりアイドル批評の誕生と自立を叶える、アイドルシーンにおける批評空間のパラダイム・チェンジを発生させる、その原動力、希望となり得るのは「奥田いろは」とその「歌声」ではないか、と私は憧憬を抱いている。

スタインウェイのように鑑賞者の思考に鋭く柔軟に反応するその歌声、身体の動き以上に跳躍するその歌声、素顔のモデレートさに確かな技巧をかさねつつあるその歌声はこれまでに秋元康のペンによって描き出されてきた多くのアイドルたちと一線を画している。奥田いろはの歌を聴けば、これまでのアイドルとはまったく別の、ただ人気があるだけのアイドルの歌、ただ歌が上手いだけのアイドルとはまったく別の「表現」にさらされる。たとえばこの人は、生まれ持たされたもの、またこれまでに育んできたであろうもの、つまり少女の限られた経験=日常の機微を一切削ぐことなく歌声に乗せている。ある歌に書かれた詩を前にして、あるはずのない思い出がよみがえってくる、と表現してしまえるところなどは、歌を通して自己を成長させてきた人、というイメージを強くさせるし、彼女にとって音楽と歩調を共にする言葉たちは「芸術」にほかならないのだろう。
もちろん奥田よりも歌の上手い歌手を音楽シーン全体に探れば、いくらでも挙げることができる。専業と比べれば、奥田の表現はかなり不安定で、ばらつきがある。しかし肝要なことは、奥田がアイドルであるという点、乃木坂46というトップアイドルグループの一員として登場した点にある。歌が上手くても、しかし誰もアイドルにはならなかった、あるいは、なれなかった、しかし奥田はアイドルの扉をひらいた、ひらけた、ここに意味がある。

アイドルを、その表現された少女の横顔を作品として鑑賞することができないから、アイドルをアーティストとみなすことが出来ずに、上手い歌が聴きたいなら歌手・アーティストの歌を聴けばいい、などという世迷い言を口に出してしまう。自分の胸の内にある想いをなんらかの手段、自分の最も得意とする手段をもって自己表現に挑むのならば、その時点でその人は文句なしにアーティストと呼べるし、そうした多くの「アイドル」のなかにあってもオーヴァークオリティに映る歌声、歌唱力の持ち主である「奥田いろは」が誰よりも大衆と遠い場所に立たされ、大衆によって敗北の烙印を押されるのも当然の成り行きと云えるだろう。裏を返せば、アイドルをアートと捉えることができない大衆の意識のなかですでに「奥田いろは」だけはアーティストとみなされている、ということなのだが、ゆえに奥田は大衆にとってのアイドルになり得ず、日の目を見ない。
たしかな才能、魅力、実力があるのに日の目を見ない、暗がりに置かれそのまま忘れ去られてしまうのではないか、と想わせる作品を発見したとき、ならばそれを自分の手で表通りに引きずり出してやろう、という衝動性、性(さが)をそなえもつのが批評家なのだが、この「奥田いろは」というけして放っておくことのできない逸材を前にして、現在のアイドルシーンにおいて唯一、アイドル批評を叶える秋元康はなにを想うのか。
秋元康の手によってもし彼女が天才・アイドルとして描かれ、アイドル=アートという認識を大衆に植え付けたのならば、そこにはどのような事態が、どのような変容が引き起こされるだろうか。

ピアノを弾きながら歌を唄ったり、ギターを片手に歌を口ずさんだり、音楽に身を委ねて歌を唄うその人が自己の内で、またこの世界にとって特別な存在であると感じ入ってしまうのはなぜだろう。
『点描の唄』をさえずる奥田いろはを眺めていると、彼女から発せられるその言葉、その詩に触れると、しかし過去を想うのではなく、たったいま、少女から真っ直ぐに告白されたような、歌い手自身に恋をしてしまうような、現実の幻想に包まれる。アイドルが芸術に変わる瞬間に立ち会う。それはたとえば、『点描の唄』をうたう奥田いろはに対する小川彩の表情にも簡明にあらわれている。どこか調子の外れた、歌を唄うことの意志に先走ったその情熱の歌声を前にして、羨望、嫉妬、不安といった、おなじ乃木坂として抱くべきではない感情が自己の内に湧き出てくることの動揺、またそれを必死に抑え込もうとしているような、輻湊した表情を小川彩は見せる。この小川彩の表情こそ、秋元康以外の人間によるたしかなアイドル批評、その萌芽と云えるかもしれない。


2023/02/28 楠木かなえ

・引用文献
*1塩野七生/ローマ人の物語Ⅳ(新潮社)
*2ガルシア・マルケス/物語の作り方 ガルシア=マルケスのシナリオ教室 訳:木村榮一(岩波書店)
・参考文献
池田雅延/随筆 小林秀雄 二十八「詩」とは何か(新潮社)
大杉重男/知の不良債権――批評閉塞の現状「早稲田文学」2001年1月号
福田和也/作家の値うちの使い方(飛鳥新社)
シャルル・ボードレール/小散文詩 パリの憂鬱(牧歌舎)
ロマン・ヤコブソン/一般言語学(みすず書房)
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