乃木坂46の「ここにはないもの」を聴いた感想

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「夢とか未来を僕にくれないか」

齋藤飛鳥がアイドルからの卒業を発表した。と同時に、ほぼ同時に、駆け足気味に、31枚目シングルの表題作が披露された。タイトルは、”ここにはないもの”。
おそらく現在の、この2022年のアイドルシーンにおいて最高の人気・実力をもつのが乃木坂46の齋藤飛鳥であるから、多くのファンを動揺させる大きなイベントが起こった、と言えるだろうし、
乃木坂46の飛翔を支えてきたひとりの強い主人公のラストシングル、ということで、当然、その楽曲のセンター=主役には齋藤飛鳥本人が選ばれ、これもまた至極当然、その作風は、卒業ソング、となっている。
とはいえ、きらきらとひかる東京の夜景を背景にして歌い、踊る、18人のアイドルを眺めながらまず感じ考えたのは、これはきっとクリスマスソングとして作曲されたものなのだろうな、という感慨。クリスマスをイメージして書いた作曲家の作品を、作詞家がアイドルの卒業ソングに編み上げた。そう感じる。音楽とアイドル、どちらかに一歩譲るのではなく、音楽が在りアイドルも在る。そんな楽曲に感じる。こうしたイメージを投げる楽曲は、実は、あまり多くはない。
齋藤飛鳥個人に視点を向ければ、卒業を発表した日のブログでは、これまでの、文体に思考をめぐらせた日記、とは打って変わって、そうした余計なことを考えない、今自分がおもうこと、を思考の整理をほとんどせずに書いているように感じた。言葉が、活き活きとしている。殻を破った、ということなのだろうか。それとも、作詞家の詩情にならったのか。書くことで成長しているようだし、成長したことを書くことで示している。卒業後に小説を書いてくれたらな、と思わず憧憬を抱いてしまった。

と、ここまでが現在感じ得る、全体の感想・印象で、ここからは細部の印象つまり歌詞について、思いついたことをそのまま、だらしなく記していこうとおもう。

歌詞について

口語詩だとか散文詩だとか、いろいろと呼び方はあるけれど、なぜこうもだらだらとした詩を書くのか、選択するのか、アイドルファンの多くが抱く疑問、関心だとおもうが、これは、スタイル、表現手段、などではなく、ただ単に楽(らく)だから、としか捉えようがない。それは詩作における労働としての楽さ、でもあるだろうし、なによりも、精神がタフでないことの自白におもえる。
詩というものは、どのようにでも解釈ができるもの、なのだが、自身の詩情に向けられる理解と無理解、誤解に耐えられるだけの精神のタフさを失ってしまった作家の最後の砦に、「口語」「散文」がある、と言えるかもしれない(こんな迂闊なことを言ったら、正岡子規に怒鳴られてしまいそうだけれど)。裏を返せばそれだけ、誤解されずに伝えたいことがある、ということなのだが。
では、作詞家・秋元康の、伝えたいこと、とはどんなものなのか。
今作品の歌詞を読んでみると、アイドルを卒業する人間に向かって、アイドルを通して、「昨日とおなじ景色はもうウンザリだ、ほんとうの空の色をきっと僕はまだ知らない」「夢とか未来を僕にくれないか、ここにはないものを」と詠っている。アイドルであることが夢そのものである、という、現在のシーンの有り様のようなもの、に対し、インタビューやラジオなどで柔軟に笑う秋元康だが、こと詩作にあたっては、これまでどおり、アイドルの先にほんとうの夢がある、という姿勢に一貫していることがわかる。ここに、アイドルを誰よりも間近で眺めてきた作詞家の、譲れない、絶対に伝えたいと想うメッセージがあるのではないだろうか。


2022/11/07  楠木かなえ

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