日向坂46(けやき坂46) 高瀬愛奈 評価

日向坂46(けやき坂46)

高瀬愛奈 (C)堀内亮/HUSTLE PRESS

「ジャルジー」

『イマニミテイロ』で書かれた、けやき坂46・第一期生に対する詩的責任は、欅坂46からの”カテゴリー分け”によって、とりあえずは、果たされた。ある日、突然、「大人たちから」決定事項として告げられる、身を委ねるしかない大きな流れ、そのような動向とは別に、誰の手も届かない空間で、グループという筐体の移動から置き去りになってしまったアイドルがいる。『イマニミテイロ』を演じたことにより彼女が身に纏うことになった反動性の打ち消しは未完に終わっている。身体から影を引き剥がすみたいに、目に見えない境界線を越えて動き出したグループ。それに同行する自分を傍観する”もうひとりの自分”の存在を、彼女は、つよく自覚している。その”もうひとりの自分”こそ、こちら側の、本来の自分であることに気付いてもいる。けやき坂46が遭遇する奇跡の輝きを俯瞰してしまうのは、自身の作り上げたアイドル(虚構)がグループの達成に未だかさなることがなく、同士の到達点に一度もタッチしていないと確信するからである。グループのみる夢のなかに自分が含まれていないとさえ、覚る。グループに同行する自分と”もうひとりの自分”の乖離、近づいては遠ざかるグループそのものとの距離感への自覚は、自身の作り上げるアイドル(虚構)の”不完全さ”が未完成の文学小説のような響きをもち、その物語に発見の余地が残されていることを看過させる。ついに、彼女は反動(自覚)を妬心へと転化して、我々の前に立ち現れることになる。
けやき坂46の第一期生・高瀬愛奈、彼女は嫉妬を一つのアイデンティティとして確立することに成功をしたアイドルである。嫉妬を表明するアイドルは珍しくないが、嫉妬を個性ではなくアイデンティティへと作り上げたアイドルは、外に知らない。アイドルの嫉妬というのは自発的能動性に育まれるものだけを指すのではない。”物語の展開”によって、避けられない感情(境遇)として遭遇させられることもある。高瀬愛奈にはその”展開”への宿命があるようにおもう。なによりも、そのアイデンティティが彼女から欠落していく光景が、すでに彼女の内で胎動している点に、私は興味を惹かれるのだ。処女性(一回性)については鈴木絢音の項で扱った。それに限りなく近い一回性を孕んだ”なにか”を高瀬愛奈というアイドルから感じとるのである。

「嫉妬というのは真実以上に知恵が回るものである」と云ったのは塩野七生だが、高瀬愛奈が回す知恵は”観察”であったようだ。時間に忘れられた場所にぽつんと立って空の向こう側を眺めるときのような目つきは、彼女の観察眼の鋭さを裏付けている。アイドルになる前はうまく笑うことができなかった少女。鏡の前で何回も笑い顔をつくる練習をしたはずだ。しかし、時計が刻む音と心臓がたてる音を聞き分けてしまえる観察眼のせいで、彼女がつくる笑い顔には意志のつよさが形づくられるのと同時に、ある種の用心深さが表出しているようにみえてしまう。夜明け前に少しのあいだだけ、しかし、”確定的”に窓を強く叩く雨音のように、その用心深さは姿を現すのだ。そのような要素がダークネスに映らないのは何故だろうか?嫉妬という情報に自縛され苦しんだ現代アイドルに、北野日奈子がいる。巣穴から再び顔を出した彼女は以前にはなかった”美”をたずさえていたが、それは”翳り”とも表現できる。高瀬愛奈にそういった傾向を感じることはない。それは、高瀬愛奈の特色というよりも、けやき坂46の特色と云えるかもしれない。濱岸ひよりのピュアさが一色玲奈のような俯きに傾倒しないのも、河田陽菜の境遇が若月佑美のような決心に向かわなかったのも、柿崎芽実の第二世代エースという宿命と隔絶が齋藤飛鳥の無感動にかさならないのは、マネージメントの進化(成功)に因るのではなく、アイドルシーンが岐路に立っていることの予兆なのではないか、とおもう。高瀬愛奈の嫉妬が向かった先は、北野日奈子のような翳りではなく、”渇望”である。

欲しいと願うモノ、成りたいとおもう姿というのは、それをつよくおもっている段階で訪れることは、決して、ない。訪れるのは、「そう願っている自分」だけだ。何かが手に入るときとは、思いがけないときである。何かに恋い焦がれている状態では、絶対に、その状態にあるうちには成就しない。ほとんどの人間(アイドル)はこの感覚に、事実に、気が付けない。気付いても受け入れることは到底、無理であろう。高瀬愛奈も、きっと、否定するのではないか。それほど、彼女が日常に置く科白は渇望で溢れている。彼女にとって(あるいは多くの現代アイドルにとって)ファンの数が増えることが、自身の成長の証し(実感、成果)であるようだ。そのような類の渇望とは、それが叶った場合、それは結実であり、奇跡としては処理されない。アイロニーと云えるかもしれないが、奇跡を感じない人間は輝かないのである。そして、奇跡を感じるということは、なにかを渇望している状態にはない、ということだ。高瀬愛奈は、けやき坂46という筐体に対してのみ奇跡を感じ取っているように映る。彼女自身、奇跡の入り口へ、その別の世界(虚構)へジャンプする機会はあったが、失敗に終わってしまった。彼女には、チャンスを前に逆走する癖があるのかもしれない。本心とは真逆に走り出すタイプのアイドルなのかもしれない。受動的で偶発的なものを手に取るのは容易であるが、渇望をしていたものを不意にトレーに載せて差し出された時、それを拒んでしまうタイプの人間がいるが、彼女がそれなのかもしれない。高瀬愛奈が、けやき坂46に所属するアイドルのなかでも高水準で『イマニミテイロ』とリンクする理由は、やはり、この渇望に因るのだろう。演じる楽曲に共鳴し、リンクしていく状態を維持できるアイドルは、ファンが考えるよりも少ない。彼女は、反動、嫉妬、渇望によって、それを可能にしているのである。”色”がテーマにされる傾向が強い現代のアイドルシーンにあって、彼女と同じ色を持つアイドルは現存しないのではないか。

「嫉妬」の知恵が可能とするのは、楽曲とのリンクだけではない。演劇の分野においても、舞台の上で揺く高瀬愛奈の立ち居振る舞いを独創的なものにする。嫉妬によって手に入れた観察眼は役づくりに活きる。英文で書かれた小説を、英文のまま読めると話す彼女の語彙力も、創造力として感情の増幅を後押しするのだろう。彼女は批評という行為が得意なようである。演者側でありながらも批評の立場を好むのは、グループと自身の乖離への自覚に起因するのではなく、「E・サイードが、今日では批評こそが古典的小説の性格を帯びている(*1)」と語ったとおり、作品(台本)に対する追窮を経た姿勢として、当然の成り行きと云える。
『あゆみ』は良かった、近年観劇した(アイドルが出演する)舞台のなかで、一番良かった。演劇表現力については、松田好花の”透徹した輝き”は存在感があった。次世代アイドルの中でトップクラスと評しても過褒にはならないだろう。しかし、その松田好花の姿形よりも記憶に刻み込まれる、意識を爪でひっかくような”異物感”を抱えながら舞台装置上を歩く「あゆみ」がいた。
高瀬愛奈の演じる登場人物の仕草に際立った拙さ(異物感)があるのは、日常の瑕疵をこぼしてしまったためだ、と考えたが、彼女の”観察眼”という視線を宙から追うことによって、日常の食べこぼし、と捉えた立ち居振る舞いには、日常を自壊した、つよい拘りによる構成が内在し、役を腑に落としていく過程で得たアイデアの実行(勇気)であることに気付く。「天然スパイラル」の女優たちが観客に”嘲笑われる”ことへの覚悟(勇気)を示したように。それは、日常再現の失敗によりひび割れた隙間から人生の瑕疵をこぼれ落としてしまったのだと錯覚させる演技と云える。『あゆみ』はメメント・モリが命題にあり、死の瞬間の告白(回想)として、独我論的な一人称で語られていく。すべての登場人物は主人公の記憶の描写に過ぎず、その世界では想像の外側で物語が進行することはない。そのような空間の中で高瀬愛奈は独り、想像力の外側に回り込もうとしていたのだ。彼女は、文学的なアイドルと云える。

舞台装置の上で、近づいては遠ざかる真っ白な空間で踊る彼女は、手を広げても、足を伸ばしても、常に空気の抵抗を感じているような揺きをしている。だが、その拙さよりも、それを観客席から見つめる高瀬愛奈の存在を、やはり、私は意識してしまう。そして、その二人が交錯する予感の実現、一回性を孕んだ”なにか”が彼女から欠落する光景を希求する、自身の身勝手な願望を自覚していることに”気付かされる”。

 

総合評価 67点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 14点 ライブ表現 11点

演劇表現 16点 バラエティ 13点

情動感染 13点

けやき坂46 活動期間 2016年~

(*1) 福田和也「江藤淳という人」

評価更新履歴
2019/03/18  情動感染 11→13

評価点数の見方