日向坂46 理想の「選抜」を考える 9th シングル版

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(C)日向坂46公式サイト

「才能の”選抜”、はじまる」

長編小説は書き出しの一行で決まる、と云ったのはガルシア・マルケスだが、アイドルを語る際にも、この言葉は私のなかで強く何度も反響する。アイドルを語ろうとするとき、最も途方に暮れるのは、やはり、書き出しの一行のむずかしさ、であり、なにから語るべきか迷う、ではなく、なにを語るべきか迷う、でもなく、語るべきものを探る行為そのものに屈託する。裏を返せば、アイドルを演じる少女の横顔を直になぞったような一行、一つの言葉さえ生まれてしまえば、あとはどうにでもなる。
と云うのも、『アイドルの値打ち』ではこれまでに、理想の選抜を考える、と題して乃木坂46の新シングルの「選抜」を個人的な理想のもとに編んできたけれど、その際にアイドルへ一言、走り書きのメモを付す行為がおもいのほか自己の内でアイドル観を育み、アイドルの物語化、つまり批評における書き出しの一行を自然と手にすることになったからで、自分なりの選抜を遊び心の内に考えるという行為がメンバー個々の評価につながることは当たり前と言えば当たり前なのだが、この「試み」を日向坂46にも向けてみようと、思い立った。

ではそもそもなぜ、『アイドルの値打ち』においてこれまでに日向坂46の理想の選抜を考えるという行動を取らなかったのか、理由は明白で、日向坂46にあっては、基本的には、在籍するすべてのメンバーが無条件でシングル表題作の歌唱メンバーの欄に列記されるから、であり、このアイドルグループは、ほとんど、シングル制作にあたって順位闘争の場を設けない。いわゆるアンダーの準備がなく、これまでに発表・発売された8枚のシングルはすべて「全員選抜」という言葉の矛盾を構成している。

言葉が矛盾する、ということは、思考が矛盾している、ということでもある。
たとえば、現在の日向坂における「センター」とは、芥川賞や直木賞のような腐臭を放っており、アイドルの箔付け、あるいは人気メンバーのその労に報いるためだけに準備された称号でしかなく、価値の転倒を引き起こしている。グループの価値を底上げするメンバーをセンターに選ぶのではなく、人気メンバーの価値を公衆に知らしめるためだけに「センター」を利用するという倒錯、アイドルとしてのキャリアを積み、人気・知名度を稼ぎ、順番を待ってさえいれば、才能を問わず、凡庸なアイドルであっても問題なくセンターになれるという愚の退屈さ。この点に、このグループの作り手の、思考の矛盾、がよく現れている。
しかしそうした刎頸を振り捨てた矛盾はもはや正されつつあり、グループは新局面を迎えている。
8枚目シングル『月と星が踊るMidnight』のカップリング曲『ブルーベリー&ラズベリー』をもって、あたらしく、グループに12名の少女が加わった。4期にあたるこの12名の少女たちは、当然、日向坂46の前身にあたる、けやき坂46ひいては欅坂46を下敷きにしたアイドルではなく、いわば日向坂46のレジティマシーの誕生を叶えるアイドルであり、希望に満ちている。「欅坂46」と「けやき坂46」への容喙をここでするつもりはないが、ともかく、今、グループに所属するメンバーを数えると、32名。
よってここに、引き返すことを許さないクレバスが生じたかにおもう。

30人以上の選抜、これはなかなかに考え難い。今後、日向坂46が実際にどのような施策をとるのか、乃木坂46のように選抜とアンダーという区分を作るのか、櫻坂46のように中心メンバーを固定し、その軸の周りを都度調整するのか、わからないが、いずれにせよ、日向坂46はその物語になにがしかの変化をもたらすのだろうし、ファンの視点もまた、変化を求められている、気がする。
その変化の一つ、ファンの視点の変化の一つに、理想の選抜、があるのだろう。

選抜制・アンダー制が導入されたのならば、当然、ファンの多くは自身の”推し”が選抜入りすることを願うのだろうし、新シングルの制作が報じられ、発売日が近づけば近づくほど、自己の内で、グループのあるべき姿としての「選抜」を抑えきれず妄想してしまうのではないか。
ファンの各々が、私情によった「選抜」を編み上げる……。選抜、という言葉の意味を捉えれば、これもまた至極当然、そこに現れる理想は、グループアイドルというコンテンツのなかでファンが抱きしめることになるあらゆる妄想を凌ぐ純度の高さを示すはずだ。現実からどんどん遠ざかっていく思惟、つまり妄想こそを理想と呼ぶべきだし、この妄想には、あるいは、芸術性が宿っているかもしれない。銭金の勘定をしなくてはならない作り手連中とは異なる、現実の一切を無視したファンの妄想=理想、壁になぐり書きにされたその言葉こそアートであり、シングル制作において作り手が断念せざるを得なかった芸術性にほかならない、などと思ったりもする。とはいえ、シングルの表題曲として歌われる楽曲に触れないままに、その未知の楽曲の選抜の理想を考えるのだから、これもまた矛盾した、芸術性を無視した行いに見えるのだが。その点は開き直ることにする。
ところで、最近おもうのは、アイドルの選抜を考えることは、小説を書く、つまりフィクション・物語を書く行為とすごく似ているのだな、という点で、まず漠然と理想の選抜を組んでみる、次にメンバー個々を眺め批評を付していく、つまり書きながら考える、考えることは何かあたらしいものを発見するということでもあるから、それがアイドルを対象にする場合、あたらしい魅力を発見したり、逆に粗を発見したり、することになる。そうすると理想の構成が否応なく変わることになる。私たちは、文章を書く際にはまずイメージを決め、それにそって書き始めるのだけれど、書きながら、そのイメージが変わったり、崩されたり、することは、ほぼ防ぎようもなく起こり得ることではないか。文章を書く、物語を作る、とはそうした「動き」に支えられている。換言すれば、アイドルの「選抜」とは、イコール、「物語」でなくてはならないのだろう。

日向坂46の9枚目シングルの理想の選抜を考えるにあたって、以下に各メンバーへ短い批評を付した。当サイト『アイドルの値打ち』の読者のほとんどが、乃木坂のファン、だろうから、今回はまず、乃木坂のファンに日向坂46をガイドする、という視点を意識し、走り書きのメモを記した。


潮紗理菜
アイドルのスタイルにフォークロアを取り入れた、風変わりなメンバー。アイドルになったことで遭遇してしまう悲喜劇をカメラの前で朗々と語ることで、アイドルになる前の自分=いにしえをしのぶ、というドキュメントを持つ。けれどそのイメージのほかには、特に語るべきところがない。あるいはこれは1期生の多くに言えることかもしれないが。

影山優佳
サッカーのワールドカップを機に人気・知名度を飛躍的に上げた。才覚にあふれた人、と呼ぶべきか。その「才覚」を武器に、グループの価値の底上げに日々貢献している。ただ、気になるのは、今日あらためて彼女の踊りを眺めるも、『イマニミテイロ』当時からまったく成長をしていない点で、つまりアイドルの本分がなおざりにされているように感じる。大衆の眼に対する過敏さを、ダンス、演技に向けられないものだろうか。落とし差しにしたそのスタイルから、もうそろそろ、脱するべきではないか。

加藤史帆
高い水準で完成されたトップアイドル。日向坂46の現エース、といったところか。とくに歌声に個性・魅力があり、蛮勇をふるっている。

齊藤京子
現在の、アイドル的香気に欠いた、華のない齊藤京子を眺め、メッキが剥がれてしまった、などとため息をつくのならば、それは大きな勘違いだろう。この人は生まれながらに平凡だったわけではない。デビュー当時の彼女にはたしかに凡庸を凌ぐもの、たとえば、悠然さ、勇敢さがあった。ただそれが、「アイドル」として暮らす日々のなかで消え失せた、つまり、才能が枯渇した、にすぎない。とはいえ、ダンス、歌唱力のいずれも抜群に安定感があり、平均か、平均を凌ぐだけのものを現在でも有している。なによりも、存在感、この一点においては、才能豊かな瑞々しい少女たちに一歩も引けを取らない。NGT48の加藤美南がそうであったように、アンダーで、若手に緊張感を与えつつ共に踊り歌うことで、グループの育成に大きく貢献するのではないか。

佐々木久美
日向坂46のキャプテン。迫力がある。乃木坂の梅澤美波にユーモアと機智を付したような人、と言えば伝わりやすいか。ゆえに、高いリーダーシップを発揮し、士気を鼓舞する。が、それ以上でも、それ以下でもない。

佐々木美玲
現役アイドルのなかで五指に入る歌唱力の持ち主。秋元康の書く詩、編み上げる音楽を唄う彼女のその声にふれると、おもわず叙景してしまう、倒錯の魅力をもつ。

高瀬愛奈
デビュー以来、常に自分らしさ、自分のイロを頑なに、強硬に守り続けてきたその意思の強さによるのか、2期生、3期生、そして4期生の瑞々しさをまえに自己の凡庸さを突きつけられひしがれる1期の面々に比して、この人は歩調を変えない。そのファンにとって頼もしい存在でありつづけている。

高本彩花
日向坂にあっては、唯一、色気のあるアイドル。

東村芽依
ダンスの上手、とされている。言葉数が少ない、というよりも、発する言葉のほとんどが接辞を有さない。日常生活におけるお芝居が苦手なようで、感情表現の多様さに欠け、淡泊に見える。ゆえに誤解されてしまうことも多いようだ。それはステージの上でも変わらない。どのような楽曲でも似たような踊りしか作れず、踊りが上手い、のその「上手い」とは、あくまでもテクニカルなものに向けた「上手い」でしかなく、心を揺さぶらない。

金村美玖
小坂菜緒の休業を機に、センターに選ばれた。小坂菜緒と比較すれば動感がなくセンターへの当為を欠くものの、橋本奈々未への模倣、自己の韜晦(とうかい)を見てわかるとおり、戦略次第では平凡なアイドルでもセンターにまでのぼりつめることができるという意味で興味深い存在。歌、演技は目も当てられないが、ダンスは問題なく踊れる。センターに立った経験がしっかりと活かされている。

河田陽菜
アイドルを眺め、もらい泣き、もらい笑いする、という経験をもつファンは少なくない。そうした体験において河田陽菜というアイドルは極北に立っていた。しかるにセンターに立つどころか、ある日突然、耽美に憑かれてしまったらしく、生来の、人としてのうつくしさ、個性を自ら削いでしまった。美への過剰な意識は、外見の変化、だけでは済まされず、当然、内面にも変化をきたす。これだけの逸材であっても美の追究に陥ってしまえばその魅力を失うのか、と驚き、落胆を隠せない。

丹生明里
聖なるアイドルとして、その存在感を未だ保っている。フィクションにおける体験が現実の出来事の解釈に役立てられるという無垢さをあますことなくファンの前で描く、希有な人物。

濱岸ひより
語るべきアイドルの容貌をもたない。東村芽依同様、表現力に難がある。自分のことをよく知らないから、他者に向けて自分を説明する、つまり表現することができないのだとおもう。ただ、もうデビューから5年以上経つ。5年アイドルを演じてもとくに目立った物語がないのであれば、凡人、とするしかない。

富田鈴花
高山一実から剣呑さを吹き払ったようなメンバー。日向坂=バラエティ番組で活躍するアイドル集団、というイメージに一役買ったメンバーだが、当の本人がそのイメージに足をすくわれアイドルとしての価値を損なっているように見える点、つまり自虐的に見える点も高山一実に似ている。

小坂菜緒
令和のアイドルシーンの表紙を飾るべきメンバー。そのビジュアルをして、神秘的、と表現しても許されるのではないか。冬芽してもなおその素顔・本心はヴェールに包まれている。だが『僕なんか』においては、アイドルの思惟、思弁、心情、私情つまり魅力をうかがい知ることができないという、しんねりむっつりとしたアイドルの有り様がそのまま作品に落とし込まれるなど、余人にはない希求力をやはりこの人はもっている。

松田好花
情感豊かなアイドル。ギターを片手に、歌を唄おうとしても、歌い出しで感極まって泣いてしまうくらい、涙もろい。そうした脆さ、ヴァルネラブルが楽曲の魅力を教えることに役立っている。そのアンバランスな日常とは裏腹に、演技、歌、ダンス、ビジュアル、多様性、情動のすべてを高い水準にまとめアイドルを作るという、優れたバランス感覚を有している。

上村ひなの
大喜利アイドル、というジャンルを確立させた。アンビジョンに溢れていて、精神が漲っている。ただその鼻息の荒さがダンスに傷を付けてもいる。この人の踊りはとにかく身振り手振りが大げさで、芝居を作ろうとする意識が強すぎ、楽曲の世界観を毀してしまう場面も数多い。壺にハマった際の爆発力は同世代のアイドルを圧倒するものがあるのだが。

髙橋未来虹
上村ひなのと比べれば、一転、この人は踊りと演技を分け隔てすぎている。アイドルやそのファンにすれば、ダイナミックな踊り、なのかもしれないが、私には、ただ踊っているだけ、にしか見えない。乃木坂46の3期生の多くが、これと同様の問題をかつては抱えていた。たとえば、向井葉月。秋元康が記す歌詞の内に、すでに自分が書かれている、といった妄想を抱くことができれば、あるいは向井葉月のように飛翔できるかもしれない。と云うのも、この人は、秋元康が日向坂に向けて記し提供する詩的世界、たとえば『ってか』のような詩のイメージとどこかとけ合っているように見えるからだ。

森本茉莉
誰かに似ているような、他のだれとも似ていないような、不思議なアイドル。日向坂っぽくもあり乃木坂っぽくもある。4期のプロトタイプかもしれない。ブログ、インタビューなどを読むに、剽悍なアイドル、といった印象を受ける。

山口陽世
踊り、演技、といったふうにジャンル分けするよりも、この人の場合、身体の動きそのものが洗練されていて、センス、を感じる。そのセンスは、たとえば伊藤万理華を想起させる。おもわず見つめ返したくなる力強い眼光を放つが、おそらくそれは、ナルシシズム特有の眼、であり、常に自分を見ている、から、意識が研ぎ澄まされているし、アイドルの相貌も澄んで見える。

清水理央
4期生楽曲『ブルーベリー&ラズベリー』においてセンターに選ばれたメンバー。4期の旗手、ということになるのだろうか。チアダンス経験者らしく、もうそれなりに踊りが作れる。ただ、笑顔の造作が目立ち、アイドルの表情が画一している。私が考える理想からは遠くかけ離れている。笑顔には「理由」がなくてはならない。とにかく笑顔であり続けなければ、という意識にある内は、ステージの上で笑顔を編むことはできないだろう。

宮地すみれ
標準的なグループアイドル、といった印象。

正源司陽子
ビジュアルが飛びきりに良い。ダンスも文句なし。スポットライトに照らされるとアイドルがより一層美しく、瑞々しく活発に見え、段違いの存在感を投げる。センターを約束された人物、と云っても過褒にはならないはず。乃木坂の井上和、川﨑桜に比肩する逸材。

石塚瑶季
4期のなかでは一番ダンスが上手い。日常における個人の所作をしっかりと踊りのなかに落とし込めている。バラエティ番組においても、ファンが求めるであろう、アイドルの刎頸の交わりを意識的に描けるツワモノ。

山下葉留花
坂道合同オーディション参加者。アイドルの扉をひらくまでのその経緯、時間のながさから、アイドルを演じることが生きることを勝るような、一種の過剰さを身勝手に期待してしまう。

平尾帆夏
アイドルとはつまりニセモノの自分=キャラクターを作ることだと誤解しているようにうかがえる。アイドルのスタートラインに立てていない。

渡辺莉奈
4期のみならず、また日向坂に収まらず、現役アイドルのなかで最高度に可憐な、うつくしい横顔の持ち主。

藤嶌果歩
笑顔が素晴らしい。ダンスも良い。仕草がやわらかで、魅了的。人気者になるのではないか。

平岡海月
落ち着いている、ように見える。文章もしっかりしている。泡沫の夢へ向けた解釈も大人びている。自分が体験した日常の記憶を言葉にして伝えられる人、なのだとおもう。

竹内希来里
ファンだけでなく作り手をも魅惑する素顔の無防備さ荒々しさをそなえもつ。この子の魅力を自分の手の内で語りたい、この少女を自分の想像力で表現したい、と作り手に、ファンに、想わせる希求力を発揮している。たとえば、色を付けるべきではない、デビューしたばかりのアイドルのドキュメンタリー映像作品で、いや、ドキュメンタリーであってもクリエイターがそこに立つ以上、色は絶対に付くものだから、色を付けるべきではないと思わせてしまうような映像を避けるべき状況で、しかし竹内希来里は映像作家にフィクション明らかな作品を編ませてしまった。言葉の最良の意味でユニークなアイドル。

岸帆夏
笑顔が硬直している。ダンスにおいても学ばなければならない点が多いように感じる。今後に期待。

小西夏菜実
淡々としていて、抑揚を欠いた人、に見える。見えるが、実際には活力とユーモアにあふれた人、であるようで、なかなかにギャップがある。ただステージにおいてはそうした日常の機微は留め置かれ、やはり表情に乏しく淡々として見える。

よって、私が考える理想の「選抜」は以下のようになった。9thシングルのセンターには正源司陽子を選んだ。

(C)日向坂46公式サイト

3列目:山下葉留花、高瀬愛奈、石塚瑶季、山口陽世、竹内希来里、高本彩花、金村美玖
2列目:佐々木美玲、丹生明里、藤嶌果歩、渡辺莉奈、松田好花、上村ひなの
1列目:加藤史帆、正源司陽子、小坂菜緒


2023/02/01  楠木かなえ

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