批評と感想文の違い を現役の批評家が説明

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「アイドルへの『感想』ではなく、アイドルへの『批評』を書こう」

批評と感想文の違い、とインターネットで検索してみる。すると、様々な人間が、様々な方法で、批評と感想文の持つ隔たりについて、丁寧に、熱心に説明している。その文章の是非はともかく、彼らの文章を読んでいて私が違和感を覚えたのは、まず、彼らが「物書き」を名乗っていない、という点です。いや、サイト全体を隈無く捜せば、あるいはどこかで名乗っているかもしれない。ただ、そうなると次に挙げる疑問、違和感に対し矛盾が出てくる。それは、批評と感想文の違いを丁寧に説明する彼らの文章を読んでも、彼ら自身、批評を読む、批評を書く、これを日常生活としていないのではないか、という疑問です。物書きとは、同時に、だれよりも読書家である。とくに、作家とは、自己の作る文章のいちばんの読者であるはずだ。するするとした言葉で機能的に語る彼らからは、この当然の前提が省かれているように感じる。作家などという職業は、名乗りさえすればその日からだれでもなれる。ただし、覚悟がいる。彼らの文章は当たり前の覚悟を通過していないようにおもう。ならば私が、無謀にも批評家を名乗ってしまった私が、批評と感想文の違いを、批評家らしく他者の語らいをもって説明してみよう。

”批評と感想文の違い”、それは、フィクションを作れているかどうか、に尽きます。では、その言葉に説得力を持たせるため、文芸評論家・江藤淳をして、日本の批評の創始者といわしめた「小林秀雄」のふるまいを例に、引いてみましょう。

小林秀雄の「栗の樹」という、とても心温まる随筆があります。奥さんが年をとって体調を崩した時、ふと自分が女学生の時に毎日一里余りの道を歩いて学校に通っていた頃のことを思い出します。その長い道のりの途中に栗の樹が一本あってそこに来ると、ああこれで半分だと思いながら毎日毎日通ったと。ある日、奥さんが、突然この栗の樹をもう一回見たいと言い出して見に行ったという話ですが、その道と人生とが重ね合わされて美しいお話になっているのです。

福田和也「慶應義塾と批評家」

この随筆について、郡司勝義の『小林秀雄の思ひ出』の中で次のように書かれている。

「先生、あの話は本当にいいですね、あの栗の樹はどこに生えているのですか」
「何いってるんだ君は、そんなものあるわけないじゃないか」

福田和也「江藤淳というひと」/ 郡司勝義「小林秀雄の思ひ出」

このエピソードは真実を伝えるためのフィクションの必要性を説いている。批評を、読者の眼の前で対象の真実に近づく行為とするのならば、そのためにはウソ=フィクションを用意しなければならない。自分の書く真実に読者を触れさせるためには、ウソ=フィクションを通過させる必要がある、ということです。
福田和也はこの文章を引き、「励まされた」と書いている。もちろん、私も勇気づけられた。この、嘘を付いてもいいということへの「励まされた」には主にふたつの捉え方があるとおもいます。ひとつは、上述したように、嘘を作ることでそれが真実へと到達するための掛け橋になる、という企み。もうひとつは、嘘によって形作られた妄想の中に真実が紛れ込んでいるかもしれない、という希望。つまり、このエピソードを読んで励まされたり勇気づけられる人間とは、無謀にも批評家を名乗ってしまったがゆえにある種の覚悟を求められた経験を持つ、物書きとしてきわめて意識的な人間であるはずです。もし、”あなた”も励まされたのなら、現在の自分に自信を持つべきだ。今、書いている文章=嘘、妄想を信じるべきだ。
では、感想文とはなにか、それは、この項でここまでに書いた私の文章がまさしく「感想」と呼べるでしょう。上に記した文章は、インターネットを見た「感想」であり、本を読んだ「感想」です。そして、このようにするすると書いた”文章のようなもの”、つまり「感想文」とは、往々にして、一度読まれたきり二度とそのページは開かれない。

こうした考えをアイドルシーンへと落とし込むならば、アイドルのインタビューなどの発言を引いて、次に自分の意見を述べる、もう一度インタビューを引く、意見を述べる…といった形式をもってアイドルについて淡々と書かれた”文章のようなもの”を様々なウェブ媒体で見かけますが、あれこそまさしく感想文でしょう。つまりそういった形式で書かれている文章は批評ではない、ということです。あるいは、そういったコンテンツには2次、3次情報として、資料的価値がそなわるかもしれない、しかし、すくなくとも文学の範囲には入らない。文学の境域に立てなければ、そこに立つ試みを持たなければ、自分の文章が繰り返し読まれることはまずありえません。
精神分析や心理分析的「解説本」を読むくらいなら、拙いながらも自分の眼で見たアイドルを、恋をしたアイドルとの想い出を、つよい妄執のもとに書き殴った日記、SNS的独り言を読んだほうが、当然、実りある時間を過ごせる。妄想の翼を広げた人間の文章のほうが繊細で、鮮明な魅力がある、と私は想う。なぜなら、そこには批評(文学)が内在するからです。
批評とはフィクションである。ウソの裏側に用意された真実をのぞこうとする行為であり、ウソの裏側に真実を置く試みだが、けして対象の心の内をつきとめる行為ではない。フィクションなのだから、あなたの思い込みを現実にすり替えて語ってみてほしい。そうすれば、あなたの文章のなかに、(あなたが他者に伝えたいと切に願う)真実を覆うウソが生まれ、あなたの文章は「感想文」を脱却し、「批評」のかがやきを帯びるはずです。

2020/02/04  楠木

*2021/05/09 修正、加筆しました

 

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