「批評と感想文の違い」を現役の批評家が説明

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「批評を語るのは、批評を書いてからにしろ」

批評と感想文の違いとは何か。
「アイドルの値打ち」を通し、批評を身近なものとしない読者と接するなかで、ふと、あらためて考えた。
物は試しに、インターネットで検索してみる。すると、様々なサイトで、様々な人間が、様々な方法で、批評と感想文の隔たりについて、丁寧に、熱心に説明していることがわかった。
その文章の是非はともかく、かれら彼女らの文章を読んでいて私が違和感を覚えたのは、そのなかの誰一人として「物書き」を名乗っていない、という点。いや、サイト全体を隈無く捜せば、あるいはどこかで名乗っているかもしれない。ただ、そうなると次に挙げる疑問、違和感に対し矛盾が出てくる。それは、批評と感想文の違いを丁寧に説明するかれら彼女らの文章を読むに、肝心の書き手自身が、批評を読む、批評を書くという行為を日常生活の一部にしていないのではないか、という、当たり前の前提に対する疑問。

物書きとは、同時に、読書家でもある。とくに作家とは、自己が編み上げた文章をほかのだれよりも繰り返し読む、読者である場合がほとんどではないか。要するに作家は、書きながら読み、読みながら書き、考える生き物なのだが、上述した、現在インターネット上に散見する記事のほぼすべてが、だれにでもわかるような言葉、するすると読めてしまう平易な言葉で機能的に語られており、作家の性(さが)のようなものを感受しない。ゆえに書き手が作家たり得るであろう説得力に欠ける。つまり「批評」のごときを語る前提に立っていない。
物書きなどという職業は、名乗りさえすればその日からだれにでもなれる。ただし、それなりに覚悟がいる。物書きを名乗る以上、月並みな言葉を用いることは許されない。逆説的に、物書きを名乗る覚悟すら持てない人間の文章に説得力が出るわけがない、ということでもある。
ならば私が、無謀にも批評家を名乗ってしまった私が、批評と感想文の違い、を批評家らしく、批評家めいた行動力をもって他者の語らいのなかで説明してみよう。

「アイドルへの『感想』ではなく、アイドルへの『批評』を書こう」

”批評と感想文の違い”、これを一言で云えば、妄想の飛躍をノートに記せているか、換言すれば、フィクションを作れているかどうか、この点に尽きる。批評はフィクションに過ぎない、という事実を、まず受け止めて欲しい(フィクションという言葉の意味を個人的に解釈すれば、それは往々にして、真実かもしれない嘘、となるだろうか)。では、この考えに説得力を持たせるため、文芸評論家・江藤淳をして、日本の批評の創始者といわしめた小林秀雄の立ち居振る舞いを例に、引いてみる。

小林秀雄の「栗の樹」という、とても心温まる随筆があります。奥さんが年をとって体調を崩した時、ふと自分が女学生の時に毎日一里余りの道を歩いて学校に通っていた頃のことを思い出します。その長い道のりの途中に栗の樹が一本あってそこに来ると、ああこれで半分だと思いながら毎日毎日通ったと。ある日、奥さんが、突然この栗の樹をもう一回見たいと言い出して見に行ったという話ですが、その道と人生とが重ね合わされて美しいお話になっているのです。

福田和也「慶應義塾と批評家」

この随筆について、郡司勝義の『小林秀雄の思ひ出』の中で次のように書かれている。

「先生、あの話は本当にいいですね、あの栗の樹はどこに生えているのですか」
「何いってるんだ君は、そんなものあるわけないじゃないか」

福田和也「江藤淳というひと」/ 郡司勝義「小林秀雄の思ひ出」

このエピソードを前にしてまず捉えるべきは、やはり、作家が、これだけは伝えたい、と考えたもの、つまり文章を起こした動機に読者を触れさせるために、ウソを準備している、つまりフィクションの必要性・有効性を説いている、という点だろう。批評における文章が、読者の眼前で対象の真実に接近していく試みであるならば、そのためにはウソ=フィクションを用意しなければならない。なにものにも侵されない価値を自己の内に宿し、読者をその真実に巻き込もうとするならば、フィクションの世界に閉じ込める必要がある、ということを、端的に表している。小林にとっては、「栗の樹」が実在する実在しない、という話題はさして問題にならない。それ以上に、これだけは絶対に伝えたい、とおもうなにか、があるからだ。
批評家・福田和也はこの文章を引き、励まされた、と書いている。もちろん、私も勇気づけられた。この、嘘を作っても良いということへの「励まされた」には主にふたつの捉え方があるはずだ。ひとつは、上述したように、嘘を活用することで自分が伝えようとしたものに読者を接近させる、という企み。もうひとつは、嘘、フィクション、妄想、想像のなかに史料・資料にはない情報つまり真実が紛れ込んでいるかもしれない、という希望。要するに、このエピソードを読んで励まされたり勇気づけられる人間とは、無謀にも批評家を名乗ってしまったがゆえにある種の覚悟を求められた経験を持つ、物書きとして、用いる言葉・文章につねに意識的に立ち居振る舞う人間であるはずだ。もし、”あなた”もこのエピソードに励まされたのなら、現在の自分に自信を持つべきだろう。今、自分が書いている文章、嘘、妄想のちからを信じるべきだろう。

こうした感慨をアイドルシーンへと落とし込み語るならば、たとえば、雑誌のインタビューなど、アイドルの発言を引用し、次の段で自分の意見を述べる、次にもう一度インタビューを引く、また意見を述べる…といった形式をもってアイドルの性格を分析的作業的に語る”文章のようなもの”を様々なウェブ媒体で見かけるが、ああいった記事こそ、まさしく「感想文」と呼べるだろう。レコードレビューと称して、楽曲の歌詞を引用する。その部分の説明・解釈を次の段で述べる。次にまた歌詞を引用する、説明する…。この手の文章は批評にはなり得ない。あるいは、そういったコンテンツには2次、3次情報として、資料的価値がそなわるかもしれない。しかしそれは文学には分類されない。この点が肝心で、文学の立場をもたなければ、そこに立つ試みに打って出なければ、つまり言葉・文章の構成に想像力を働かせ、記事に工夫がなければ、自分の文章が読者に繰り返し読まれるという、作家として最高の幸福、奇跡は訪れない。感想文と批評の違い、その決定打を述べるならば、それは、自分の文章が繰り返し読まれるかどうか、ではないか。だれにでも読める、するすると書かれた記事は、往々にして、一度読まれたが最後、二度とそのページは開かれない。

アイドルを語るその形式が「感想文」である場合、そのほとんどは素人の精神分析・心理分析の域を出ない。作品にたいして自分がどう動かされたのか、どのように想像力を試されたのか、ではなく、作品をつくるアイドルの内面だけを覗こうとする、アマチュアの解説本を読むくらいなら、拙いながらも自分の眼で見たアイドルを、恋をしたアイドルとの想い出を、つよい妄執のもとに書き殴った日記、SNS的独り言を読んだほうがまだ実りある時間を過ごせる、と私などは考えるのだが。妄想の翼を広げた人間の文章のほうが繊細で、闡明の魅力がある、と。なぜならば、そこにはかならず批評=文学が内在するからだ。批評とはフィクションである。アイドルへの批評とは、「アイドル」という仮面の裏に忍ばせた少女の素顔を覗き見ようとする好奇心にほかならないが、それはけして少女の心の内をつきとめようとする行為ではない。
所詮はフィクションなのだから、物は試しに、まず自分の思い込みを現実にすり替えて語ってみてはどうだろうか。そうすれば、貴方の文章のなかに、真実であってもおかしくない嘘、が生まれ、貴方の文章は「感想文」を脱却し「批評」のかがやきを帯びてゆくはずだ。


2020/02/04  楠木かなえ
*2021/05/09 見出しの変更、本文を編集しました