AKB48 矢作萌夏 評価

AKB48

矢作萌夏(C)加藤アラタ/光文社

「賽は投げられた」

ひとつの長編小説を語り終え、次の物語の為に用意された不揃いで不完全なセンテンスに目をやる。走り書きをしたメモを拾い集めて短編小説を書くように、それらをひとかたまりの文章に構築していく作業は、現実から、逃避させる。浮遊するアイデアたち。書き出しの描写に含まれるものと含まれなかったもの。それらを簡単につなぎあわせることはできない。重複したアイデアは削ぎ落とされなければならない。最終的に、どの文章にもつながらないまま見捨てられるセンテンスも、もちろん、ある。欠落した結末の埋め難さは、堆く積まれた本を崩すように、そのアイデアたちを見捨てて、はじめから、もう一度、連続性のある文章を書く決意をさせる。そのような覚悟によって書かれる物語の書き出し。その一行が、あたらしい長編小説のすべてを決める。

『海邊の光景』の母親のうたう歌にこめられているのは、成長して自分を離れて行く息子に対する恨み-あるいは「成熟」そのものに対する呪詛である。母親は息子が自分とはちがった存在になって行くことに耐えられず、彼が「をさなくて罪をしら」なかった頃、つまり母親の延長にすぎなかった頃の幸福をなつかしむ。この息子が「他人」になることに脅える感情は、あるいは母と子のあいだを超えて、一般にわれわれの現実認識の型を支配しているかも知れない。つまりわれわれは、成長した息子のように見馴れない現実が出現すると、まずその存在を否定しようとし、次いで出現した新しい現実を恨む。そして新事態を認めるよりは「むかし忘れしか……泪かわくまなく祈るとしらずや」と愚痴っぽくうたうことを好むのである。これはおそらくわれわれにとって現実認識の手がかりになるものが、血縁以外にないからにちがいない。いいかえればわれわれは自分に似たもの、あるいは自分の延長であるものの存在しか認めたがらず、もし自分に似ていると思っていたものが「他人」であることを思い知らされると、裏切られたと感じるのである。

江藤淳「成熟と喪失」

自身と成長を共有してきたアイドルグループが成功と失敗をくり返し(血の入れ替えをくり返し)、成熟の果てに、手の届かない、まったく知らない「他人」になることを現代のアイドルシーンを生きるファンは、許さない。卒業をしてグループを去って行ったアイドルの後継者を見出す、というきわめて距離感の短い話題であれば、拒否感を示す冷静さを持つが、グループという筐体のイデオロギーの崩壊と途絶を許容すること=アイドルの他人化に対しては、ひどく脅える。立ち上げメンバーによる群像劇とそれに連なってゆく次世代アイドルたちの物語。何処からでも血を辿れる、この事実は、現実認識は、ファンだけではなく、アイドル自身にとっても寄す処になっている。
AKB48ドラフト第3期生である矢作萌夏はこの現実認識に縛られていない。”寄す処”にくくりつけられていない。矢作萌夏は2018年にデビューをしたアイドルでありながら、ストーリーの発見という話題に立っていない。矢作萌夏という人物に作られる批評の空間は、すでに、一般的なアイドルの峻別を超えている、とおもう。彼女が立つ空間には、前田敦子、渡辺麻友、平手友梨奈が浮かんでいる。つまり、現時点での矢作萌夏を批評することには、その同じ空間に漂う”歴史に大書されるべき”アイドルを掴み取る必要性が生じるのだ。

現存するすべてのアイドルは、前田敦子の物語に含まれる。前田と同じ、”平成”にアイドルとして生を受けているから。しかし、イデオロギーやアイデンティティの後押しをする意味では、前田敦子のエピローグに登場するのは第14期生まで。前田ではなく、渡辺麻友の物語に含まれるのは第16期生までである。前田敦子ではなく、渡辺麻友である点も、もちろん、看過できない(とくに、後藤萌咲の抱える浮遊感については、彼女の項ですでに述べた)。平成年間の最後に登場したドラフト3期生(チーム8の藤園麗、立仙愛理、伊藤きらら)は、新しい時代に誕生したアイドルではないが、グループのイデオロギーに含まれていない。グループからも、次の時代からも隔絶したアイドルと云える。彼女たちの誕生という出来事は、アイドルシーンの転換でも回帰でもなく、終焉ですらない。それは、故郷の喪失である。歯車が軋みだしたグループのなかであたらしい歯車として設置されたが、他の歯車と接触せずに回り始める。彼女たちは、平成の終わりを見届け、あたらしい時代がはじまったとき、本当にそれははじまったのか?という問いを投げかけられる存在と云えるかもしれない。それは、グループにとって”はじめての存在(世代)”と呼べる。
しかし、なぜ、AKB48が”自分たち”の知らない「他人」になりつつある予感の矢先に、「見馴れない現実」として出現した矢作萌夏を、ファンは恨まずに、その帰郷の不可能性を”未来の希望”と捉えることができるのだろうか。それはやはり、彼女の”美”がAKB48の歴史にはなかった”前例のない美”と映るからか。

その美は、”公式ライバル”として配置されながらも、意識の範疇外に押しやっていた乃木坂46(坂道グループ)を視線の先に戻す。矢作萌夏を「救世主」とすることで、はじめて、ファンは乃木坂46と”闘う”覚悟を、勢いを持つのである。
徐々にかすれていく文字のように、いつ失われてしまうかもしれないという喪失は、彼女の美の内に感じない。喪失はないけれど、自己完結して減衰していく美。列車に揺られながら窓の外を過ぎる風景を、通り過ぎてきたものだけを信じるような怜悧さを想わせる美。だからなのか、彼女の内奥からboring(退屈さ)を拾うことは、未だ、できない。物思いに沈む眼差しをみせるがオブセッションを抱えていない。かわりに、耽美とはちがう、闘うための準備性と生き抜くための切迫した存念がみえる。それらを一塊にして口の中に放り込むと、経時変化したチョコレートを噛み砕いた時のようなプラスチックの香りが口中を満たす。
矢作萌夏の美がグループアイドルの範疇を超えた、アイドルというジャンルらしさを超えた、独立した美に映り、その評価を中心にして、彼女のアイドルとしての虚構が作り上げられていくことは、彼女にとっては、あるいは、悲劇なのかもしれない。しかし、個性を求めて「個」になって空中に漂うAKB48の次世代アイドルのなかにあって、彼女は次のシーンを生き抜くための具体的な武器を手繰り寄せた、と云える。
興味深いのは、これまでのグループの歴史において、矢作萌夏のような直截的な性の表現によりファンの感興を享けるタイプのアイドルは決してセンターポジションへ希求されることはなかったが、彼女は救世主として、寵児として、センターポジションへの期待感に包まれている点だ。その背景にはやはり、清楚という美(アイドル像)への回帰を成功させた乃木坂46の存在が色濃いのだろう。その憧憬(美の追求)はAKB48のアイデンティティの放棄でもあるのだが。そういう意味では、”はじめての存在(世代)”でありながら、新星と求められる矢作萌夏に割り当てられる役割は、現代アイドル史の近距離をなぞる、模倣的な役割である点にアイロニーを感じてしまう。グループにとっても、多くのファンにとっても、矢作萌夏は別の世界への扉をひらく鍵としては捉えられていないのだ。

「矢作萌夏と平手友梨奈」

「概念」としての「アイドル」が近代史から欠落し、現代史の性格はAKB48の登場によって決定づけられた。アイドル=AKB48(グループアイドル)という概念が形成され、アイドルと女優はカテゴリーを共有しない。今日、女優の山田杏奈やモデルの本田翼を”アイドル”と捉える現代人は、少ない。アイドルは、山田杏奈や本田翼と「熾烈ななわばり争い。とるかとられるかの、貴重な資源の奪いあい(*1)」をしない。内側での生存競争で完結する集合体と云える。デビュー当時のAKB48にとって、その存在理由を毀損する脅威が堀北真希であり、彼女の一挙手一投足を意識することで、「その心のもっとも柔い部分を残酷な時代の激動にむかって露出することを強いられ(*2)」、その心の不完全さが未成熟な群像劇を成立させたのである。
アイドル界が平手友梨奈の名を掲げることで、アイドルの存在理由を拡大しようと試みるのは、デビュー当時にAKB48が置かれた状況に回帰しようとする行為でもある。それは、敗北が決定された儚い闘いに映るが、それでも、平手友梨奈の抱え込むオブセッションにはフィクティブな批評をつくりだすエネルギーが内在しているようにおもう。

現代アイドルに対する概念の崩壊は、シーンの収斂によって訪れることがすでに決定している。遅かれ早かれ、アイドル=グループアイドルという固定概念は崩れ去り、再び、アイドル=ソロアイドル(女優)とする時代が到来するだろう。予兆として、グループアイドルとして登場するアイドルたちの中にシーンの転換や回帰を象徴とするようなアイドルの出現頻度が、その間隔が、年々狭まってきていることが挙げられる。小嶋真子の出現後、平手友梨奈、大園桃子、中村麗乃、市岡愛弓と矢継ぎ早にアイドル=ソロアイドルへと移行させる才能が誕生している。彼女たちはシーンを転覆させる予兆の象徴である。また、グループアイドルという”かたち”がなければアイドルとして誕生するはずがない、と想わせるアイドルの誕生もシーンの終焉を告げている。白石麻衣、佐々木琴子、丹生明里が該当する。特に丹生明里の出現はシーンの終着駅と云える出来事である。

矢作萌夏がAKB48の救世主と期待される理由に、アイドルシーンを転換、回帰させようとする平手友梨奈(ダークネス)のアンチ・テーゼへの希求があるのではないか。それは裏を返せば、平手友梨奈から感じるシーン転覆への胎動に、無意識に迎合しているのだが。肝心なのは、それが平手友梨奈ではなく、矢作萌夏によってもたらされる、という希求にある。私がけやき坂46を「スリリング」と評する理由は、現代アイドルシーンが培ってきたイデオロギーを背負う渡邉美穂とシーンの終焉を告げる使者・丹生明里(最期のグループアイドル)が同時出現し、そのどちらか一方を応援することが、シーンの行方をそのまま決定づける行為になるからである。渡邉美穂を支持すれば現代のアイドルシーンは延命され、丹生明里を支持することはシーンの転換、回帰を後押しすることになる。ファンが矢作萌夏と平手友梨奈に求める絵とは、そのような綱引きであり、矢作萌夏がその闘いに勝つ英姿ではないか。
しかし、そもそも、矢作萌夏、平手友梨奈のふたりは丹生明里、渡邊美穂のようにアンチ・テーゼとして成立するのだろうか。私は、それは、不成立である、とおもう。

時代の寵児という意味で矢作萌夏は平手友梨奈に比肩する存在である。姿勢(志、自覚)が同じ地点に居る他者(ライバル)を容易く置き去りにする力を発揮する点を看過することはできないが、ふたりの「境遇」はそれ以上に他者との距離を作り上げる。矢作萌夏の場合、それがAKB48という筐体の中で与えられた意味は、計り知れない。しかし、登場という意味では、平手友梨奈と比較すると鮮烈さに欠ける。矢作萌夏には出現という物語が欠如している。それは、矢作萌夏がグループの第一期生ではないことに起因するのだろう。期待感を一身に背負っての、満を持しての登場というのは革命的には映らないのだ。AKB48としてデビューするまでの道のり(物語)の存在、姉の矢作有紀奈の存在、デビュー後の成長物語の提出と露呈にAKB的な成長共有があり、その泥臭さ(AKB48的な距離感の魅力)が神秘性を手放し、平手友梨奈との共時性の要素を満たさない。矢作萌夏の物語の準備性がユリウス・カエサル的な「目にできる胎動」であるのならばシーンの動向を覆す革命児として、平手友梨奈にかさなるが、矢作萌夏への期待感、救世主感はポンペイウス的な国家を救う為の英雄としての喝采に映る。カエサルが逸材ならば、ポンペイウスは元老院(政治中枢)だけではなく、国家、大衆にとって決して外すことのできない”ヒーロー”である。

「逸材」と「外すことが出来ない存在」は切り離して考えるべきである。例えば、齋藤飛鳥はセンターポジションから、その候補から外すことが出来ない存在である。しかし、齋藤飛鳥はセンタータイプのアイドルではない。だが、彼女をセンター候補から外すことは許されない。現代アイドルシーンを成立させる収斂されたシステム(プログラム)には、ファンの声量が組み込まれているからだ。プログラムを変えることによって発生する深刻なエラーに対応するだけのエネルギーは、もう現代のアイドルシーンには残っていない。
矢作萌夏もセンター、エース候補から外すことが出来ないアイドルである。グループの未来を見据えたうえで、彼女にとりまく声量を無視して、彼女をメインストリートから外すことは、すでに、むずかしい。研究生史上初のソロコンサートの決定は、システムがファンの声量をある意味では作り上げ、それを既成事実化し、動き出した証明である。浮遊する「個」を見捨て、引き返せない線を越えたのである。まさに、賽は投げられたのである。
では、平手友梨奈はどうであろうか。彼女に対する声量のなかには彼女を外すことでグループが新しい扉を開くための鍵を手に入れようとする訴えかけがある。その扉のさきで待つ、まったくあたらしい光景(物語)をファンは容易に想像できるのだ。その光景を想像してしまった、期待を抱いてしまったファンから平手友梨奈におくられる、彼女への賛辞に対する揶揄を意識的に看過することは、もはや不可能だろう。それは、平手友梨奈のアイデンティティにすらみえてしまうから。何かを変えることと、意識的に変えないことでは後者のほうがもちろん、難事である。つまり、平手友梨奈を外すことと外さないことでは、外すことのほうが実は容易い。平手友梨奈は外すことのほうが簡単なアイドルである。矢作萌夏は外すことのほうがむずかしいアイドルである。この点が、矢作萌夏と平手友梨奈がアンチ・テーゼとして機能しない理由と云える。

文芸という虚構に足を踏み入れたばかりの少女。彼女の両隣に立ち、並び、歌う他のアイドルと比較すると、矢作からは安定した力強さを感じる。蓋然的なパワフルさと云ってしまうと、アイドルの評価としては場違いな意見にきこえるだろうか。今後、評価を見直す機会のおおいアイドルであるのは云うまでもないだろう。目標が同じ方向にあるときに発揮される同質性は仲間との絆を深める。自身だけではなく仲間が遭遇する奇跡にも歓喜する。その心地よい環境が、受動的な境遇によって一変した際に、前にも後ろにも道がない、という場所に置かれたとき、矢作萌夏がどのようなストーリーを描くのか、彼女の出現によって、彼女を擁立したことによって、グループが前例のない岐路に立たされたのはまちがいない。現代アイドルシーンを転覆させるアイドルはAKB48の外側から訪れると予知する論者、ファンは少なくはないのでは、と感じる。しかし、私は、そうは考えない。おそらく、アイドルシーンをおおきく転換させる存在はAKB48の内側から発生するだろう、と想う。その”胎動の卵”が矢作萌夏なのかもしれない。現代人の多くが2018年になって”はじめて”「平成」を意識したように、矢作萌夏が日常として手繰り寄せることができない、無縁と捉えるしかないAKB48のイデオロギーという夢の残骸を、彼女が意識する瞬間とは、やはり、”なにか”が終わるときなのではないか。

 

総合評価 71点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 16点 ライブ表現 14点

演劇表現 11点 バラエティ 13点

情動感染 17点

AKB48 活動期間 2018年~

引用:(*1)阿部和重「ピストルズ」
(*2)江藤淳「成熟と喪失」

評価更新履歴
2019/02/09 ライブ表現12→13
2019/03/04 ライブ表現13→14  再評価、加筆しました

評価点数の見方