AKB48 佐藤妃星 評価

AKB48

佐藤妃星 (C)KADOKAWA CORPORATION/ザ・テレビジョン

「レット・イット・ビー」

佐藤妃星、平成12年生、AKB48の第十五期生。
成熟による人工的な喪失を招き入れ、純粋無垢な輝きを忘失する気配があるものの、現代的な距離感ではなく、近代的な視点において、アイドルの”ジャンルらしさ”を抱えるビジュアルの持ち主である。渡辺麻友の系譜に連なり、”正統派アイドル”を継承すべき人材でもある。なによりも、だれにも共感をされない孤立感が渡辺麻友と響き合っている。孤立感の所持とは、文芸に身を置くものにとって幸運な境遇と呼べるが、自我を獲得する過程にある少女にとっては不遇なのかもしれない。日常を演じる不安や戸惑いを仕舞い込むには、彼女の身体はあまりにも可憐で小さく映る。しかし、全体のサイズ感は絶妙にバランスがとれており、その姿形に含まれる要素の一つひとつが「佐藤妃星」のライブ表現力を高い次元に押し上げている。ダンススキルに関してはすでに申し分がなく、彼女の踊りは”前回”からの表情の変化を愉しむフェーズにある、と云えるだろう。喪失を蹴り上げようとする躍動感ある踊りは、観者に「アイドル」の生命感を投げつける。

もっとも興味深い点は、「アイドルを演りきれない」という彼女の葛藤が作る日常の立ち居振る舞い、ある種の脆さがライブ舞台装置の上ではステージ裏の暗がりに押し込まれていることだろう。アイドルを演りきれない少女が、劇場(舞台)という非日常空間では驚くほど心を裸にしている…。現代のアイドルシーンに提示される、あるいは希求される「アイドルの作り方」こそ”素顔の提供”であり、乃木坂46の西野七瀬の成功は、この命題のクリアに因るのだが、平成が終わり、令和が始まった現在(いま)、佐藤妃星にも西野に類似した、しかし西野とは異なるアプローチを持った、あたらしい素顔の提供=資質(魅力)を感じるのだから、面白い、興味の尽きないアイドルに映る。

アイドルを演じるということは、虚構=嘘を作り上げることだと、これまでに繰り返し述べてきた。虚構とはフィクションであり、つまり、ここではない、もう一つの別の世界である。アイドルを演じる少女は現実世界と架空の世界を行き交いしながら、自我の確立を試み、現実世界で”遭遇したかもしれなかった物語”、アナザーストーリーを描く。これは、文芸の世界において共通作業と云えるだろう。小説家も、彫刻家も、画家も、そしてもちろんアイドルも、虚構の存在を借りて真実に到達しようと試みるのである。佐藤妃星については、おそらく、この虚構を作り上げていない。彼女の書く物語には嘘が伏在しない。今後も、その存在は意識的に看過され続けるのだろう、と予感させる。意識的にしろ、無意識にしろ、虚構の存在を否定するアイドルはめずらしくはないが、嘘を身にまとわずに、あるがままの姿形で、虚構を構成し架空の世界で踊るアイドルに立ち向かえるアイドルは少ない。佐藤妃星はどうだろうか、彼女は立ち向かえている、と感じる。それは何故だろうか。彼女は自身で虚構を作り上げることは決してないが、劇場(舞台)という他者の思惑によって構築され、用意された虚構の上では、右へ左へと、自由に動き回っており、それが「佐藤妃星」の寄す処に映るせいだろうか。いや、おそらく、嘘で堅い外郭を建築しない彼女の脆さや無防備がステージ上での英姿にすり替えられても、ファンにとってそれはあくまでも「佐藤妃星」の”つよがり”であり、全力で哭いて咲うアイドルを眺めながら、その涙や笑顔の影に少女が必死に懐へ忍ばせたであろう本音を、素顔を読み解こうと、熱心する、その希求力が独特な信頼関係(アイドルの物語に対する批評空間)を築き、佐藤妃星にあるがままの姿でアイドルの日常を描かせることを可能にさせるのではないか。
姿形だけではなく、バラエティ番組での立ち居振る舞い、情動を引き起こすまでの物語の作り方から、乃木坂46の星野みなみを想起させるが、星野みなみもまた、虚構の構築、日常を演じることを不成立にしてしまった天才である。今後、共時性の訪問があるのなら、佐藤妃星が陥る隘路や、そのさきに見る光景も、星野みなみの達成とかさなるのではないか、と妄執する。

 

総合評価 70点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 13点 ライブ表現 15点

演劇表現 11点 バラエティ 16点

情動感染 15点

AKB48 活動期間 2013年~

評価点数の見方