秋元康の歌詞の魅力

座談会

「アイドルの可能性を考える 第十六回 秋元康 編」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

秋元康を語るということは、つまり「作家」を語ることになるから、劇作家や小説家を批評する私の批評家としての日常の閾に戻るのか、と言えば、そうとも言えないようで、「秋元康」という作家はどこに立っているのか、その才能の在り処とは、そうした疑問から、はじまった。

「秋元康の才能の在り処」

島:秋元康の才能をどう扱うかって、アイドルの才能を芸能界でどう扱うか、考えることに似ていませんか。作詞、脚本、小説…、どれも幼稚な作品ばかり。しかし名前が売れているだけでなく、存在そのものが最早プレステージになっている。
楠木:アイドルは秋元康の構想のなかで演じているんだから多様性に投影が出るのは当然ですよ。
OLE:作詞家、脚本家、小説家に砕かずに「作家」のカテゴリーで評価しようとしているんでしょ。
島:はい。
楠木:僕は、作詞家の立場しか知らないんだけど。
島:小説家として見るなら村上春樹を持ち出すべきでしょうか。
OLE:世代がもう少し下じゃない?でもまあ、いわゆる内向の世代の影響を受けているだろうから、秋元康の文章を語るならそのあたりの作家を見るべきなのかな。村上春樹、村上龍、古井由吉、高橋源一郎とか。
横森:そのレベルの小説家と秋元康を比較するの?足元にも及ばないでしょ(笑)。
OLE:たしかにとんでもなくバカらしいな。
楠木:でもその、バカらしい、ってのがアイドルと通い合うんじゃないんですか。アイドルを真面目に語ろうとすると、途端にバカらしくなるというか、恥が出てくる、というか。
島:「言葉」を読もうとしているんだから、とにかくまずは比較対象として有力作家の名前を机に並べないと。
楠木:秋元康の言葉って、まあ村上春樹だろうね。絶対に自分から行動を起こさない「僕」って、ねじまき鳥クロニクルの「僕」だよね。
OLE:ヘミングウェイの影響下にある村上春樹の影響だよね。格好つけてる。
楠木:カート・ヴォネガットとかレイモンド・チャンドラーじゃなくて?
横森:実力はともかく、佇まいが村上龍に似ている気がしないでもない(笑)。
楠木:それは福田和也が作った村上龍のイメージだよ。まあそこが批評の力だよね。坂本龍馬だって、日本人がイメージする「龍馬」のほとんどが司馬遼太郎のイメージでしょう。龍馬の魅力を察知して、表舞台に引きずり出して大衆の主人公にしてしまったんだね。
横森:まあ秋元康って純文学じゃなくてエンターテイメントの作家だから。比較しようがない。エンターテイメント作家の才能が純文学に負けているとかそういう話ならまた別だけど。
OLE:存在感を考えると、山田太一とか。世代を問わずにスタイルを問うという意味になるけど。
楠木:作詞家として見るなら純文学なんだけどね。
島:そこがやっぱり「アイドル」ですよね。小説やドラマ・映画の脚本を書く場合はエンターテイメントに座していて、作詞家としては純文学に立つ。
横森:それをアイドルの多様性に引用するって、スカスカに感じる。
楠木:とはいえ、僕は秋元康の小説を読もうと考えたことって、おそらく、一度もない。そもそもどんな小説を出しているの?というレベル。
OLE:ホラー映画の原作とか、ほら鈴木光司とかああいうタイプの……。
楠木:仮に秋元康の批評を作れといわれても作れる気がしない。古井由吉の批評は書けるけど秋元康は書ける気がしない。まだ小林一三のほうが語れる気がする(笑)。去年、取材で縁の地をいろいろ回ったからね。情報と私情、どちらも持っている。秋元康に対してはそれが無い。でもそれは、秋元康に無関心って意味ではないんだね。町田康が書く小説には興味を抱くけれど、音楽には関心が持てない。それとおなじ。
島:作詞家としてはどうですか。天才ですか。
楠木:天才だろうね。すくなくとも、ただ才能がある人、ではないよね。
OLE:作品がことごとく時代を反映しているって点では並外れたものがやっぱりあるよ。
楠木:でも僕が気に入らないのは「ポケベル」にこだわりすぎって点。小道具を駆使して「時代」を書くことが、時代を反映した歌詞になる、ながい時間に耐えうる作品になるっていう、ちょっと浅薄な狙いをもっているよね。「エゴサ」とか「予測変換」ですか。あとは…、それこそ「勝たん」とか。そうしたトレンドを安易に取り込むことがそのままその時代を反映した作品になるって思い込んでいる。でもそうじゃないよね。その時代に生きている人間の息遣いとか目線を写実しなければ、時代を反映した作品にはならない。まあそれが一番むずかしいから、書くのに時間がかかるから、安易に小道具を持ち出すんだろうけど。
OLE:小道具が書くことの動機というか発想力の源そのものになっているんじゃないかな。
楠木:それはあるでしょうね。作家って一つの言葉をアイデアに変えて、原稿用紙300枚、書けちゃいますから。作詞家も同じでしょう。裏を返せば、書き出しさえ決まっちゃえばいいわけだけど、秋元康もそれにならっていて、書き出しだけ、が良い場合が多い。それは書き出し部分にしかペンに力を入れていないから。とは言っても、今、日本人で秋元康より書ける作詞家って一人もいないでしょう。
OLE:しかも真似できる作家もいない。
横森:アイドルソングのイメージが強いからね。ダサい、幼稚って考えてしまうから、真似されないんだよ。まあ真似されないならそれはもう独壇場だから、強いよね。
OLE:考えてみれば、純文学小説に触れているような感覚になる歌詞を書く作詞家って、今は秋元康くらいか。
楠木:裏を返せば、時代錯誤なんですね。森田童子とか、ああいうのを今の時代でもやろうとしてる。と言うよりも、森田童子と同じように、アナクロになることの予感にひしがれる姿みたいなのを演じていたいんだろうな。
OLE:小説に触れているように感じるって点が大事で、けして「小説」のまがい物ではない。小説家への憧れはあるんだろう。その憧れが強い分、小説で表現しようとしてできなかったことを詩作のなかでチャレンジしているように見える。「詩」だけが与えるもの、できるもの、許されるものってのを理解してる。これはもうちょっと「アイドル」どうこうじゃない。

楠木:「詩」にだけできること、って考えは魅力的だけれど、アイドルからほんとうに離れているだろうか。僕には詩作からまったく剥がしきれていないように見える。『君に叱られた』『君しか勝たん』『最後のTight Hug』『他人のそら似』。最近ならこのあたりの作品はポップ文学として、散文として、文句なしに読めますよね。散文じゃなければ語れないこと、を詩のなかでやっている。でもその語り口というか、散文にちからを借りて表現しようとする原動力そのものに「アイドル」があるように思う。アイドルがいなくてもこれらの作品が書けたのか、問うなら、まず間違いなく書けなかったでしょう。だからこの人は、すごくすごく狭いところ、で作詞家をやっているし、そこに魅力・才能があるんじゃないかな。これってアイドルを演じる少女にも引用できるんじゃないか。またアイデアが湧いてきた。

「批評の批評は、退屈」

今 社会とか世界のどこかで 起きる大きな出来事を 取り上げて議論して 少し自分が高尚な人種に なれた気がして夜が明けて また小さな庶民

Mr.Children / 彩り

楠木:音楽のなかでの詩、要は歌詞ですね。歌詞にしかできないことっていうのはやっぱりありますよ。たとえば、批評を書く時に、ポップスを文章のなかに引用すると、文章の空気感がガラッと変わるというか、どうしても感傷的にすぎるというか、幼稚な気分になってしまう。音楽のなかで表現されるその言葉に触れれば、格好悪いものには感じない。格好が良い悪いで表現し分けることではないんだけど、ここではほかの言い方が思いつかないので。とにかく、歌詞の引用ってどうしても文章全体の空気感を幼稚なものにするんですね。真剣に書いてあるものが滑稽に見えちゃう、笑えちゃう、と言うか。だから「歌詞」っていうのは音楽のなかでだけ生きるものなのだろうし、音楽のなかでしか書けないもの、当然、表現できないもの、なんだとおもう。つまり、アイドルに話を戻せば、この感慨をアイドルに還元すれば、歌詞のなかでしか語ることができない、表現できない「アイドル」がある、はずなので、やっぱり、アイドルを眺める際に秋元康の歌詞を無視するっていうのは、批評としてはあり得ない。
OLE:そこが秋元康の強さだろうな。
横森:強さ?
OLE:最近はさ、ひとつの分野に精通した人間よりもいろんなジャンルに手を出すオールラウンダーが求められていて、もちろんどっちにも需要はあるんだろうけどさ、両者が直接打つかると、オールラウンダーが優位に立っちゃうっていう、虚しさがある。なんでって、オールラウンダーのほうが「数字」を積んでいるからだね。他の場所で積み上げてきた「数字」がある。「数字」を持っている人間のほうが説得力があるんだよ、今は。これはもう幼稚性以前の問題で、幼児性だよね。アイドルで言えば日向坂の影山優佳とかさ、まさにオールラウンダーだ。ところで秋元康はどうかと言うと、どちらの立場も取れるんだな秋元康は。だから強い。
楠木:門外漢を振る舞うことで出てくる説得力って、あるじゃないですか。ルバテがヴァンヌイユを名乗って批評を作ったでしょう。あれもきっと政治参加つまりジャーナリズムというよりも、門外漢っていうところにおもしろさの出発地点があるんじゃないか。じゃなきゃあれだけの数の批評は書けない。で、アイドルシーンでも門外漢って強いんですよ。だから『アイドルの値打ち』ではあたらしくペンネームを作って、門外漢として、アイドルに文学や演劇を持ち込んでみた。影山優佳が大衆に受けているのだとすれば、サッカーにアイドルを持ち込んでいるからだね、きっと。
横森:でもそれって、影山優佳のファンからすれば、目をそらしたい現実だよね。
OLE:個人の才覚の発揮、個人としての活躍、その結果としての話題性だと信じたいよな。
横森:アイドル本人からすれば、グループアイドルとしてテレビに出演して、グループの価値を押し上げることが自分の価値を上げすることにつながると理解して行動しているだろうからね。
島:ワールドカップ見てますか?
OLE:昔は深夜早朝かまわず起きて観てたんだけどな。
楠木:僕はもう全然、素人で、でもワールドカップとか、たまに観ますよ。サッカーって、ちょっと目を離した隙きにゴールが決まるって悲劇がよくある気がする。90分間で1回2回あるかないかのシーンを、少し目を離しただけで、見逃しちゃう。だから釘付けになって眺めるしかないんだけど、そうやってしっかりフィールドを眺めていると試合の流れというか、チームの攻防がガラリと変わって優勢劣勢が入れ替わる瞬間をはっきりと目にしたりする。ゲームがひとつのドラマとしてあとから振り返って語れちゃうんだね。だから素人でも「語り」やすい。そういうところが世界的な人気の広がりになっているんじゃないのかな。思い出になるんだね、一つの試合が。裏を返せば、集中して眺めていないと楽しめないともいえる。だからサッカーから離れるのも容易い。野球はそこがちょっと違って、僕は野球はラジオで聴いたりビール飲みながらテキトーに観るもんだと思っているから。でもいつのまにか緊張した場面になっていることに気づいて手に汗握ってるとかさ、そこが野球の楽しさだと思う。なにが言いたいのかと言うと、つまりこういう言葉に門外漢の魅力があるんじゃないか、と。
島:楠木さん自身は本業では演劇畑の人間だと自任しているようですけど、僕から見ると、そうじゃないんですね。僕が仕事で楠木さんと向き合うときって紛れもない「音楽の批評をする作家」だし、楠木さんのレコードレビューをきっかけに好きになった音楽って、たくさんあるんですよ。弓場宗治とか、北里正治とか。本音を言えば、アイドルじゃなくて音楽の批評に力を入れれば良いのにって(笑)。だって音楽批評をやるときってお金に困ったときだけでしょう(笑)。
OLE:音楽批評って今おもしろい人いるの?
島:うーん。若手でパッと頭に浮かぶ作家なんて一人もいないですね。レコードレビューって素人がやると分析的になるんですよ。サビがどうとか、Cメロがどうとか、ここの転調は~とか(笑)。で、そういう素人のつまらない感想文とまったく変わらない文章・レビューを差し出す作家志望者が最近は多くて、そういうライターには、はっきりと「向いてないよ」と。湯浅学の真似でもなんでもいい、スタジオ・ボイスでもなんでもいいから、バックナンバーを拾って読んできてもらいたい。
OLE:レビューとクリティックの話題だよなこれって。
島:それ以前の問題ですよ。
楠木:音楽の批評ってなんだ?って考えても、どの本を探せばいいのかわからない。インターネットでは教えてくれないからね。本屋に行って手にとって読んでみるしかない。そういう時間を作ったことがないと、音楽批評=音の解釈と思い込むんじゃないかな。小説家が小説を書く行為と、作曲家が曲を書く行為って、まったく変わらないんですね。だから、音楽も小説の批評のように語るべきだ、ではなくて、音楽を批評しようと思ったらそれはもう小説の批評とおなじようになってしまう。それだけのことなんだね。ルバテの音楽史がなぜこれだけ長い時間読み続けられているのか、考えれば、一目瞭然でしょう。それは、読み物、になっているからだね。音の解釈、というよりも、音の分析だけでは、読み物にならない。
横森:こういうのって結局は批評が身近なものじゃなくなったことに起因しているでしょ。日本では小林秀雄が批評の形を決めたんだけど、でも大衆に浸透したのは「である」だけで、「私」を文章に込めるみたいな、そういうものが批評になる、っていう精神は理解されなくて、むしろ批評はその真逆だと思ってる(笑)。いやいや、批評ってのは「私」でしかあり得ないんだよって。この批評は個人の好き嫌いでしかない、とか言ってる人間を見ると……。
島:普段批評を読まない書かない人間がいざ批評にチャレンジすると「である」をとにかく多用する(笑)。
楠木:多用というか乱用ですよね。語尾に「である」を付ければ批評っぽくなると考えて無理に「である」を使うから、滑稽になる。使い所というか、語感と言えば良いのかな、リズムもあるけど、そうしたところに意識が向けられるセンスがそもそもないと批評云々以前の問題で、物書きとしてどうなのかなと、僕は思いますね。

OLE:「である」は罪深い(笑)。
楠木:今SNSとか覗くと、盛んに批評の批評をやっているでしょう?誰かの意見に対して自分がどう思うのか、ばっかりで、まず自分がその事柄に対して何を思っていたのか、どこにも打ち出していない。「私」が抜け落ちているんだね。誰かの批評に対して批評することが「批評」なのではなくて、自分の批評をまず作る。情報を集め、その情報を支えにしてフィクションを育むことが批評になる。批評を作る行為そのものが考える行為になるということを体験してもらいたい。小説の批評を書く人間と、小説の批評を批評してばかりの人間は、当然、おなじ批評家ではない。個人的には、誰かの批評を批評する人間ってすごくつまらないとおもう。自分がどう感じたのか、自分の批評があって、それとはまったく別のところに知らない誰かの批評がある、べきで、ある作品に対し、ある批評が置かれた、じゃあその批評に対し批評を作ってみるか、ではなく、たとえ他人の批評がきっかけであったとしても、その批評の批評を作るのではなく、作品に対する自分の感情を文章に起こせばいいだけで、それで説得力があったりおもしろかったりするほうが結果的に読まれる、生き残る、というだけの話です。
OLE:議論することが目的になってしまっているんだな。
横森:批評の批評なんて、ストレスの捌け口でしかないでしょ。間違ったこと言っている奴を常に探してるんだよ。
楠木:アイドルの値打ちを書いていて、驚いたことは、読者からの「声」を読んでいると、多くの読者が、安易に批評の批評をやらずに、しっかりと自分の感情を文章にしている点です。もちろん管理人の検閲を通ったメールしか僕の手元には届かないから、ある程度のハードルを越えた、アイドル観の肥えた読者、ということになるんだろうけど。僕の文章に対して、分析的に指摘する、みたいな退屈なことをする人がまったくいなくて、自分がこのアイドルをどう思うのか、思っているのか、しっかり自分の言葉で書き、伝えてくれる。そうした文章を書いている瞬間って作家と変わらないんだ。アイドルシーンも捨てたもんじゃないぞ、熱誠に溢れたすごい人たちがまだまだしっかり居るんだ、と勝手に思ったりしている(笑)。

2022/11/27  楠木かなえ