SKE48 水野愛理 評価

SKE48

 

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「書き足されていくマイフィロソフィー」


輪郭をもたないアイドルであふれる現在のシーンにあって、偶像ではなく、明確な実像として「刺激」を提供し続けているアイドルである。記憶を風景化して、それを短い物語として描写するのが得意なようである。仲間の語るエピソードに同意しながらも、常に対立命題的な意見を思考しているような顔つきをする。哲学者のような瞳の色をしている。なにかを裏付けるために発したのかと想わせる科白を突然目の前に置くクセがある。それが、仲間の語ったエピソードを補完するためのものだったことを、その場の空気が変わり、少し時間がながれた後に覚らされる。会話に対し、意識的であり、手腕がある人物と云える。

楽曲ごとにパフォーマンスの質の差が激しいのは生来の斑っ気が影響しているのだろうが、それがメンバー間で個性として受容され、精彩を奪われることがないのは彼女自身の対話能力による恩恵だろう。

アイドルとファンの距離感の喪失に対する水野愛理の姿勢は興味深いものである。アイドルとファンの距離感があいまいになった結果、ファンたちはアイドルにあまえたイノセントな発言を繰り返す。アイドルもファンに対しあまえた無防備な言葉を返す。未成熟さの集合によって不完全さを拭うようなシーンの成立を前に、水野愛理は自身のファンにあまえることをしない。ファンのイノセントな発言に対して感情を吐露し嘲笑うことはあるが、情動を引き起こすことはない。
アイドルがファンの口を噤ませることは、小説家がペダンチックな立ち居振る舞いをとるのと同じくらいに容易である。例えば、中田花奈のように業界人だけが知る情報をひけらかし「素人にはわからない世界だから」と、ひとこと云えばよい。しかし、水野はそのような浅はかなマネはしない。ファンの傍に降り立ってある程度の「素」を提供できている。この点が筆者にはきわめて怜悧な人物に映る。
総じて、アイドルとして与えられた境遇を活かすことができる人物と評価できる。

怜悧であるが、知的な印象が薄いのは、彼女のアイドルとしての「姿勢」が原因だろう。もちろん、アイドルにとって知的さを消すことはデメリットよりも、メリットのほうがおおきい。寡黙や俯きがコミュニケーションにとって有利にはたらくと知って、それに甘え、成長そのものを放棄する現代人が多いなか、彼女の雄弁で悪童的な姿勢は、隘路の壁を掘り進めるような光景への期待感を抱かせてくれる。だが、少女のこのような姿勢はヴァルネラブルの暗示でもある。 

「逃げろ」誰かが叫び皆が一斉に走り出した。しかし私は横にいるディックが走り出さぬのを確かめた上で手にしていた拳銃を川の向こうに向かって構え、狙いをすませて引き金を引いた。弾が何かに当たった手応えも音もなかった。私の横でディックが何か大声で叫んだ。私は多分思わず馬鹿なことをしてしまったに違いない。ディックが私の肩をどやすようにして走り出した。私も急に怖くなって夢中で走った。

(石原慎太郎「わが人生の時の時」)

これは、石原慎太郎が実際に野生のグリズリーに遭遇した際の描写である。
下記は、この石原慎太郎の実体験の叙述に対する福田和也の評である。

「強大な獣と出会った」というだけではなく、「なぜあんなことをしたのかわからないままに」ライフルや拳銃を撃つ。特に熊の場合は、そのために全員が殺される羽目になるかもしれない危険を冒してまで撃つ。氏の資質として、そうしないと気がすまないのです。自分の存在が「あくた」のように小さいものであることを知りながら、それでも大きなもの、宇宙の永遠といった人間の手の届かないものに対して、反抗したくなる、抵抗したくなる。大きな存在に遭遇して感動した、怖かった、逃げたというだけではなく、ついちょっかいを出してしまう。それは卑小であるが人間の証しであるかのように、頭より先に身体のほうが反応をしてしまう。

(福田和也「福田和也の文章教室」)

この『人間の証し』が水野愛理 の「姿勢」に重なるのである。
度胸はあるが、それがアイドルとしての矜持に結びつくまでには、哲学書のページを捲るような「時間」が必要だろう。今後に注目のアイドルである。

 

総合評価 67点

アイドルとして活力を与える人物

(評価内訳)

ビジュアル 14点 ライブ表現 13点

演劇表現 10点 バラエティ 16点

情動感染 14点

引用:見出し THA BLUE HERB 「THE WAY HOPE GOES」

SKE48 活動期間 2015年~

評価点数の見方