SKE48 北野瑠華 評価

北野瑠華 (C) rukakitano0525/instagram

「ドラマツルギー」

北野瑠華の「美」を一言で表現するのはむずかしい。艶冶な姿形で観者の情動を容易く引き起こさせるが、コケティッシュな仕草をみせる場面は少ない。ヴァンプだが色彩感の欠如がある。ラテン的でハスキーだが、その鼻声で甘えることはない。艶然というよりはキッチュなスマイルを作る。キュートとプリティを行き交いしているのか、統一性がなくアンバランスな美。長い時間、眺めていても飽きない。性への感興もある。時折り見せる、投げやりな立ち居振る舞いから、”つよがり”というよりは”独りよがり”な雰囲気を纏う。
独りよがり。
思弁をくり返した後に発する言葉が、台詞が対象の心の底に落ちる前に燃え尽きてしまう…、この北野瑠華の性質、アイドルとしての展開は、AKB48の永尾まりやと酷似する。自身が作るアイドル像の欠陥、破綻への予感、事実と現実を直視しても、進路を変えずに愚直な前進を試みる点は、乃木坂46の寺田蘭世とかさなる。クリエンテスの欠如という点では同グループの斉藤真木子と距離が近く、北野瑠華もまた、相互扶助(共闘)の構築に苦戦する人物に映る。

北野瑠華はアイドルの成長を”写真”という虚構を通じてファンに伝え、それを眺めるファンの情動を引き起こさせることに成功している。偶像として、古典的ではあるが、正統的で、王道と云えるだろう。しかし、ファンではなく、自身が引き起こした情動を他者に感染させるという観点では、貧弱なアイドルに映る。アイドルが、感情を吐露する(あるいは、感情を吐露しているようにみせかける)、これは、実は容易い。むずかしいのは、感情を吐露することによって自身の情動を引き起こし、それを対象の心の奥に投げ付け、感染させる「行為」である。アイドルだけではなく、現代の女優や歌手にも求められるのは、心を裸にして、その闇をみせる立ち居振る舞いである。例えば、女優の山田杏奈の成功は、この「暗闇」の所持、存在の証明に因るところがおおきい。女優が仮構の中の演技で表現するのに対し、アイドルは、日常の立ち居振る舞いや仕草、対話を演じ、自身のストーリーを、暗闇を物語る必要がある。嘘を作ることによって、その嘘=演技を観者に看破させ、真実を、心の闇を発見したと錯覚させる必要がある。つまり、現代アイドルは、ドラマツルギー(平易に云えば、演じ分け)という概念に対して、きわめて意識的にならなければいけない宿命を負っている、と云える。
現在の北野瑠華は、この”アイドルを演じる”行為を「禁忌」に捉えていると、つよく感じる。これまでにも繰り返し述べてきたが、アイドルを演じる、とは、決して事実の歪曲ではない。アイドルを演じるということは、アイドルが嘘を作るということは、もう一つの別の世界で、もう一人の別の自分を作り上げるという意味である。それがアナザーストーリーとなって現実の世界に降りてくる。北野瑠華という人物には、この「if」が無い。だから、自身の心の移動が作る振動で観者の心を揺らすことができない。もちろん、アイドルのみならず、人は生活をする上で、すでに自身の役割を意識的にしろ、無意識にしろ、理解し、演じている事実も忘れてはならない。つまり、アイドルを演じることを偽りと確信し、「許されない嘘」として扱ってしまうと、自己がこの世界に存在する「必然」を放棄する結果になってしまうのだ。彼女があまりにも生身で無防備に映るのは、フィクションで自身を覆っていないからだ。

人は、「これが真実です」とポンと目の前に置かれても、それを素直に受け入れることはできない。真実を受け入れさせるために、一度嘘に触れさせる必要がある。場面による演じ分け、異なる表情をみせつづけることで、ファンはその中に隠された真実=アイドルの素顔を発見しようと血眼になる。結果、アイドルに物語性が具わる。北野瑠華が演じるべきは、日常の仮装なのだろう。写真に映された「北野瑠華」の物語を作る。フィクションを作れば(自分ではないもうひとりの自分が暮す、ここではない別の何処か=架空の箱庭を作れば)隘路の両壁は崩れ、アイドルとしての自我を確立するのではないか。自我がグループのイデオロギーと止揚するときに”はじめて”写真の中の彼女が動き出し、アイドル・北野瑠華の存在理由が満たされ、グループの通史を描く登場人物の一人として読者から信義を勝ち獲るのだろう。

 

総合評価 59点

問題なくアイドルと呼べる人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 13点

演劇表現 10点 バラエティ 13点

情動感染 8点

SKE48 活動期間 2013年~

2019/5/2  ビジュアル14→15 加筆しました

評価点数の見方