中西アルノの可能性
「アイドルの可能性を考える 第四十三回」
メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。
「だれにも所有されない、中西アルノ」
島:今回の持ち込みは…、楠木さんがシャルル=ルー『忘却のパレルモ』、OLEさんがディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、横森さんがキットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、僕が宮沢賢治『チュウリップの幻術』。
楠木:キットラーのディスクールで思い出しましたが、最近、と言うか、この4人の集まりを座談会と称して記事にするようになってからですか、ボイスレコーダーを再生しながら文字を起こしていく段で、違和感を覚える場面がよくある。たとえば横森が「批評」について私見を述べた際に、これは以前にOLEさんが語ったものじゃないかと、ふと違和感を覚える。それでそれを島さんに訊ねてみると「違いますよ、それはもともとは楠木さんの言説ですよ」と叱られる。要するに、言葉というのは、とても所有できるものではないんですね。
OLE:以前、俺が「批評家は自分のことを棚に上げる生き物だ」と言ったら、楠木君はその場ではそれに感心しつつ、帰宅後に、あれは高名な作家の名言に違いない、と書庫に入り浸ったっていうエピソードを聞いて、言葉への執着心に感服したよ(笑)。
楠木:柄谷行人の言葉でしたね。
横森:名言って、それをだれが言ったのかが重要だからね。だれが言ったかよりも言葉そのものの価値を問うべきだと考えるのは、言葉に明晰な振る舞いではない。柄谷行人がそのセリフを吐いたのって福田和也に日本の批評を託した場面だったはず。そういう背景が大事なんだ。
楠木:作家の立場から、かまととぶって云うと、言葉なんてものはもうパターンが出尽くしているから、今更なにを言ったところでそれはもう過去に別のだれかが話していることだから、言葉そのものに価値を見いだすことはできなくなってしまったんだね、僕たちは。じゃあなぜ他人の言葉に今でも影響を受けるのかといえば、その言葉がなぜその人から発せられたのか、なぜその人はその言葉に至ったのか、考え、辿る、つまり思い馳せるからで、たとえば小説なんてのはその最たるもので、作家がなぜその言葉を持ち出したのか、なぜその表現方法を選択したのかを考えることが、ひとつ、批評につながっていく。
横森:その行程って、ディスクールに支えられたものだよね。たとえば「このアイドルはピュアだ」って陳腐な褒め言葉を使う際に、躊躇せず、大胆になれるわけでしょ。あくまでも、なぜそう見えるのかが大事だとする前提に立てているから。三流の書き手は、ピュアって言葉を使う際に、この表現はありきたりだから用いるべきではないと、制限してしまう。一方で、言葉を用いる際に、しっかりとした理由をもっていて、それを表現の支えにできている作家は躊躇せずに「ピュア」を使える。たとえば、賀喜遥香のことをいまさらピュアだと褒めるのは、傍から見てもかなり陳腐に感じるが、楠木君はその理由として、フィクションを通じて現実を理解しようとする姿勢がピュアなんだと書いている。そうした視点をアイドルに持ち込んで文章にしたのは「アイドルの値打ち」が初めてだろうから、ピュアはピュアでも陳腐ではないんだね。
島:キットラーに絡めたにしては、なかなか純真な批評に聞こえますね(笑)。
楠木:自分の中に価値が生まれて、それを信じて言葉にすればそれだけでもう批評は成り立つ。けれど、それができない人間のほうが多い。なぜかといえば、当てようとするからですよ。自分が褒めた作品がそのとおり大衆に評価されることをみんな無意識にしろ意識的にしろ望んでいるんだね。だから、当てようとする。良いと感じたから良いと言う。その理由を書く。ただそれだけでいいのに、当てようとするから、良いと思わないものを良いと言ってみたり、良いと思ったものを悪いと言ってみたり、大衆の眼を意識しすぎておかしくなるんだね、みんな。
横森:ディスクールをひけらかすなら、批評は開けていなければならない。「アイドルの値打ち」で言えば、すくなくとも評判記のカテゴリーはすべての読者がアクセスできる状態が好ましい。
島:『デイヴィッド・コパフィールド』だって言ってしまえばディスクールですよね。
楠木:あれはノスタルジーの創作であって私小説ではないから、当然ですね。
OLE:伝記の魅力をあらためて教えてくれる作品だね。ふと今思ったのは、アイドルは、私小説であるべきか、伝記であるべきか。
楠木:どちらでも良いと思いますよ。白石麻衣や橋本奈々未なんかは私小説的な魅力を持っていますよね。アイドルを演じたさきに現実が待っていたわけですから。自分の人生を小説にするということは、小説の主人公が物語のなかでいつか、かならず小説家になるという事態、つまり現実に直面することを意味する。仮想があって、次に現実がある。『デイヴィッド・コパフィールド』はその逆で、現実を頼りに仮想を作っている。自分の人生を軸にした仮想をなぜ作るのかというと、自分にどういった可能性がひらかれていたのか、とか、そういった好奇心がまずあったんじゃないか。乃木坂で言えば、たとえば中西アルノは伝記としての魅力があるんじゃないか。
OLE:歌い方によく出てるよね、自分をどう創作化して見せるのか、過剰な意識がアレンジを作ってる。
横森:それは好意的に解釈しすぎだよ(笑)。
島:正直、歌は思ったほど良くないですよね。
横森:声がまだまだ枯れてないね。カヴァーするってことは、その曲についてまだ知られていない魅力を引き出すって意味なんだけど、中西アルノは自分のフィールドにどう持ち込むか、どうすれば上手く見えるのか、それだけしか考えていない。もっと自分を枯らさないとだめだよ。
島:カラオケで良いんですよ、彼女の場合は。カラオケを楽しめばいいのに、アーティスティックにやろうとしてボロが出ている。歌なら井上和のほうが数段上に見える。気障でナルシストな一面が歌によく出ている。
楠木:中西アルノもかなりのナルシストですけどね。それはともかく、オーディションで尾崎豊を歌ったというのは、要するに歌をストラテジーにしたわけですよね。そういう大胆さですか、胆力をスポイルして、歌の上手い下手で売り出したのは失敗だったかもしれませんね。
OLE:現実を仮想に仕上げていく=伝記としてのアイドルの魅力を考えるにしても、中西アルノの魅力って、仮想にされる前の「現実」の部分にあるんじゃないか。
楠木:その「現実」というのは、きっとアンダーグラウンドにあたるんだとおもう。アンダーグラウンドに立っていた少女なだけに、メジャーに立つことで、魅力が削がれてしまう、ような。月並みな表現だけれど。たとえば中西アルノならRAW LIFE(ロウ・ライフ)のステージに立っていても、違和感ないとおもう。千葉で開催されたRAW LIFEが僕にとっては最初で最後のRAW LIFEになったんだけど、木更津から富津に向かってすこし走ったところに廃墟になったボウリング場があって、そこが会場になっていてね、音楽の興奮はさておき、建物が崩れるんじゃないかって、ぼんやりとだけど、でもたしかに頭の片隅に危機感がずっと残っている。音に合わせてコンクリートの壁がボロボロ崩れていくもんだから、ここで俺は死ぬんだろうな、なんてことを磯部涼がSTUDIO VOICEで述懐したりもしていて、まあ、あの空気感こそ、僕はアンダーグラウンドだと思っていて、そういう聳動(しょうどう)をデビュー当時の中西アルノはもっていたと勝手に信じているんだけど、アイドルを演じていく上でその部分こそが邪魔になるんだとでも言うように、綺麗に削ぎ落とされてしまった。で、あらためて乃木坂のアイドルを眺めていると、林瑠奈にそういうアンダーグラウンドっぽさがあるように見えて、またおもしろく感じるわけです(笑)。
島:アンダーグラウンドの魅力に照らし合わせるなら、中西アルノって、だれにも所有されない、みたいな、そんな空気感がありますよね。
楠木:ありますね。この場の話題に乗せるなら、ディスクールがこの人の魅力なんでしょう。
OLE:アングラ的な青い一面を描きつづけたのが平手友梨奈だけど、中西アルノは平手友梨奈にはないコミカルな「笑顔」が出せるようになった。まさしく、乃木坂に育まれているんだね。
横森:乃木坂らしさってのは「薫陶」だから。薫陶を得ることは成長だと言えるかもしれない。その実、無個性になっているようにも見える。
楠木:ニル・アドミラリという言葉がありますが、その「無個性」というのは要するに想像力がどんどんなくなっていって、無関心・無感動になってしまうことを意味しているんじゃないか。客のトラブルをただ黙って眺めているタクシーの運転手とか、そういう人間のことです。
島:そう考えると、中西アルノはやっぱり現代人を映しているんですね(笑)。
横森:ただ、もうすこし視点を広げるべきで、「現代人」云々の前提のなかでアイドルがどう行動すべきなのか、たとえばジイドなんかは既存の小説の枠を毀すことがそのまま社会を映すことになるというのをやってのけた。小説が社会を映すのは、社会の様相をそのまま物語にしているからではなくて、作家が小説を起こすその行動力の内にある。こういう視点は、アイドルにも持ち込めるんじゃないかな。
楠木:アイドルを演じることの目的に「鏡」があるべきだという視点に立つなら、たとえば冨里奈央はアイドルになることで自分の過去に復讐を遂げているから、条件をクリアしている。未来のためにアイドルがあるんじゃなくて、仇を討つためにまずアイドルがあるというのは、人間の本質的な部分に結びついているように見えなくもない。
島:中西アルノへの期待って、この少女なら既存のアイドル観を毀してくれるだろうという希望にあったはずです。しかし蓋を開けてみれば、既存のアイドル観に個性を馴らされてしまった。個人的には、アイドルは恥ずかしいものだとする認識を捨てられずにどうアイドルを演じて行くのか、期待していたのですが。しかし、なぜその手のタイプのアイドルが一人も出てこないんだろう?
OLE:須藤凜々花がそれじゃないの。
楠木:でも須藤凜々花は卒業と同時の転向なので、アイドルは真面目にやっていましたよ。みんなあの人の演技に騙されたわけでしょう?
横森:須藤凜々花が卒業と同時に転向なら、中西アルノはデビューと同時に転向と言えるね(笑)。
楠木:須藤凜々花は卒業発表の際に、今までの私は虚構です、ほんとうの私はアイドルなんかじゃない、と宙返りした。対して、中西アルノは、アイドルになる前は「ほんとうの私」がわからなかった、アイドルになったことで「ほんとうの私」が見えてきた、と宙返りしている。その姿勢は素晴らしい。問題は、須藤凜々花は、本心に嘘をつきながらアイドルを演じていた頃が一番輝いて見え、中西アルノは、その逆だという点です。であればやはり「アイドル」を「伝記」にして見せるというところに帰結していくんじゃないのかな、彼女は。
2024/08/17 楠木かなえ