中西アルノ × 平手友梨奈

乃木坂46, 特集

(C)絶望の一秒前 ミュージックビデオ

「他人のそら似」

中西アルノ、平成15年生、千葉県出身、乃木坂46の第五期生。
乃木坂46の物語にあたらしく11人の少女が加わった。順次公開されるその瑞々しい少女たちの横顔を眺め、まずおもうのは、ビジュアルの鮮烈さである。アイドルの魅力として”未完成”を謳い、未来を作ると呼号し開けた乃木坂の門をくぐり抜けたオーディションの合格者として見れば、完成された隙きのない端正な構成に作り手の倒錯・混乱をみるものの、眼前に並べられた少女たちの横顔には、それぞれに、豊かな可能性が秘められていると確信させるだけの光量が確かにある。
とはいえ、物語に加わった、グループの歴史の上に立った、と表現するのは容易いが、現在知り得る情報は名前と生年月日、出身地、好きな食べ物や”長所と短所”といった簡単な自己PRくらいなもので、当然と言えば当然だが、彼女たちはまだアイドルの輪郭を持たない。乃木坂46にとって、またそのファンにとって、けして他人ではないが、しかし家族や友人、恋人といった親密な関係性をもつ存在とは捉えきれない、いうなれば、遠い親戚の子、である。そしてこの感慨はおそらく”お見立て会”や”ブログ”を通じて彼女たちとの日常に関わった後も、しばらくは払拭されないだろう。アイドルに輪郭がでてくる、つまりアイドルに物語性が宿る、物語性を見出す、このタイミングはファン個々の想像力に頼るものだが、その想像を他者に向け説得できる日が来るのは、どれだけ早くとも1年後2年後になるのではないか。
だがそれでも語れてしまう、いや、語ろうとしてしまうのが、アイドルの、いや、グループアイドルの魅力、大仰に表現すれば、魔力なのだ。

まだまだアイドルとしての輪郭を把持しない、遠い親戚の子である少女たちを前にして、中西アルノという少女を前にして、しかしそれでも彼女の魅力を探ろうとするとき、その原動力とは一体どのようなものになるのだろうか。きっとそれは、他人のそら似、ではないか。
他人のそら似、これは要するに、血のつながりを持たないあるふたりの人間のあいだに有機的な結びつきを見出しそこにレジティマシー=正統性を打ち出す、という意味である。あたらしく出会った人物が、昔、自分の人生の物語のけして浅くはない場所に生活した登場人物のおもかげを持ち、どこか似ているな、と感じ入るだけではなく、そのあたらしく登場した人物と過去にどこかですれ違ったことがあったのではないか、偶会を想うとき、「他人のそら似」が立ち現れるのである。
もちろん、だれかを語るときに、そのだれかをほかの誰かと比較し、よりにもよって「他人のそら似」などというご都合的解釈をもって語りはじめることに、おさえようのない拒絶を示す、無垢な大衆の問いかけを一刀両断することはむずかしい。
だが、想像してみてほしい。中西アルノをはじめとする5期生の面々を膨大な数の応募者の中から選びだした作り手にとって、つまりその日はじめて出会った少女を前にしたオーディション審査員にとって、果たして「他人のそら似」と同等か、それを凌ぐ判断材料がほかにあるのだろうか、と。
「他人のそら似」が過去との偶会であるならば、それはまさしくノスタルジーにほかならない。郷愁、これほど人のこころを揺さぶるものはほかにない。とくにグループアイドルの場合、ビジュアルの鮮烈さを前にすれば歌やダンス、演技など、まったく問題にならないわけである。そうした、自己肥大した郷愁をつつくその少女の魅力を表現するために、あるいは、誤魔化すために、往々にして、彼ら審査員は、アウラという抽象的で曖昧な形容辞を準備し、オーディエンスを説得するのである。

しかし、顔が似ているというだけでそれを「他人のそら似」と呼び、過去と結びつけ語って良いものだろうか。ただ似ているだけであるならば、それは裏を返せば”まがい物”に過ぎないわけである。偶然の一致を、意味のある偶然の一致つまりシンクロニシティと捉え奇跡の体験にまで押し上げるには、あたらしくグループに加わった瑞々しい少女、そのなにも持たない彼女を前にして、彼女と「他人のそら似」の関係に立つ”過去のひと”の物語を彼女の過去そのものであると錯覚するような、通り過ぎた過去を懐かしむのではなくそれが自己の内で忘れがたい過去になっていた事実を思い知り愕然とするような、衝撃が必要になる。そのような意味では、なるほど、たしかに、中西アルノという少女には平手友梨奈の面影と密着するところがあるようにおもえる。憂鬱な微笑の内になにか燃え立つもの、それを眺める者をして、ひどく狼狽させるもの、が宿っている。さらに言えば、今泉佑唯、志田愛佳、また横山由依とも通い合うなにか、をもっているように見える。要するに、この少女には、だれかに似ているな、とつい想わせる、過去に還る冒険へと旅立たせる、不思議なちからが具わっているのだろう。まさに「他人のそら似」という物語・シチュエーションを体現した、次世代アイドルに見える。

では、実際にその「他人のそら似」というシチュエーションを、言葉では容易に説明することができない結びつきを、そのふたりの少女をどのように読むべきだろうか。書きながら、イメージしていこうとおもう。

平手友梨奈、平成13年生、欅坂46の第一期生であり、初代センター。
説明するまでもなく、平成を代表するアイドルの一人であり、大衆とアイドルの対峙、という構図を歌った『サイレントマジョリティー』をもって芸術性とエンターテイメントの境界線の上をふらふらと歩く現代のアイドルの抱えるアンビバレントな問題をあばき出した天才である。
中西アルノに「平手友梨奈」との愛着を期待するとすれば、それはやはり、作詞家・秋元康の記す歌詞の、その詩的責任を肩代わりするような、神秘と形容するほかない幻想への没入だろうか。

志田愛佳、平成10年生、欅坂46の第一期生。
いわゆる”アウトロー”であり、なにものにも強制されない、言葉の最良の意味で個性的なアイドル。他人の憶測の及ばない不敵な笑みをもっている。唯一、平手友梨奈に比肩するライブ表現力の持ち主であり、今日、アイドルファンの多くがイメージする欅坂46のイメージとは、彼女が作り出した世界観にほかならない。ただ、このひとには、アイドルとしてやり残した物語、というのが少なからずあるようにおもう。文句なしの逸材であったが、その迫力が大きすぎたのか、あるいは才能を持て余したのか、アイドルの物語に名残がある。
中西アルノにもし志田のような不敵さがそなわっているのならば、それはやがて乃木坂46を代表するイメージとなることだろうし、アイドル・志田愛佳がやり残したこと、やろうとしたけれど、できなかったこと、の実現への大きな、そして身勝手な期待がかかる。

今泉佑唯、平成10年生、欅坂46の第一期生。
絶対的な主人公として描かれた平手友梨奈のアンチテーゼであり、そうしたフィクションによったアイドルのストーリー展開から衝動的に脱しようとするエモーショナルなひとであり、プリティであり傷つきやすい、という触れることに躊躇するけれど、しかし触れてみたいと想わせる、不思議なアイドルを描いた。
中西アルノの、その鼻歌を口ずさむ横顔に見出す主人公感とは、想うにそれは井上和や冨里奈央のような王道のものではなく、今泉佑唯のような、なにかの反動として姿を現すもののようにうかがえる。であれば、やはり彼女はグループにおけるキーキャラクターになるのだろう。

横山由依、平成4年生、AKB48の第九期生であり、AKBグループの二代目総監督。
グループの次世代を担う存在として集められたのが9期であり、横山はその9期の中で最も強い輿望を担ったメンバーである。今日ではその期待は見る影もないが、デビュー当時は、前田敦子を継ぐ、次なる主人公として大々的に描き出された。しかし実際には、前田を継いだのは同期の島崎遥香であり、横山は高橋みなみの後を継ぎ、総監督として、グループアイドルの物語の大部分を費やすことになった。現在の中西アルノにも、デビュー当時の横山由依と似た、香気が漂っている。

勘違いしてはならないが、平手友梨奈の俯き、志田愛佳の微笑、今泉佑唯のアンタッチャブル、横山由依的香気を具えるというそのシチュエーション、つまり作詞家・秋元康の編み上げた『他人のそら似』というストーリーにもっとも期待する効力とは、過去の物語の続編の誕生や、過去のアイドルの物語の追体験などではなく、新しい「君」を過去の「君」と比較し、過去の「君」を強く想うからこそ今の「君」がほかの誰でもないただ一人の「君」だという確信が生まれる点にある。
言うなれば、この、「君」が「君」でしかないという発見は、つまり『他人のそら似』という物語は、過去に鎖された「僕」を現在に在らせ、未来ある方に強く向き直させる魔力なのだ。その魔力をグループアイドルへと落とし込み換言すれば、アイドルグループという共同体を延伸させるもっとも有効な方法として「他人のそら似」が求められるのである。


2022/02/21 楠木