山下美月「センター」を検証する

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「動機として、46時間テレビをふり返る」

「どうもこんにちは。あやめちゃん、こんにちは」
これは、先日配信された乃木坂46時間TV「はなれてたって、ぼくらはいっしょ!」内のコーナー、乃木坂電視台/筒井あやめ「珠玉のASMRタイム!」にゲスト出演した第四期生の北川悠理が番組の冒頭に発した挨拶。これ、なんだかよくわからないけれど、おもしろい。もし、今回の46時間TVでもっとも印象に残ったシーンは?と問われたら、私は迷わずこの「あやめちゃん、こんにちは」を挙げるだろう。このセリフには、アイドルが持つ世界観とかアイドルの関係性とかそういうものが凝縮されていて、しかもその閉じられた世界の扉が開放されて未知なる空間へ一瞬でひき込まれるような、格別なユーモアの気配を感じるからだ。
北川悠理というアイドルは、これまでにも様々な媒体で想像力あふれる言葉を記し、周囲に驚きをあたえている。しかし今回の「あやめちゃん、こんにちは」がそれにも増してかがやき、特別におもしろいとおもうのは、それが想像力に支えられたものではなく、感情から生まれ日常の所作として現れたものだと感じるからだろう。北川悠理の「人となり」を触った、とおもわず確信してしまうのだ。

今回の46時間TVを眺めていて残念におもったのは、出演するアイドルの多くが、ウィットに対し、きわめて意識的になってしまっている、という点だろうか。皆一様にして、まるでニュース番組のコメンテーターを真似るみたいに、VTRが流れたあと、ウィットに富んだ科白を並べようと奔走している。しかし緊張の所為なのか、笑顔が硬直し、ぎこちがない、ありきたりでつまらないコメントがほとんどだった。ウィットと呼ばれるもの、これはもう持って生まれた才能に左右される資質だ。努力でどうにかなるものではない。そこに向けてアイドルが四苦八苦する姿は、どこかコンテンツの魅力を損なっているような気がした。
一方で、ユーモア、これならばどんなアイドルにも提示できるはず。たとえば、アイドルの面白さのひとつに日常の提示があるのはまず間違いない。自分の生活のなかであたりまえになっている日常の所作、しかしそれは往々にして「世間のあたりまえ」からズレた慣習である場合がほとんどだ。よって、日常の所作を臆することなくファンに提示できれば、その”ひみつごと”のようなものがユーモアへと変換されるのではないか。そのような意味では”曝け出せばいい”と歌う『Isee…』、46時間TVに初出演した4期生、このタイミングの良さからも、「アイドル」を作る行為への説明書きが作詞家・秋元康から贈られている、と読めるかもしれない。北川悠里からユーモアを受け取り、魅力的なアイドルだと感じるのは、彼女がデビューから一貫して、自身の日常の所作をファンのまえに曝け出すことに成功しているからだ。

この北川悠理のユーモアには、アイドル・生田絵梨花に通底するものがある、とひらめくのは、きっと私だけではないだろう。北川悠理のユーモアが無垢なものに支えられているのに対し、生田絵梨花のユーモアはピュアを喪失したさきにある成熟を寄す処にしているという径庭はあるものの、常に”あるがまま”の姿をファンに提示するアイドルこそ生田絵梨花の醍醐味であり、彼女が標榜する”レット・イット・ビー”を北川悠理も持っている、とつよく感じる。後継者、などと呼んだらこれはやや大仰な表現になってしまうが、生田絵梨花を継ぐ者のひとりに「北川悠理」が銘記できるのではないか。
ただし、ここで注意しなければならないのは、グループアイドルの場合、「後継」と「系譜」には隔たりがある、という点だ。「後継」とは期待感のもとに指名される、あるいは、自らすすんで名乗りを上げる行為であり、「系譜」とは、グループアイドルとしての血の繋がりを見出すこと、つまり本人の意志を超越した場所で決定されるものごとである。どちらもグループアイドルの連なりを読む上で深い感興を引きずり出す話題だ。
生田絵梨花の後継者として第一候補に挙がるのは、(上述した北川悠理もおもしろい存在だが)現時点では、これまでに描かれ記録された交流から、やはり第三期生の久保史緒里になるはず。では、系譜の観点で生田を眺めるとき、そこにはまず前田敦子という強い主人公が想起される。つまり前田の系譜に連なるアイドルの一人としての「生田絵梨花」をして、その系譜図を引くならば、「生田絵梨花」の直下に名が記されるのは一体だれになるのか、それは久保史緒里の同期である「山下美月」になるのではないか、と想像する。
久保史緒里と山下美月の関係性に、豊穣の兆し、つまり前田敦子-大島優子、松井珠理奈-松井玲奈、白石麻衣-西野七瀬のようなグループアイドル特有の稚気をみるのは、生田絵梨花に対する「後継」と「系譜」の対峙があるからだ。今回は、この生田絵梨花の系譜に連なるであろう山下美月に焦点をあて、彼女の「センター」への可能性を探る(ここで言う可能性とは、センターになれるかどうか、という意味ではない)。

「もし山下美月が『夜明けまで強がらなくてもいい』のセンターだったら」

『夜明けまで強がらなくてもいい』の歌詞を読んでまず気づくのは、未来ではなく現在と過去のあいだにグループのこれまでの集大成を差し込み、結末への欠落を埋めている、という点だ。その物語を、未来=ひかりである第四期生の遠藤さくらを主人公に置いて歌わせたのだから、文句なしに映る。この文句なしの正史があるからこそ、もし山下美月が『夜明けまで強がらなくてもいい』のセンターだったら、という偽史を作る行為に意味が出てくるのだ。偽史を愉しむ、これは、自分が応援するアイドルがセンターになるべきだとか、どうすればセンターになれるのか、といった方法論のようなものを探るのではなく、山下美月が『夜明けまで強がらなくてもいい』の中央で踊る光景から、つまり偽ものの歴史から相対化され映し出される、グループが獲得したものと失ったもの、あるいは獲得できたかもしれなかったもの、結果的に失うことになったものを問う行為、と云えるだろう。 

遠藤さくらをセンターポジションに置くことで獲得したもの、それが4期生の「ガイドブック」や「第一期生的群像劇の再来」だとするのならば、失ったもの、それはやはりアイドルの物語性ではないか。
『今、話したい誰かがいる』以降、『夜明けまで強がらなくてもいい』まで、グループの表題曲において、センターポジションで踊るアイドルの物語性が満たされた楽曲として挙げられるのは、卒業ソングである『サヨナラの意味』と『帰り道は遠回りしたくなる』くらいだろうか。たとえば、『帰り道は遠回りしたくなる』は歌詞、ミュージックビデオのなかで西野七瀬の横顔が明確にスケッチされ、『サヨナラの意味』ではミュージックビデオの結末をなぞるように、主人公を演じたアイドルが現実の世界でも姿を消してしまった。一方で、『逃げ水』は、豊穣なドラマがミュージックビデオのなかに描かれているものの、タイトルにならい、あくまでも「グループアイドル」の世界へのガイドが目的であり、当然、あたらしいふたりの主人公の性格はどこにも書かれていない。
こうした観点を持ち『夜明けまで強がらなくてもいい』を眺めた際、とびきりに胸が高鳴るのは、『夜明けまで強がらなくてもいい』がもし山下美月の卒業ソングとして提出されていたら、”夜明け”の解釈が「アイドル」への覚悟ではなく「アイドル」からの脱却となり、それは『サヨナラの意味』『帰り道は遠回りしたくなる』とならび、夢に向かい、通り過ぎていくアイドルの横顔、その輪郭をなぞった楽曲としてのアナザーストーリーが一気に成立するからだ。ようするに、『夜明けまで強がらなくてもいい』に記された詩情が、まるで山下美月にあてたメッセージのように感じられる、ということだ。

あくまでも、アイドル個々が現在有する人気、実力と照らし合わせた際に観測される、ある種の「乖離」から抱く評価になるが、アイドル・山下美月には物語性がない。力強いストーリー展開がない。たとえば、3期生楽曲『自分じゃない感じ』においては、センターポジションを務めたのにもかかわらず、あらためて楽曲を俯瞰した際、そこで注目されるのは山下の笑顔ではなく、伊藤理々杏や佐藤楓の後姿になってしまう。平均的なアイドルと比較すればきわめて強い主人公感を持っているのにもかかわらず、物語性がない。アイドルの動きを眺めることでアイドルの性格がすぐに読み取れる、という場面を山下はもたない。よって、センターポジションから彼女は遠のく。センターポジションが遠ざかれば遠ざかるほど、物語性が薄れていく、といった循環に山下美月は陥っているようにみえる。
これだけの人気と実力を兼ね備えたアイドルが一度も表題曲のセンターポジションに立っていない……、彼女以外で名前が思い当たるのは、AKBグループ、坂道シリーズのアイドルのなかで長濱ねるくらいだろうか。このふたりのアイドルは、グループの描く「歴史線」から急激な乖離を引き起こしているように見える。だがそういった急激な乖離=超常現象とは、どんな場面、どんな社会状況であっても、最終的には「平均線」へと収束して行くものなのだ。優れた投機家のように確率的思考のもと判断すれば、山下美月は常に表題曲のセンターポジションの第一候補にある、と考えるのが妥当だろう。
この彼女の可能性、つまり「センター」としての横顔がすでに『夜明けまで強がらなくてもいい』で描かれているように感じる、このような、ある種の主人公の”すり替え”は、グループアイドルの物語を読むにあたり興味深い出来事と云えるのではないか。

「当たり前のようにできたことが」

学生時代、私の通っていた学び舎では、体育の授業でバドミントンを扱うことが多かった。サッカーやバスケットボールではなく、なぜかバドミントンが選択された。私はこの競技が得意で、バドミントンが多く扱われた学期の成績は他の学期よりも教師からの評価が良かったくらい。ところが、ある日突然、飛んでくるシャトルをラケットで打ち返すことができなくなってしまった。昨日までは思い通りの場所に打ち返せたのに、なぜか、どうやってもシャトルがラケットに当たらず、空振りになる…、当時は困惑したもので、”ヒュンッ”とむなしく音をたて空振りする姿、そこから醸し出される滑稽さ、誰にでもできることがなぜかできない、その恥ずかしさに耐えきれず、私は授業を見学するようになった。今、歳を重ね、当時を振り返っておもうのは、あれは私という人間が言語で生きるようになった端境期だったのではないか、という感慨である。言語の発見によって感情を作るのが人間なのだが、言語を獲得する以前の人間にも当然、感情はある。バドミントンのシャトルを苦もなくラケットに当てられた私は、おそらく、言語を獲得する前の感情によって動いていたのではないか。だからなにも考えずにラケットにシャトルを当てられた。しかしある日、言語を獲得した私は、言語によって感情を作り、身体を動かすようになった。その結果、昨日まで”当たり前のようにできたことが”できなくなってしまった。たとえば、「魔女の宅急便」の”キキ”が、ある朝、突然、魔法の力を失った理由もおそらくこのような喪失と成熟にあるのだとおもう。”当たり前のようにできたことが”できなくなる。忘れられたくないと渇望し屈託を抱える山下美月もまた、アイドルを、本来の自分とは違うもうひとりの自分を作り上げようと試みる日々のなかで、アイドルであることは喪失と成熟の喪失部分にあたる、この事実に遭遇したのではないか。その一連の過程が『夜明けまで強がらなくてもいい』のフィクションの内側に描かれているのだ。

「生田絵梨花とのシンクロニシティ」

46時間TVを鑑賞した際に痛感したもの、それは、秋元康の書く詩、その詩的世界に暮らす登場人物にアイドルの姿形を当てはめ、想像する行為と、実際に、現実にアイドルがそれを歌ったときの隔たりの存在だ。
もし『君の名は希望』のセンターが西野七瀬だったら、もし『シンクロニシティ』のセンターが生駒里奈だったら、あるいは『sing out!』のセンターが生田絵梨花だったら、とこれらの想像は容易だけれど、もし生田絵梨花が『帰り道は遠回りしたくなる』のセンターだったら、という想像はこれまでに抱きしめたことがなかった。なぜなら、そこに描かれた詩的世界の主人公は、楽曲が提示された瞬間から疑いの余地なく西野七瀬だったからだ。しかし生田絵梨花が『帰り道は遠回りしたくなる』を演じた際に、”風のように、思うままに生きてみよう”と口ずさんだとき、驚くほど素直に楽曲の物語がアイドルの物語とかさなった。これはほんとうに想像できなかったことであり、なぜこのような奇跡が起きたのか、偶然、彼女のたどってきた物語が作詞家の詩情にかさなっただけなのか、彼女の演劇表現力によるものなのか、とても簡単には判断できそうにないが、もっとも素晴らしいと感じるのは、彼女の姿形が楽曲に書かれた歌詞と響き合うだけではなく、それが彼女から発せられることで次の時代を生きるアイドルへの啓蒙、活力になっていることだろう。

作詞家・秋元康の文学の魅力には、詩情そのものの魅力とアイドルを演じる少女に明確にあてた詩情のふたつがある。特定のアイドルにあてた詩情ではないけれど、それゆえに、楽曲を演じる少女が後天的に作家の詩情に共鳴して行き、アイドルの性格が作られる、といった現象も多く見受けられる。たとえば、『against』や『帰り道は遠回りしたくなる』の歌詞はアイドルへの啓蒙が顕著で、夢に対するあるべき姿勢のようなものを説いている。実際に、『against』提供後、生駒里奈のみならず、同グループに所属するアイドル、たとえば川後陽菜など、卒業の動機をインタビューで語った際、『against』の歌詞を自身の思想のようにしてその思惟を述べている。
生田絵梨花が凄いのは、この秋元康の啓蒙からすでに脱却しているところにある。彼女は、歌詞になりきるのではなく歌詞を来るべきものの側として、迎え撃っている。つまり、秋元康が自身の憧憬を叶えるアイドル=生田絵梨花を描写したのではなく、アイドルを演じる少女の夢に対する道標を歌詞カードに記した結果、そこに広がる遠景は生田絵梨花によってすでに達成されていた物語だった、という事実が立ち現れたのだ。作詞家・秋元康の書いた詩をアイドルが歌うことで、アイドル本人の思弁に塗り替わった、このような光景はAKB48から連なる歴史においてはじめてではないか、と。
この、生田絵梨花のアイドルの作り方、演じ方こそ現代でアイドルを演じる少女がもっとも模倣を試みるべきだと確信する理由は、それがアイドルグループに見出す深い魅力、換言すれば群像に通底しているからだろう。
まず作詞家によって詩的世界が作られる。そこに暮らす登場人物にアイドルがなりきる。さらには、それを少女が”現実に”歌うことでアイドルがこれまでにたどってきた、あるいはこれからたどるであろう物語、予兆が立ち現れる。しかもそれを実行するアイドルはセンターポジションで踊るアイドルではない。センターを務めるアイドルだけなく、その横で踊るアイドルも楽曲と響き合う、これこそまさしく群像の証=乃木坂らしさと呼べるのではないか。生田絵梨花が『帰り道は遠回りしたくなる』で群像の在り処を指し示したのならば、山下美月の場合、それはやはり『夜明けまで強がらなくてもいい』になるはずであり、アイドルが実際に歌を口ずさんだら、というあたらしい妄執を得たとき、山下美月、彼女は、生田絵梨花が『帰り道は遠回りしたくなる』に書かれた詩情へ向けて描いた奇跡に限りなく近い達成、アイドルの楽曲への引用を遂げている、この事実が明らかになるのだ。
休養からの復帰を伝えるVTRを端に、『夜明けまで強がらなくてもいい』のミュージックビデオで描いた姿形(一度、大切な場所から去る決意をした人間が、しかし大事な忘れ物に気づいて、あるいはやりのこしたなにか、諦めかけたなにかを取り戻そうと振り返り、走り出す光景)によって決定的になったのが、山下美月は暗示に満ちたアイドルだ、という発見である。暗示の手触りは、これまでに物語性の欠如したアイドルを露呈してきた彼女が、『夜明けまで強がらなくてもいい』のミュージックビデオにおいては、唯一明確なストーリーを生んでいる、この事実をたしかに教えてくれる。楽曲の主人公ではないのにもかかわらず、『夜明けまで強がらなくてもいい』に融和したアイドルに与田祐希の名も挙げられるが、楽曲を通過することによって、一度崩れ落ちるも、孤閨を握りしめ、アイドルシーンを生き抜こうと立ち上がる彼女に対し、山下美月が投げつける感興は、もし山下美月が『夜明けまで強がらなくてもいい』を実際に口ずさんだら、不吉な胎動が結実するかもしれない、彼女が振り返って走り出したさきは「アイドル」ではなく別のなにかが待つ場所、つまり次の夢の世界かもしれない、という作詞家の詩情を迎え撃つ光景であり、それが生田絵梨花のアイドルの作り方と通い合い、シンクロニシティを描き出すのだ。
このような観点からも、けして姿形の類似だけではなく、山下美月は前田敦子~生田絵梨花の系譜に与し、生田絵梨花と同様、常に「センター」を待望されるアイドルのひとりと呼べるのではないか。

もちろん、見過ごしてはならない点もある。それは、もし『夜明けまで強がらなくてもいい』において山下美月センターが正史であった場合、『夜明けまで強がらなくてもいい』に書かれた屈託との響き合いは生まれなかったかもしれない、というある種のパラドクスの存在。『夜明けまで強がらなくてもいい』でセンターに立たなかった、この境遇があったからこそ、彼女は、センターに立ったアイドルではないのにもかかわらず楽曲とつよく響き合った、といった話題が、批評=フィクションが作れる。この前提があってはじめて、もし山下美月が『夜明けまで強がらなくてもいい』のセンターだったらという「if」になんらかのひかりを見出し、彼女が”忘れられない人”になるのだ。

2020/07/01 楠木

 

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