乃木坂46 伊藤純奈 評判記

「モーメント・アイドル」
伊藤純奈、平成10年生、乃木坂46の第二期生。
モーメントなアイドル。その姿形に根付く雄々しさ荒々しさの働きかけなのか、生来の弱さ、傷つきやすさを見落とされがちだが、複数の「演劇」通過によって日常の立ち居振る舞いに刹那的な憂いとも言うべき儚さが表出するようになり、独特で深みのある、高貴な美を提示するアイドルへと成長した。
メジャー・アイドルが立ち並ぶ乃木坂46においては、アンダーグラウンド感にあふれる貴重な存在である。近年のアイドルの中でならば、AKB48の秋元才加と同タイプのイメージを持つ登場人物と呼べるだろうか。つまり、ある種の可憐さを欠如することがアイドルとしての明暗を分けた理由なのだが、アイドルの歴史を遡り、宝塚少女歌劇まで時代を戻すのならば、あるいは彼女たちのレゾン・デートルは満たされるかもしれない。まず舞台=演劇があって、そのなかでアイドルが形づくられる、という古典への憧憬に彼女たちは通じている。
もちろん、宝塚的などという古典への憧憬に照らした評価など、今日のアイドルシーンにおいてはなんら価値を持たないはずだが。しかしアイドルのことをグループアイドルに包括する今日の固定概念の、その崩壊を予感しつつある現在のシーンにあって、生駒里奈卒業後、その中心軸から放たれた乃木坂46のアイドルたちのなかで、目まぐるしく変わる環境・境遇の変化に振り廻されずに、最初に「個」として屹立するのは大園桃子とこの伊藤純奈になるのではないか、という予想の根拠、裏付けにはなるだろう。
ゆえに、乃木坂46・第二期生のなかで、強い主人公感を投げかけるメンバーの一人としてこの伊藤純奈の名が挙げられるのだが、そうした存在感が順位闘争の場において活かされ、アイドルを大きく飛翔させているのか、と問うならば、まったくそんなことはないようだ。乃木坂の門をくぐり、すでに5年以上経過するが、未だ、表題作の歌唱メンバーに選抜された経験を持たない。さらに言えば、アンダー楽曲において、センターポジションに選ばれた経験もなく、作り手にとっての、ゾルレン、から外れている。
この人には、先天的な資質、というよりも、舞台に立つことで培われたイメージとしての、アイドル的香気、魅力がある。しかもそれは、演技の上手い下手によって醸し出される雰囲気などではなく、演じることを生きがいにする人間特有の迫力、である。けれどそれがグループアイドルとしての魅力に還元されているのかと言えば、そうでもないようで、アイドルとして、たとえば、ライブステージの上で際立つもの、目を引くもの、強いもの、を一切持たない。たしかに踊りは上手いが、上手いだけ、といった感想から抜け出ない。
それは、なぜだろうか。
それはおそらく、アイドルの立ち居振る舞いのなかに、アイドルの日常が不在するから、ではないか。そうした瑕疵は、彼女の売り、得意とする演技の内に、よく現れてもいる。
表現力、ではなく、演技力を問うならば、評判通り、並ではないものがある。やはり迫力があるし、勘もいい。グループアイドルとしてトップクラスの演技力を誇る、といった同業者評にも、疑問を挟む余地はない。しかし表現力を読むとなると、話は変わる。
役者である前にアイドルである、という前提のもとに、いや、前提を崩せずに、舞台に立つことの弊害なのだろうか、アイドルのアイデンティティを舞台という狭い仮構の中で成立させてしまったがゆえの、宿命なのだろうか。この人は、本に書かれた、架空の登場人物との会話、に慣れすぎてしまったきらいがある。
舞台の上で呼吸をはじめる伊藤純奈は、他者と交錯する際に、”戸惑い”の一切を内在しない。日常生活において、自分の表情や言葉が思ったとおりに伝わらなかったときの、あの戸惑いのようなものの一切が、舞台の上に立った彼女の内からは抜け落ちてしまっている、かに見える。
たとえば、この人は、誤解されやすい人物、だと思うのだが、そうした個人的体験の堆積つまり日常の機微が、役の内に宿っていない。人は、他者との交流において、想像の範疇外から飛んでくる言葉に常に戸惑うものである。また、それが飛んでくるかもしれないという不安、緊張感の要求にも、我々は戸惑う。しかし伊藤純奈が演じ、作り上げる人物は、他者との会話で戸惑いを一切表明しない。彼女の演じる「役」は、どのような表情を描き出そうとも、常に自信に満ち溢れていて、予め決められた場所にしか移動をしないし、予め決められた場面でしか叫ばない、そんな登場人物に映る。
自分がこの先どうなるか、答えを知っているから、ある種”死”への恐怖を持たない、そんな人物像、と云うべきだろうか。それは裏を返せば、舞台の作り手、劇作家の想像力、筆力の乏しさを証明する行動にもなっている。脚本つまり他者の言葉に触れる、自分ではない何者かを演じることで現実生活の経験を積んでいく、つまり自己を育てていく、のではなく、あくまでも現実認識のなかで脚本を、他者の言葉を自己の内に落とし込もうとしているにすぎないその演技は、原稿用紙の上を、多種多様な、登場人物のそれぞれが、それぞれの視点を持つことで社会が作られていくという、小説、演劇のもっとも強い魅力を裏切ることの、証明であり、つまり演者の、グループアイドルの、伊藤純奈の、その内奥の魅力の乏しさの露呈にほかならない。
アイドルファンは、そうした乏しさを、けして看過しない。
この観点においても伊藤純奈は秋元才加とつよく響き合っている。日常の不在を強く感じさせるタイプの舞台役者、として。彼女たちの立ち居振る舞いは、たとえば、「三条会」の、関美能留の、舞台装置の上で三島由紀夫や安部公房の文体を砕いてしまうイノセンス、言語=日常への美意識の欠如とかさなる。傷を表現することは容易いが、擦過を表現することはむずかしい。日常を自壊させることこそが演技の本質である、という錯覚を捨て、自身の日常を切り取り、舞台上に投げ捨てる。そのような行為=演技が、命題として、今後、彼女の前に立ちはだかるのではないか、と予想する。
総合評価 57点
問題なくアイドルと呼べる人物
(評価内訳)
ビジュアル 13点 ライブ表現 13点
演劇表現 15点 バラエティ 8点
情動感染 8点
乃木坂46 活動期間 2013年~2021年
関連記事