須藤凜々花 × 大江健三郎

NMB48, 特集

須藤凜々花 (C) モデルプレス

「宙返り」

いま全国に散っている教団の急進派に告げる、原発占拠の作戦を放棄せよ。自分らは人類の救い主でもなければ預言者でもない。これまで説いてきた教義は、まるっきり冗談だった。自分らは教団を放棄する。これまでいったりしたりしてきたことは、単なる悪ふざけであった。それをわれわれが告白したのである以上、いまただちに信じ続けることを止めよ。とくに急進派の諸君は、われわれの教団が、冗談の上に築かれた砂の城であることに気付いてもらいたい。自分らは人類の救い主を演じ、世界の終わりへの預言者を演じることを楽しんで、壮大な言葉やら厳粛な振る舞いやらを撒きちらした。おかげで存分楽しめたし、二年前には宗教法人となって、冗談の空騒ぎには潤沢な資金があたえられた。しかし、もうこのあたりでおしまいにする。あれらはすべて冗談だったのだ。テレヴィに映る私を見よ。いったいどうして、この私が人類の救い主たりうるか?…
テレヴィが全国中継したこのパフォーマンスで、…Somersault’つまり「宙返り」が宣伝された。

大江健三郎 / 宙返り

須藤凜々花の転向が自己保身と自己破壊の背反した隘路的な衝動を孕む点は、小説家からの引退宣言を翻して書かれた『大江健三郎 / 宙返り』の”師匠(パトロン)”の転向と響き合うが、決定的に異なるのは、やはりそこに転向からの再生というテーマを須藤が持たない点だろう。「生きる事には生きる以外の目的はない」と、「教えられない事を教えようとした」ニーチェを「教師」に迎える彼女の衝動の大部分を占めるのは、「七日しか生きない蝶」みたいに、ライブ舞台装置の上から観客の渦にダイブして揉み合いになり、前歯が欠け、鼻と口から赤黒い血を垂れ流しながらステージで唄いつづける、自傷行為でしか自身の存在理由を満たすことができなくなったロックボーカリストのような情動である。バラエティの分野において、もし、須藤凜々花に指原莉乃を凌ぐ得物があるとすれば、それはファンに批評空間への扉を開かせる、他者を衝き動かす、この情動にほかならないだろう。*1
須藤凜々花の顛末は、アイドルを演じる少女たちのすべてにおとずれ得る、起こり得る物語だが、同時に、全国中継するテレビカメラに向かって「宙返り(アイドルの自死)」を宣言してしまう衝動をそなえたアイドルに、須藤凜々花以外の名を挙げることはむずかしい。
やろうとおもえばやれる、やろうとさえおもえばやれる、だけどやらない。本当にそうだろうか、本当はやろうとおもってもできない、のではないか。この衝動はテロルと緊密に絡みつく精神であり、脅威に対する威嚇行為の貫通こそ、須藤凜々花というアイドルのアイデンティティと云えるだろう。『大江健三郎 / 宙返り』において、原発占拠や集団自殺への緻密な計画を練り上げたが、結局、それを遂行する、一線を越える状況下に到達しなかった「急進派」や「静かな女たち」といった小説の登場人物たちを嘲笑うように、須藤凜々花は一線を越えてしまうのだ。
一方で、須藤凜々花の”結婚宣言”とは、どのような思惑の淵叢(えんそう)を歩き、転向に導かれたのか、これまでに数多く「情け容赦のない」厳しい議論の繰り返しが展開されたものの、その転向の真の意味、「宙返り」の宣伝の残響で一体何がもたらされたのか、という話題はすくない。*2

須藤凜々花の転向によって護られたものとは、外でもない、須藤凜々花の虚構=アイドルの家郷、アイドルの面影、つまりアイドルの書く物語である。そして、彼女の物語に没入していたファンもまた、かろうじて救われたのだ。『大江健三郎 / 宙返り』において、「宙返り」の宣伝後、救い主が地獄へ降りた後も教団そのものは存続したように、須藤凜々花の虚構も「宙返り」を経てもなお同じ場所に漂いつづけるのである。他者による破壊活動が直撃していたら、おそらく、瓦解していた。「アイドル・須藤凜々花」を演じる須藤凜々花はもちろん自壊を遂げたのだけれど、それと引き換えに、彼女のアイドルとしての面影、アイドルが暮す架空の世界はぎりぎりのところで消滅を免れたのである。
卒業後に彼女が自身のアイドル時代を全否定する行為によって、彼女のアイドルとしての物語はより匿われることになる。ファンは、カメラの前で吐き出される彼女の科白に反発することで、消滅を免れたフィクションの中で呼吸する”本物の”アイドルを匿い、思い出を護る実感が持てる…。同じ転向でありながら、向田茉夏や橋本奈々未が描いた物語と須藤凜々花の「宙返り」がまったく異なるのは、書き残されたフィクションの中にアイドルが現在も暮らしているのかどうか、という問いに尽きる。向田や橋本の作った虚構(ウソ)の特徴とは、アイドルが残した物語、架空の世界へ再訪問する読者の圧倒的な数にあり、ファンは”彼女”との思い出を寄す処にして、まるでシエスタをするように、ノスタルジーのボートに今日なお絶えず揺られている。肝心なのは、その心地の良い空間に、自分たちが愛したアイドルの姿は決して”見えない”点にある。ファンはアイドルとの再会を許可されていない。彼らはアイドルの姿を、永遠に色褪せない彼女の後姿をまぶたの裏に描くことしかできない。
では、須藤凜々花の場合はどうであろうか、須藤凜々花が作り上げた
虚構の中には、須藤凜々花の「宙返り」に置き去りにされたアイドルが今もなお新鮮な生活をおくっており、同じように、彼女の物語に没入したままある日突然見捨てられたファンは、須藤凜々花の残したフィクション、作家だけが消えた架空の世界の中でアイドルと再会を果たすのだ。「宙返り」が宣伝されたことで、アイドルを演じる須藤凜々花と、その生来のフィクションへの強い意識、嘘を付く行為によって作られた、本来は現実世界の須藤凜々花の素顔(真実)へと到達させるための架け橋として機能するはずであった、もうひとりの須藤凜々花が完全に分離してしまった事実は救いようのない皮肉に映るが、ファンは、虚構の中にポツンと置き去りにされたアイドルと、須藤凜々花が描くはずであった物語を共有し、その成長を見守っているのだ。だからこそ、現実世界で愚弄の限りを尽くし、まるでアイドル界のすべてを熟知した、すべてを目撃した同時代人であるかのように、イノセントに立ち居振る舞う、自家撞着を描き続ける須藤凜々花を、日常の幸福を脅かす使者と扱わねばならなかった。しかし、上述した通り、ファンが甘い妄執を抱きしめて深い眠りに就けるのは、こちら側の須藤凜々花の裏切りを視認し、激しい情慾に落ち込んだひとりの女への怒りを自覚することが可能だからである。彼らは、平成が終わり、令和が始まった現在も、架空の世界に暮す、「須藤凜々花」と成長共有というコンテンツを築き上げている。もちろん、そのアイドルの”見かけ”はまったく別の、あたらしいアイドルにすり替わっているかもしれない。この奇妙な成長共有を、オブセッションに衝き動かされる人間が築く砂の城を、須藤凜々花の転向によってもたらされた唯一の果実と呼べるかもしれない。

「須藤凜々花は”坂道”の脅威になり得たか」

まばゆい光が身体をつき刺し、ボロボロになりながら、しかし前に向き直り、舞台装置の上で自身が演じて来たアイドルに別れを告げる。須藤凜々花の自壊を、ステージの中央にマイクを置いて立ち去る渡辺麻友のような古典的パフォーマンスと本質的に変わらない、同等の仕草と扱うことは許されるだろうか。許されるかもしれない。しかし両者のあいだに覗く、明喩と暗喩の対峙が作る深淵、大きな隔たりの存在は看過が許されない。須藤凜々花の宙返りは衝動が作る明確な企みであり、渡辺麻友のパフォーマンスにはアイドルのきらびやかさを提示すると同時に、アイドルを演じる人間の憂鬱や深刻さがあり、まさしくメタファーと呼ぶべき動作と云える。「ただ花を花として書けば、花が立ち現れるという安易な意識からは、やはり本質的な文学など現れはしない」。乱暴に云ってしまえば、須藤凜々花というアイドルには奥ゆかしさや「秘すれば花」といったトレンドを無視する優雅が内在しない。そのような観点で須藤凜々花を眺めると(恋愛スキャンダルや処女性の有無を考慮せずとも)、彼女を清楚や純潔をそなえたアイドルと描写するのは過褒に思える。つまり、もし、あの日、宙返りが為されなかったら、須藤凜々花は、王道(清楚)を鷲づかみにし表通りを闊歩するトップアイドルに匹敵するアイドルと成り、燦然たる輝きを放っていたはずだ、というアナザーストーリーを積み上げることはきわめて困難な作業と云えるだろう。*3

もちろん、清楚を鷲づかみにして掲げるのに本物の清楚である必要はない。日常を演じる少女たちにつよく求められるのは、観客が堆く積み重ねた”幻想”になりきる姿勢なのだから。我々の日常には、保存しておきたいと願ってやまない、輝かしい”とき”がある。しかし、ほとんどの場合、その奇跡との遭遇を保存することは叶わない。思い出の引き出しに投げ入れたまま、忘れ去ってしまうのが常だ。トップアイドルには、この日常の保存がある。トップアイドルと呼ばれる彼女たちも、青春の犠牲を抱きしめ、日常を演じる少女のひとりにかわりないが、しかし、彼女たちは、本来の日常をフィクションの中で再現する遊戯的な性向を、自身の書く物語のなかにちりばめる”隙き”を把持する。忘れたくない光り、思い出したくもない稚気、そのすべてが虚構の底に降り積もっている。それを日常の写実と名付けるとき、須藤凜々花というアイドルには日常の写実が決定的に欠如していた、と思う。「宙返り」以後、ある意味では素顔の露出と表現できる自家撞着をあらゆるシーンで溢したものの、アイドルを演じていた頃の彼女の立ち居振る舞いには、”隙き”がまったくなかったように映る。彼女のペダンティックな立ち居振る舞いを前に、仮装された正論の前に、ファンだけでなく仲間やライバルたちも、ただ黙り込むほかなかったようにみえる。周囲に動揺を与えるほどの隙き=脇の甘さ(本来の日常の素顔)を垣間見せ、作り手に、ファンに”自分だけが彼女のことを理解している”という錯覚(幻想)を握らせる。そして、その幻想になりきってみる。この日常の写実をアイデンティティにした人物に、現代アイドルの中でもっとも多くのアイドルファンを虜にした西野七瀬の名が挙げられるだろう。また、”アイドルとして”どのような顛末、裏切りを描こうとも、それが不条理に損なわれる展開をまったく想像できない、おそろしく透明な純潔をそなえた佐々木琴子が須藤凜々花と同じ2013年にグループアイドルの通史のなかに登場しており、批評の提供という意味でならば、作り手を虜にする豊穣な批評空間の原動力として平手友梨奈が段違いの存在理由を示している。彼女たちは、須藤凜々花が描く”はずだった”物語の構成要素を先回りし迎え撃っている。

彼女たちには、自身が虜にした男たちの抱きしめる妄執や身勝手な嫉妬に対する無頓着、退屈があり、さらには、”彼ら”の情熱が遂に破滅を迎え身を滅ぼしたとき、そこに立ち現れる罪への意識を持たない奔放がそなわっている。須藤凜々花は、この日常を演じる行為を生業にしてしまった女たちの持つ、不気味な資質にタッチすることができなかった。彼女は罪の意識に苛まれたからこそ、自分の身を守るために、生きるために、揺るがないしあわせを手に入れるために、アイドルの物語に幕を閉じたあとも、事実をねじ曲げ、自身を歪める嘘を吐きつづけるしかなかったのである。現代アイドル史の病弊と緊密に絡みついた問題を提示したアイドルでありながら、逼迫性に乏しい偶像に終始した理由は、彼女にとって、アイドルを演じることは生きることを勝らないからである。彼女にとって、アイドルとして過ごした時間は、青春の犠牲などではなく、青春のヒトコマに過ぎない。後世、平成のグループアイドルをふり返る際に、NMB48の須藤凜々花が前田敦子、渡辺麻友、西野七瀬、白石麻衣、平手友梨奈と同一のページに名を連ねることはないだろう。須藤凜々花の横に並ぶ名前とは、指原莉乃や中井りかになるのではないか。それはやはり、彼女の演じたアイドルが文学的な響きを内在しているのにもかかわらず、グループアイドル史を転換させる劇薬的役割ではなく、グループアイドル史を延伸するためのエンターテインメント的な特効薬として使い捨てられてしまったからだろう。

スキャンダルが報道されると通告を受けた時、彼女はアイドルの死を覚悟し、死ぬことの恐怖、つまり仮死などではなく、死を想像することへの孤独の寒さを経験したはずだ。もし、『大江健三郎 / 宙返り』の”師匠(パトロン)”のように、須藤凜々花も「死んだ人間として生き」ることを選択したのならば、自己批判、自己省察の果てにある「再生」が人生の避けられないテーマになるのではないか。そして、そのような生き方こそ、まさしく哲学者と呼べる真の姿勢と云えるが、もちろん、それはアイドル批評の枠組みの外に置かれた話題である。*4


2019/11/29  楠木

引用:*1福田和也 / 現代人は救われ得るか「D.H.ロレンス文学論集 羽矢謙一訳」
*3*4 大江健三郎 / 宙返り

*4福田和也 / 作家の値うち

 

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