NGT48 角ゆりあ 評判記

「ダンス・ダンス・ダンス」
角ゆりあ、平成12年生、NGT48の第一期生であり、2代目キャプテン。
成長を遂げたアイドル、あるいは素顔の提示に成功したアイドルを眺め、むしろそこにもどかしさを感じてしまうときがある。その倒錯の内で発光する名残こそ、少女に無垢なものを投影するアイドルファンの未熟さの徴であり、角ゆりあは、それを証すひとつの鏡と云える。
この先彼女がどうなっていくのか、僕には予想がつかなかった。…たぶんそれがどういう分野であれ、彼女の持っている力の方向性に合ってさえいれば、彼女は他人に認められるだけの仕事をするだろう、と僕は思った。根拠はない。でもそういう気がした。…彼女の中には力があり、オーラがあり、才能がある。人並み外れたものがある。…あるいは彼女は十八か十九になるまでにはごく普通の女の子に変わっているかもしれない。そういう例を僕は幾つか見ている。十三か十四の透き通るように美しく鋭い少女が、思春期の階段を上るにつれてすこしずつその輝きを失っていく。手を触れただけで切れてしまいそうな鋭さが鈍化していく。そして「綺麗ではあるけれど、それほど印象的ともいえない」娘になる。でも本人はそれはそれで幸せそうに見える。
…奇妙なことには人間にはそれぞれピークというものがある。そこを登ってしまえば、あとは下りるしかない。それはどうしようもないことなのだ。そしてそのピークが何処にあるのかは誰にもわからない。まだ大丈夫だろうと思っている、そして突然その分水嶺がやってくる。…あるものは十二歳でピークに達する。そしてあとはあまりぱっとしない人生を送ることになる。あるものは死ぬまで上り続ける。あるものはピークで死ぬ。多くの詩人や作曲家は疾風のように生きて、あまりにも急激に上りつめたが故に三十に達することなく死んだ。パブロ・ピカソは八十を過ぎても力強い絵を描き続け、そのまま安らかに死んだ。こればかりは終わってみなくてはわからないのだ。
ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹
成長を望むも、どこか心のうちで、このままでいてほしい、と願っている。輝かしい将来を約束する資質=可能性の一つひとつが、可能性のまま保存されていく少女の横顔こそ、もっとも儚く、うつくしい。つまりはアイドルの覚醒に興奮する、ではなく、アイドルの覚醒を待ちわびる、という情況そのものがアイドルを”推す”ことの原動力あるいは目的になってしまった。そのような妄執の的になったアイドルの代表格に乃木坂46の佐々木琴子が挙げられ、角ゆりあは、その系譜に与する。
角ゆりあの魅力とは、佐々木琴子同様、まずやはり、素朴で澄んだ、透徹したビジュアルにあるだろう。純潔したアルカイックスマイルを描く佐々木に対し、角の場合、多部未華子を彷彿とさせる、とげとげした精気を放つ瞳をもっており、やはり深く希求される。これはちょっと、ありふれた人ではないな、と印象づける。
佐々木琴子との共通点をさらに探るならば、ファンの思惑通りにはけして動かない、激しいいらだちを響かせる生硬さ、と云えるだろうか。ファンの声量や作り手の意思によってアイドルの運命が決定されるシーンにあって、佐々木や角は、かれら彼女らの思い通りには踊らないし、笑わない。また、これは冗長な比較だが、両者は、アニメ・漫画に没入する人間特有の、フィクションへの憧憬の持ち方にも類似するところがある。
しかし、アイドルとしてのうつくしさの「ピーク」が一体どこにあるのか、どこにあったのか、とらえきれぬまま卒業してしまった佐々木とはべつに、角ゆりあは、アイドルでありながら、すでにその生来の儚さや「鋭さ」に「鈍化」があらわれ、生硬が砕けてしまったようにみえる。「綺麗ではあるけれど、それほど印象的ともいえない」アイドルになってしまったように感じる。デビュー当時に描いた透徹したビジュアルが遠い記憶となりつつある。
成長物語とはよく言ったものだ。アイドルとは、自己の可能性を探る、きわめて未成熟な存在であり、少女の成長を見守り共有することでファンの内に豊穣な物語が形づくられる……。しかし一方で、見事に成長を遂げた、変身を完成したアイドルを前にして、少女特有の輝きが喪失してしまったことに身勝手にも落胆を隠せないファンも多い。角ゆりあもまた、素朴でうつむきがちなこの少女がどの段階で殻を破るのか、と期待されつつも、しかしいざ成長を遂げると嘆息される、そんなアイドルの一人に映る。
角ゆりあがおもしろいのは、いや頼もしいと感じるのは、その嘆きをむしろアイドルのアドヴァンテージにすり替え、正真正銘のユニークを手に入れる点だろう。角ゆりあというアイドルの成長を、または変化を観察する際、現在の”横顔”との比較対象に選ばれるのは、常にデビュー当時の”横顔”である。考えるまでもないことだが、本来ならば、なにものかの成長や変化をはかるとき、比較対象に選ぶべきは、最も古い過去、ではなく、比較的新しい過去、である。もちろん、なにかの節目であれば、最も古い過去の記憶を呼び出し郷愁に浸ることもあるだろう。しかし、角ゆりあの場合、常にデビュー当時の素朴な少女の横顔と現在が比較される、という悲喜劇、つまりユニークさがある。なぜそのような現象を招いてしまうのか。それはやはりアイドルの扉をひらいたばかりの頃の彼女の姿形があまりにも透徹しており、その過剰な眼差しによって描かれる反動の一部始終が、ファンの脳裏に焼き付いて離れないからだろう。
自分にとって何ら特別に感じない話題でも、周囲の人間はそれで笑っている。そのなにがおもしろいのか、理解できない。つられて笑うべきか、とも考える。でもそれは自分を偽る行為だ、眉をひそめる大衆的なものだ、と自覚し立ち尽くすしかなくなる……。つまり、このようなどこか心の深い部分を刺激する未成熟さ、アイドルを演じる動機の曖昧さから浮び上がる不気味な反動に引き込まれてしまった、という個人的体験がファンの懐にあり、それがアイドルを眺める際の前提になっている。その前提をアイドル自身が容赦なく崩していくおもしろさが原動力となって、”こんな角ゆりあはイヤだ”という遊び場をファンに作らせるのだろう。アイドルを眺めて自分がなにを感じたのか、角ゆりあを眺めたファンは途切れずそれを表明する。しかもそれはファン自身の日常体験と通い合わせたものである場合がほとんどだから、アイドル・角ゆりあとは、やはり自己投影しやすい人物、と云えるのだろう。
「絶望の後で 編」
キャプテンの物語を辿れば、グループのイロも読める。もちろん、角ゆりあも例外ではない。絶望の後でキャプテンに就任した角を眺め、一目瞭然なのは、すでに述べた通り、アイドルの成長、成熟化である。絶望は、アイドルを演じる少女からある種のフィクションへの没入を奪い、少女たちを否応なく大人にしてしまった。
そもそも、角ゆりあのデビュー当時の透徹さ、というのはフィクション(バラエティショー)の内で語られ、教えられたものである。要は、佐々木琴子と角ゆりあを並べそこに見出した岐路とは、フィクションからの剥離、と云える。絶望に直撃したNGT48にとっての、その箱の中でアイドルを演じる少女たちにとっての痛手の一つに、フィクションの世界からの断絶があるのは間違いない。
フィクション=バラエティショー、これは、アイドルを演じる少女の素顔を守るためのケレンであると同時に、しかし否応なく素顔を活写されてしまう装置でもある。喜劇のなかでプロのお笑い芸人と接する緊張感、脅威や驚異、果ては安心感を獲得し、絆を描くといった時間の流れからスケッチされる、自分では納得いかないもの、用意した素顔ではなく不作為の素顔、つまりこれが自分だと思っていたものを裏切るものが表出し、あるいはプロのお笑い芸人のウィットによって抜き出され、ようやくアイドルは物語性なるものを獲得する。NGT48のアイドルはこの装置を壊されてしまった。
アイドル本人が、スマートフォンのカメラに向けてファンに直接語りかけるようなコンテンツにおいては、アイドルが個性を発揮しキャラクターを確立させるのは困難におもえる。正直に云えば、ほとんど、すべて、おなじ顔にしかみえない。スマートフォンのカメラに向けて内情を吐露することよりも、立っているだけで涙があふれ出てくるような緊張のある場所、つまりテレビカメラの前でこそ、他者が描いたシナリオの中でこそ、むきだしにされる素顔がある。NGT48はそのかけがえのないの場所を失ってしまった。
テレビカメラの前で、ダンスを踊らずに直立不動し困ずる……、後ろめたさと共に強烈な一撃を放つ予測できない展開を描いた少女が、今ではスマートフォンのカメラの前で快活に振る舞い、歌を唄い、ダンスを踊る。「十人十色」として呼号する。この、キャプテンになり凛々しさを見せはじめた角ゆりあに心悲しさを感じてしまうのは、成長してしまったことに落胆するからか、いやおそらく喜劇のなかで描かれたフィクションの破綻に動揺し、挙げ句、呆れるからだ。たとえば、テレビドラマの中で不治の病に倒れたヒロインが、次に映し出されるコマーシャル映像の中では元気に走り回りスポーツドリンクを気持ちよく飲んでいるのを目撃した瞬間と似た裏切りがある。
乱暴にたとえるならば、佐々木琴子が乃木坂46のキャプテンに就任するといった事態が、NGT48には起きている。と云えばそれがどれだけ異様な状況なのか、多くのアイドルファンに理解されるはずだ。たしかに、途轍もない成長と変貌にみえる。だがそれはアイデンティティの放擲にほかならない。
総合評価 53点
問題なくアイドルと呼べる人物
(評価内訳)
ビジュアル 8点 ライブ表現 11点
演劇表現 7点 バラエティ 13点
情動感染 14点
NGT48 活動期間 2015年~2022年