櫻坂46(欅坂46) 小池美波 評判記

櫻坂46, 欅坂46

小池美波 (C) 欅坂46公式サイト

「折々の色が四季を作る」

小池美波、平成10年生、櫻坂46(欅坂46)の第一期生。
柔らかく甘やかな笑顔を作る人で、その甘美な日常風景をライブ舞台装置の上で余すことなく表現してくれる、稀有な存在。なおかつ、自身が作り上げるアイドルと作詞家・秋元康の記す詩情との通い合いを徹底的に問いかけてゆく姿も描いており、夢と現を行き交う演劇行為を頼りに乱れもつれる境遇を生き抜こうとする姿勢には、アンダーグラウンドとしての緊張感をたしかに触る。まさしく出色のグループアイドルと云える。

小池美波のビジュアルから想像し、まず手繰り寄せるのは、不安定でヒステリックな女性像だ。もし私生活で出会ったら後込みしてしまう、無縁の立場を選ぶほかない、そんな女性像だ。だが小池美波の場合、不思議と、近づいてみようとおもえるのだ。日常生活においては及び腰になってしまう、いわば非日常的な存在なのに、しかし彼女に対してならば勇気を出して踏み込める。それはきっと、小池美波がグループアイドル特有の身近さを、ファンの眼前へトレーに載せて提出してくれるおかげだろう。
ここで興味深いのは、そもそも、職業アイドル自体が着ぐるみを着たマスコットキャラクターのように非日常的な存在である、という視点における、小池の倒錯である。他のトップアイドルと同様に、アイドル・小池美波=非日常的存在に親近感をいだき、自身の日常とのすりあわせを試みるといった構図がすでにそこに作られている以上、小池美波に触れるとき、そこにはある種のパラドクスが生まれている、と云えるかもしれない。つまり、私生活における非日常的な女性=小池美波がアイドルに成り、その彼女が描く日常に触れることは、アイドルのそなえる非日常性に触れると同時に、私生活における非日常的存在にも触れている、という結果へとつながり循環する。だから、このアイドルには言い様がなく希求される。
この、日常生活の中に落ちている非日常との接触を可能にする小池美波のパラドクスとは、平手友梨奈のアイドルとしての有り様と通底しているようにもみえる。
小池美波への批評(フィクション)を作るには、平手友梨奈との相対から映し出される姿形を眺めることがもっとも有効な手段とおもわれる。

「アンビバレント 編」

世紀末のミュンヘンで作家への道を歩み始めたマンは、ボヘミアン的な、あるいは退廃的な芸術家タイプを目のあたり見て、芸術家の生き方を深刻な問題として考えざるをえなかったにちがいない。彼の血の中には、いわゆる芸術家気質に警告を発するものが流れていた。そしてそれは、父から受け継いだ人生を生真面目に生きようとする市民気質であった。ここに、芸術家気質と市民気質とをどのように融和させるかという問題が生ずる。自分自身の質性の中にひそむ二つの憧れの矛盾に苦しみ、長い遍歴ののちに平凡な人生を愛することによって自己の芸術を高貴ならしめようと決意する青年詩人トーニオ・クレーゲルを描いたこの小説は、作者自身の若き日の自画像であり、また作者自身の青春の危機克服の記念碑でもあった。

高橋義孝 / 人と作品

平手友梨奈という「退廃的な芸術家タイプ」を、青春のすべてを捧げた偶像と扱いつつも、アイドルのジャンルらしさ、つまり笑顔や清楚へ回帰しようともだえる、「二つの憧れの矛盾に苦し」む櫻坂46に所属するアイドルのなかにあって、小池美波はすでにこの「青春の危機」を「克服」しているようにみえる。そもそも、今日では、グループアイドルを演じる行為そのものが「芸術家気質と市民気質とをどのように融和させるかという問題」=アンビバレントであり、平手友梨奈があたらしい作品への表現行為の一切を放棄したエピソードはこの「苦しみ」を端的にあらわしていると云えるだろう。自己犠牲を顧みず「芸術」にのめり込む少女に対し、「市民気質」のためにその思い入れを捨てろ、などといったい誰が言えようか。この「苦しみ」を欅坂46(櫻坂46)に引用するならば、それはステージの上で歌唱と演劇を融和させる、あるいはすり替える試み、となるだろうか。そうした融和の寄す処、象徴に平手友梨奈が屹立し、グループに所属するアイドルの多くが平手友梨奈にどこまで近づけるのか、意識的にしろ、無意識にしろ、その強烈な主人公の輪郭をなぞろうと悪戦苦闘しているわけである。このため、彼女たちがステージの上で作る立ち居振る舞いとは、あくまでも平手友梨奈を前提とした、平手友梨奈の横顔をふり払うことがどうしてもできない踊り、物語になる。そのようなオブセッションの渦中にあって、おそらく、唯一、平手友梨奈とは無縁を貫く、ではなく、平手友梨奈とは隔てられた批評空間に立つのが小池美波である。*1
(小池美波のダンスに魅力があるか否か、これはあらためて問う必要があるものの)小池美波の踊りには、楽曲に付された詩的世界の表現に、たしかにアイドル自身による解釈と浸透があるようにうかがえる。それを端的にあらわすならば、沈黙する集団の内奥から浮かびあがる甘美な笑顔、と描写できるだろうか。バラエティの分野において笑顔をこぼすことは容易だ。しかし、平手友梨奈が作り上げた幻想の世界で主人公とは異なる地平から楽曲を迎え撃とうとするのは、並大抵の決心ではない。小池は、「平凡な」アイドル、要は、アイドルのジャンルらしさを「愛することによって」むしろ平手友梨奈とおなじ「芸術気質」を獲得することに成功しているのだ。だから、平手友梨奈が、描けたけれどあえて描かなかった光景、あるいは、描こうとしたけれど描くことができなかった光景を、小池美波は欠落した季節の匂いを補完するように描きはじめるのだ。
一見すると、小池美波の踊りは、楽曲の映す世界観なるものを裏切っている。強固な絆を結ぶ集団から浮いているようにさえ見える。しかしこれは裏を返せば、平手友梨奈が詩的責任を負うように自己犠牲の末に作り上げた幻想や、大衆が想像する紋切り型の解釈から、小池美波というアイドルが脱却している証である。表現行為、アーティスティック、言葉の最良の意味でこれに到達しているアイドルとして、平手友梨奈、小池美波の2名が挙げられるのではないか。いや、挙げるべきではないか。
憧憬に過ぎないと嘲笑われるかもしれない。もし、作詞家・秋元康が小池美波を写実し、個人的な詩情をあて書きしたのならば、平手友梨奈へあて書きしたと想像させる多くの楽曲群、そこに記された主人公と同等の瑞々しさが、慟哭が生まれるのではないか、とおもう。

「二人セゾン 編」

アイドルの作る踊りを評価する、これは簡単だ。アイドルの動きを眺め、良い、とおもったかどうか、それだけだ。良い、とおもったのならば、たとえ対象のアイドルのダンステクニックが拙いものだとしても、自分の心を揺さぶる原動力となるものがかならずどこかに落ちているはずだから、それを探して拾ってやればいい。
ファンがアイドルの踊りにきらめきを見る、これは往々にして、ファン自身がこれまでに眺めてきたアイドルの日常との響き合いを、アイドルの作る踊りのなかに発見する瞬間である。ダンスが巧いから感動するのではない。いや、もちろん、そのような場面もあるのだろうけれど。アイドルから目が離せなくなる、これは、ステージの上で踊るアイドルからこれまでの物語を再読し、なおかつ、”彼女”の物語の続編がそこで語られるのではないか、期待してしまうからだ。アイドルの踊りを評価するとき、この視点を看過してはならない。なぜなら厳しいダンスレッスンをかさねてテクニックを磨く作業よりも、踊りで自身の日常を再現しようとする試みのほうがはるかに文学的であり、ともすれば芸術的であり、孤独で困難な時間を求められるのだから。自身の物語の終盤に、ステージ上でやる気のない、アイドルとしては不適切な踊り・振る舞いを作った平手友梨奈のことを、まさしくアーティストだ、と称賛する声に対し異議を唱える、これはやはり浅薄な行為なのである。

また、楽曲のセンターポジションに平手友梨奈以外の誰かが立つとき(たとえば、渡邉理佐鈴本美愉小林由依)、彼女たちが、平手友梨奈に内接し、平手友梨奈の残映をとどめようと試みる以上、そこに活写される姿形を退屈なものと感じてしまうのも当然の結実とするほかないだろう。
一方で、小池美波、彼女が楽曲の中央で踊るとき、それは楽曲に生まれつき具わった世界観を毀損する踊りではあるけれど、そこに平手友梨奈はもう居ない。そこに漂うのは、小池美波というアイドルの成り立ちへの示唆であり、アイドルを演じる少女に向けて発した作詞家・秋元康の啓蒙に対する個人的な解釈である。とくに『二人セゾン』に置かれた詩情に対する彼女の解釈には舌を巻くものがある。「折々の色が四季を作る」、この科白へ直接反応することで、平手友梨奈の欠落を埋めると同時に、まったくあたらしい景色を描き、グループアイドルの連なりへの屈託や感興を鮮明に表現してみせたのだから、小池美波、この人はライブパフォーマンスの分野においてシーンのピラミッド構造のもっとも狭い場所に与するアイドルと評価すべきだろう。
彼女が描いた『二人セゾン』には、平手友梨奈によって語られなかった物語が記され、楽曲の内にあたらしい”イロ”が塗られている。新鮮な批評空間がたしかに広がっている。*2

昨日まで沈黙を良しとした集団が、ある日、岐路に立たされ、奮起し、観者に夢を与えようと笑いはじめたとき、当然、観客は違和感を覚えるはずだ。だがそのなかにあって小池美波が笑うことは、不都合とはみなされない。それは、彼女が常にステージの上で自身の日常のかけらをちりばめてきた功績、アイドルとしてのたしかなストーリー展開があるからだ。
彼女への期待、憧憬を述べるのならば、あるいは、あえて物足りない点を挙げるのならば、それは、主人公に選ばれ、舞台の中央で踊る人間特有の恍惚感を一度もみないことへの不満だろうか。平手友梨奈という圧倒的な主人公=青春の喪失を体験したアイドルから致命的に欠落した資質こそ、あらゆる称賛に抱きしめられたいと渇望する人間だけが映し出す、虚栄心の皮膜を貫く俗悪さである。この俗悪さを期待できるアイドルとして、境遇の観点においては森田ひかるの名がまず挙げられるが、才能の観点においては、やはり、小池美波を挙げたい。

 

総合評価 71点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 14点 ライブ表現 16点

演劇表現 13点 バラエティ 13点

情動感染 15点

欅坂46 活動期間 2015年~

引用:*1 高橋義孝 / 人と作品
*2,見出し1 秋元康 / 二人セゾン

 

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