横山由依 × 塩野七生

「パクス・ロマーナ」
横山由依の演じる「アイドル」を読むとき、総監督就任”以前”と”以後”、この隔てられたふたつの日常を手繰り寄せる必要がある。総監督就任以前の「横山由依」の物語で鮮明なイメイジをあたえたのは、『マジすか学園2』で演じた「おたべ」のソリッドな姿形。「おたべ」初登場時の鮮烈さには、前田敦子にきわめて近しい人物と錯覚させる類推的な主人公感があった。澄んだ純潔性をそなえ、ウィットに富んだ鋭利なキャラクターが活写されることにより、王道から逸れて行くといった背反性には、「おたべ」を演じる横山由依本人に「役」を重ねさせるちからがあり、そこには、あたらしい時代の、あたらしい物語の胎動の到来=ジンテーゼという期待感をたしかに生んでいた。たとえ腑に落とした「役」と横山の素顔が乖離していたとしても、仮構世界での呼吸方法がアイドルを演じる日常に影を落とすのは自然な成り行きである。それが彼女にとって(ドラマでの)”はじめて”の演技であったのだから、やはり仮構の内で語られ描かれた偶像への期待感は、グループのファンにとって格別なものへと膨らんだ、と云えるだろう。また、ペンキで殴り書きされた赤や黒の文字を背景にこの横山由依の横顔が映し出された瞬間とは、演劇というものが彼女のアイデンティティに成りかけた「1日」でもあったはずだ。川栄李奈との交錯においても、横山の演劇表現力のたかさが川栄李奈の閉鎖的な視野を拡げることに成功する。
グループアイドルが作るコンテンツ、その魅力の一つにアイドル間で描かれる稚気がある。夢と理想で結ばれた絆が描出するアイドルたちのじゃれ合いに、日常の濃やかさを教えるアイドルの笑顔にファンは希求されるのである。横山由依の場合、自身の日常の濃やかさを描く際に隣に立つ、つがいとなったアイドルが川栄李奈であった。もちろん、横山由依と川栄李奈の関係性とは、決して目新しいものではなかったが、AKB48という筐体の底に落ちている短い群像劇を拾い集め、並べ置いたそのタイトルを眺めると、横山と川栄の日常風景には成熟度の高い短編小説のような響きを放っているのは間違いない。レッスン場で交わす冗談話の交換、寄り添い、笑い転げる光景は清澄で、明徴な空間であった。だが、川栄李奈とのエピソードを追憶し繙くほど、横山由依が後日みせる、総監督としての立ち居振る舞い、思惑に、ファンに対する反動が覗けてしまうのはなんとも皮肉な結実と云える。川栄李奈と物語を共有し深めて行く時間、それはそのまま横山の演じるアイドルがアイドルのジャンルらしさを確立する過程でもあったが、「握手会傷害事件」が起きたことで、その悲劇によって、横山からアイドル・川栄李奈が欠落してしまった。さらには、総監督就任により、彼女は、覗き込むのを躊躇するようなのぞき穴から、外見ににじみ出る内奥だけではすまされない内部の表出をファンに否応なく目撃させることになる。ファンは「横山由依」に対し、批評という行為をとらざるをえなくなった。つまり、川栄李奈の欠落と総監督への就任、これは、アイドル・横山由依が主人公感=正統さを喪失するイベントであった、と云えるだろう。
「二代目総監督 編」
人間にとっては、ゼロから起ちあがる場合よりも、それまでは見事に機能していたシステムを変える必要に迫られた場合のほうが、よほどの難事業になる。後者の場合は、何よりもまず自己改革を迫られるからである。自己改革ほど、とくに自らの能力に自信をもつのに慣れてきた人々の自己改革ほど、むずかしいことはない。だが、これを怠ると、新時代に適応した新しいシステムの樹立は不可能になる。
塩野七生 「ローマ人の物語ⅴ」
二代目総監督の誕生は、初代総監督である高橋みなみの卒業発表と同時に告げられた。就任までの猶予期間は1年間。イデオロギーの継承期間であったのは云うまでもない。システムとは、古代ローマ人がそうであったように柔軟な「道具」として、時代を先回り迎え撃つため、ではなく、古い時代を壊す得物として日々、変えていかなければならない。そのような感覚(人間の本質)を、前にも後ろにも道がない、他人の苦悩を肩代わりする揺きのなかに置かれた高橋みなみが備えていたことは容易に想像できる。AKB48の成功要因のひとつにシステム=アイドルと”大人たち”という構図の完成とその収斂がある。システムを新しいものに塗り替えていく作業のむずかしさを高橋みなみは理解していだずだ。だからこそ、”1年間”なのだとおもう。これはあまりにも乱暴ではあるが、二人のアイドルを古代ローマの執政官にすり替えると、高橋みなみがユリウス・カエサルとなり、横山由依はアウグストゥスとなるだろうか。アウグストゥスに課せられた使命は、志半ば倒れたカエサルのやり残した計画、国家の平和を確立させるための政策の「実行」である。アウグストゥス自身が執着した事柄は、血の継承である。どちらも「グループアイドル」という概念が抱える命題に通ずるのではないか。
指導者に求められる資質は、次の五つである。知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志
塩野七生「ローマ人の物語」
これはイタリアの普通高校で使われている歴史の教科書の一文でもある。横山由依の場合はどうだろうか。求められる五つの資質のなかで彼女に備わっているのは、多少の知性と肉体上の耐久力のみではないか、とおもう。自己制御の能力が欠如していることは本人もつよく自覚している、説得力に関しては笑うしかない、お手上げ状態だ。横山由依の弱点に演説による説得力の欠如がある。彼女の科白には自身が引き起こした情動を観者に感染させる握力がまったく無いのだ。前任者の高橋みなみには、知性を除いた「説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志」の四つがグループアイドルの平均を凌ぐ水準で備わっていたと考えている。では、バランス感覚が備わった高橋に横山が勝っている資質はあるのか?と問われるならば、それは、ある。横山が高橋を凌駕する天分、それは「運の良さ」である。とにかく、彼女は飛びきりに運が良い。SKE48の第二期生オーディションの落選にはじまり、AKB48の第8期生オーディション落選、大場美奈と森杏奈の失敗、島崎遥香の減衰、そして総監督就任といったレ・ミゼラブル的な物語を読めばわかる通り、ヴァルネラビリティに対するアンチテーゼとして横山由依が屹立できたのは、強運な境遇に依る。努力が必ず報われるということを証明しようとした前総監督の無垢であろうとする姿勢も、横山の強運の前では、脆く打ち消されてしまうだろう。なによりも、高橋みなみ自身、AKBグループに所属するアイドルのなかではそれなりに強運の持ち主であった、という点は看過できないだろう。
横山由依=アウグストゥスは、「ひときわ生彩を放っていたスッラのように痛快でもなく、…圧倒的存在を誇示したカエサルのように愉快でもない」アウグストゥスが描く物語には「手に汗にぎる戦闘場面もなければ、あざやかな逆転勝利を読む快感もない。とはいえ、戦争も政治もそれを遂行する最高責任者の性格が反映しないではすまないものならば、アウグストゥスに、カエサル式のあざやかさが欠けていてもしかたがないのである。」カエサル=高橋みなみから後継者に指名されたアウグストゥス=横山由依は、「目標とするところは同じでもそれに達する手段がちがった。アウグストゥスは見たいと欲する現実しか見ない人々に、それをそのままで見せるやり方を選んだのである。ただし、彼だけは、見たくない現実までも直視することを心しながら」このアウグストゥスと横山由依の一致、とくに”見たくない現実までも直視すること”への決心は横山の、ファンに対する反動につながって行く*1。
横山由依ほど、現代アイドルの幼稚さや救う価値の無い醜態を目の当たりにし、看過せずに無関心に理解した人間は居ないだろう、とおもう。だから、彼女は、救う価値のない若者に価値を、存在理由をあたえることができた。彼女は「おたべ」をはじめて演じた日の鋭利な眼を、仲間に向けたのである。
二代目総監督の瑕疵、脇の甘さとは、身内であるメンバー側に対しての”想い”がつよすぎて、肝心のファンへの気配りが置き去りになっている点にある。内政にばかり心労し、広場に集まった眼下の群衆の存在を放置している。彼女はファンを”完全に”敵視することで(握手会傷害事件は動機の不在を否定させる)味方に自身の存在感をアッピールすることに熱心する。2017年の選挙イベントでのスピーチの際に、第一声がメンバーへの感謝であったことはその現れのひとつだろう。ファンがアイドルにイノセントな科白を向けるたびに、横山はそこで発生したファンとアイドルの対立を利用し、メンバー間の絆を深めようと画策するのである。高橋みなみによって継承されたイデオロギーは、彼女の物語は、復讐劇となってしまった。横山由依の抱えるオブセッションに川栄李奈の”悲鳴”があり、川栄李奈の「卒業」が喪失ではなく、欠落でしかなかった点は看過できない。横山由依は川栄李奈を完全にうしなってはいない。うしなっていないからこそ、復讐しなければならない。横山由依が次世代アイドル=子供たちを自身の過去の証明と扱う理由に「川栄李奈」の仇があるのは間違いない。なによりも、横山由依の後姿が滑稽に映るのは、当の子供たちから、同情こそあれ、信頼に関しては露程も勝ち得ていないという悲劇にある。二代目総監督の失敗とは、次世代アイドルをグループの過去の証でもなく、未来の可能性としての子供でもなく、自身の存在を証明するために手を差し伸べてしまったことだろう。いかなる事業も、それに参加する全員が、志はそれぞれちがったとしても、いずれも自分にとって利益になると納得しないかぎり成功は掴めない。成功を永続させることもできない。死ぬと分かっている戦場で兵士の士気をたかめるのはむずかしい。指揮官が勝利と生命を約束し、はじめて兵士の士気は高揚する。横山はグループの群像劇への道を、次世代アイドルたちに約束というかたちで示すことをしなかった。彼女たちが”見たいと欲する現実”を好きなだけ眺めさせてやった。結果、グループのイデオロギーと隔てられ、未来の可能性すらも否定された少女たちは浮遊感を抱きながら、個性を求めて彷徨い歩くことになった。もちろん、その浮遊はグループ全体の揺きの中にあっては河下り程度のちいさな漂流である。しかし、その河が広大な海へとつながっているのも、避けられない事実である。
「結局、才能以上のものを書くことはできない」 これは「六十年以上にわたって小説を書き続け、常に文壇の主要作家であり続けた正宗白鳥が、死を迎えて最後に云い残した言葉」である。高橋みなみの後を継いだ”天才でない人物”が、どうやって、先人が到達できなかった目標に達するのか、という問い、見処への期待は消失しつつある。物語は未完で終わるだろう。アイドルとしての”死”(卒業発表)が訪れる前に次期総監督に向井地美音の名が告げられたのは、死去という出来事を通過しないでひとつの時代(平成)が終わることにかさなる。横山は、皇帝として、長寿をまっとうし、はじめてベッドの上で眠りについたアウグストゥスに、やはり、かさなる*2。
2019/08/13 楠木
引用:*1 塩野七生 「ローマ人の物語Ⅵ」
*2 福田和也「ろくでなしの歌」