「アイドルの値打ち」の使い方 演劇表現力 編

座談会

「アイドルの可能性を考える 第十五回 「アイドルの値打ち」の使い方 演劇表現力 編」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

前回の、ビジュアルの見方、に続き、今回は、演劇表現力の見方。

「筒井あやめ出演の『真相は耳の中』を観た感想」

無意識は「他者の語らい」として規定される。事実、自己が語ることがらは、物語化されており、したがってナルシシズムに侵されてしまっているから、信用できるのは他者からくる言葉だけである。ところが、他者から来る言葉だけを吐いている人間は、どう見られるだろうか?自己責任の取れない人、ということになる。どちらにしても自分らしさというものは期待できない。だから、人格というものがあるとすれば、それは、他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合として定義されることになる。人格とは、その組み合わせ具合の、その人ごとに最も安定したあり方、ということになる。

新宮一成/精神分析の21世紀

楠木:『真相は耳の中』、おもしろいですよ。しっかりと編集してる。構想が脱臼してないってだけでも安心して見れる。筒井あやめの演技もかなり良いですね。表情に大げさなところがまだまだ残っているものの、役者の日常、筒井あやめの場合はどうしても「アイドルを演じる少女」というところにつながってしまいますけど、役を演じている人間のキャラクターのようなものが見え隠れしていて、役に違和がほとんどない。ドラマを観たアイドルファンが筒井あやめというアイドルを知っていくような、「錯覚」がちゃんとある。
OLE:メインキャストだから当たり前だけど、それにしても「アイドル」にすごく配慮した構成だよね。エンディングのシーンとか。
横森:本人にすれば、役の内に「アイドル」が出ちゃってるって言われたら、やっぱり嫌なんだろうな。
楠木:結局これも「言葉」への問いかけになるんだろうけど、保坂和志の言う、私の言葉は他者の語らい、という考え方を演劇にも引用できるとおもう。自分が持っている言葉は、突き詰めてしまえば、それは以前誰かが自分の目の前で発した言葉、あるいは誰かが書いた言葉、であって、自分の言葉、というものは誰も持っていない。覚えた言葉読んだ言葉が、人それぞれある段階を過ぎれば、自分の言葉になった、と思い込んでいる、というか、そうした経緯に意識をもつ人間なんてほとんどいない。
横森:まあそうでないと日常生活なんてとてもじゃないけど送れない。保坂和志はそうした類型が没個性になるんじゃなくて個性になる、なんて励ましてたけど(笑)。
楠木:この言語観なるものにさらに「批評」を引用していくんだけど、批評のなかで引用された文献を、読者が目にしたとき、ほとんどの読者はそれを無意識の内に真理として捉えてしまう。そこに疑問を投げかけることをしない。無条件で信用するわけです。まあこれも「生活」を送るための本能とおなじで、批評を作品として読むためには、いちいち引用部分に突っかかるってのは読者の本能としては矛盾しているから、引用に抵抗しないことに問題があるということを言いたいわけではない。興味深いのは、他者の語らいを引用した際に、その言葉の真偽が問われないという状況は、つまり、その引用箇所に権威性が付されている、と言える、つまりは権威性があるから引用した、ではなく、引用のほとんどが、引用者によって引用先の文章に権威性が付されている、ということになる。ここで冒頭の「私の言葉は他者の語らい」に戻すと、おもしろい倒錯に気づく。引用という行為は、自分の言葉の真理を強く高めていく結果につながる、という言葉の真理の生産に、気づく。この、保坂和志の言語観を前提にして、正確には新宮一成の言葉を引用し考える保坂和志の言葉を引用しつつ、「演技」を語るとおもしろいんじゃないか。

「大園桃子って演技も上手かったんですよ」

島:演技でよく「憑依型」なんて表現を使っていて思わず笑っちゃうけど、あり得ないし、あり得るんですね。
楠木:僕はそれを、なりきる、とやわらかく表現し包括させているけど(笑)。
OLE:そういう表現への解釈の誤解が、役をモノにする、って考えだろうな。
横森:腑に落とす、って言うよね。腑に落とす、って言っている時点で、腑に落ちてないんだ。
楠木:台本を頂戴して、そこに書かれている他者の言葉を「成長」とは別に急速に自分の言葉にしていく作業を「演技」と表現し、それを可能とする才能の持ち主を「役者」と呼ぶならば、役者の演技の内に、思わずその役者の日常を垣間見てしまうのも当然の結実と言えるし、日常のようなものが垣間見えない役者は往々にして演技に違和がある。他者の言葉が、自分のなかで無意識に「自分の言葉」になっていないからだね。そうした意味では、筒井あやめの演技っておもしろいんですよ。演技の内にアイドルの日常のようなものが見え隠れしているんだけど、そもそもアイドルファンである僕たちは「筒井あやめ」というアイドルの日常における素顔をまだよく知らない。「日常」というヒントだけでは素顔に想到できないアイドル、の代表格みたいな存在なので。で、演技のなかにアイドルの素顔のようなものがちりばめられていて、アイドルのことを知ったような心地になれるという。女優として、もうやっていけるだけの下地はあるように思う。裏を返せば、「アイドル」とのへだたりみたいなものが、もう見えてる。
横森:それは遠藤さくらも同じだよね。
楠木:遠藤さくらの場合、そもそも、「遠藤さくら」にはなにもない、という前提があって、台本に書かれた言葉を発するなかで、そこに自分と響き合うものがあって成長のかてにする、ではなくて、その役の内に自分がある、みたいな驚きのなかで成長していくような、静かな動揺がある。
横森:見守りたい感」にもちゃんと理由があるんだな(笑)。

OLE:比べるなら、大園桃子だろうなあ。カメラの前でも絶対にウソをつかない、演技しないことが「演技」になっているから、完全に他者の言葉を自分の言葉にしてる。
楠木:嘘を作らない、つまり、常にそこにしかあらわれていない、から、天才なんですね、やっぱり。
島:それが本当なら、役者としての苦悩というか、努力の一切を置き去りにしていますね(笑)。
OLE:そういう苦悩みたいなものに逆行していく前に卒業しちゃったからな。演じることの苦悩と闘って技を磨いているのが久保史緒里だろうな。

「天才と対峙することになった久保史緒里、山下美月の妙」

楠木:久保史緒里の演技のおもしろさ、あるいは、瑕疵、って、まずアイドルがあってその次に役=演技つまり表現がある点ですね。久保史緒里を眺めるアイドルファンのほとんどが、その演技を眺め、久保史緒里がどう演技しているのか、どんな表情を描いているのか、舞台の上でその才能をどれだけ証しているのか、というところに注意を打ち込んでいる。久保史緒里によって演じられた、作られた役=登場人物が物語のなかでどのように動いたのか、これはほとんど関心がもたれない。普通、普通という言葉はあまり使いたくないんだけど、普通、役者をみるとき、まず目の前に表現があって、それよりも、もっと奥の方、もっともっとあとになって「役者」を発見するんだけど、久保史緒里、というよりも、アイドルの多くは、そうではない。
横森:筒井あやめの『真相は耳の中』を観て、筒井あやめの演技がどうか、って詰めていく行為も、それとまったくおなじだよね。筒井あやめが演じた役がどういう興奮をこっちに与えたのか、与えられなかったのか、関心がない。アイドル本人にしてみれば、ガッカリ、落胆。

OLE:まあ、そのとおりだけど、アイドルの値打ちってのを問う以上は、アイドルとしてどうなのか、という視点は持たないとダメでしょう。
楠木:ドラマ=物語への感想を語ろうと思えば語れるんだよ。刑事としてうだつが上がらない、勘の鈍い主人公をIQの高い娘が支える、という構図を用意したにしては、2話から3話目にかけてすでに、自分を手助けしていた存在が娘だと主人公の刑事はあっさりと勘づく、気の所為で済まさずに娘の正体を知る、っていう、ミステリーの設定を破綻させるスピード感をみるに、娘のIQの高さは結局父親ゆずりだという、父と娘の物語っていうのを強く打ち出したいんだろうな、とか。
島:そもそもアイドルの側も、物語がどうだったかよりも、自分の演技がどうだったか、気にしているんじゃないんですか。僕はそういうアイドルこそ凡庸だと考えますけど。久保史緒里はそういうところからもう抜け出ているように見えます。あくまでも雰囲気ですが(笑)。
OLE:いや、ほかのどんなアイドルよりも自分への評価を気にしているでしょ。じゃなきゃこうも育たない。

楠木:アイドルと演技、という視点のなかで語らうならば、久保史緒里は一頭抜くことになる。久保史緒里は、アイドルと成長、という凝り固まった感慨を打ち破ろうともだえているけどれど、乃木坂である限り、彼女は舞台の上ではどうやっても「アイドル」なんですね。それはきっと生田絵梨花も変わらない。彼女たちが”乃木坂らしいアイドル”と呼ばれるのも、避けられない成り行きなんですね。
横森:その「アイドルとしてどうなのか」って、要するに、凡人としてどこまでやれるのか、っていう可能性への問いだよね(笑)。
OLE:まあ、そうだね。
島:山下美月はどうですか。やっぱり凡庸ですか。
楠木:演技力は凡庸だろうけど、演技への解釈の深さには目をみはるものがあるんじゃないかな。
OLE:『僕は僕を好きになる』を見るに、ドラマツルギーの巧者だよね。
横森:演技は古臭いんだけど、ドラマツルギーの実践というか、演じ分けの強制の苦しさをユーモアに変えて、しかもこっちにわかるかたちで示してる。凡庸ではないよ、山下美月は。
楠木:ドラマツルギー、これは日常における役の演じ分け、という解釈が一般的なんだとおもう。家族の前と友人恋人の前では性格・キャラが違う、アイドルで言えば先輩と後輩では当然接し方が異なる、そうした日常の演技をドラマツルギーと呼ぶんだけど、もうすこし考えを進めると、なぜそうした演じ分けをするのかというと、要するに自分がそこに存在する理由を満たそうとしているわけです。それをドラマツルギーと言う。説明するまでもなく、そうした「演技」と脚本に書かれた役を演じることの「演技」はまったく性質を異にする。では、アイドルを演じる、と書くとき、どちらの演技を指すのだろうか。答えは、どちらでもありえる、になるんだけど、山下美月の場合、脚本に書かれた役を演じるようにアイドルを演じてきましたよね、きっと。でも普通、そうした紋切り型の思考では行き詰まるわけです。彼女も行き詰まったはずだけど、そうしたケレン味の隘路を『僕は僕を好きになる』で逆手にとった。これはやっぱり演じることの解釈の妙を、自分自身、体験し、考え、理解しているからではないか。
OLE:こういう演技における大園桃子、久保史緒里、山下美月っていう三角形も乃木坂らしさだよね。


2022/11/15  楠木かなえ