乃木坂46 アナスターシャ 評価

乃木坂46, 楽曲

(C) アナスターシャ ミュージックビデオ

「アナスターシャ」

歌詞、楽曲について、

2期生楽曲。センターポジションに立つのは堀未央奈。
ついに空扉を開き、次の新しい世界へと旅立ってしまった一人の少女へのなごりを歌うと同時に、愛や絆に支えられた誓いすらも宿命的に裏切る、衝動の果てにたどり着く悔悟を描く。佐々木琴子というアイドルは、冠絶したかがやきを描けるはずなのに、描かない、という情況をつくりつづけ、それを眺める人間、作り手だけでなく、アイドルと物語を共有しようと心がけるファンにも、この情況を招いたのは自分の所為だ、と思いつめさせる、ときには少女特有の我儘とも誤解される、アイドルの本物の誇り、つまり純潔の証を持つ。やろうとおもえばできる。でもやらない。いや、本当はやろうとおもってもできなかったのかもしれない。この覚醒への致命的な誤解と倒錯を含む、膨大な可能性を握りしめたまま立ち止まって見える佐々木琴子をまえにすると、作り手とファンは、アイドルを責めるのではなく、彼女を本来あるべき場所へと衝き動かすきっかけを作れなかった自分を責めてしまう。「君」を人生の物語の主役に置く勇気が持てなかった自己を、空扉を開こうとする「君」を止めることができなかった自己を咎めてしまう。だから、「ごめんアナスターシャ」とつぶやくことしか「僕」にはできないのだろう。

ミュージックビデオについて、

作り手のアイドルへの思い入れが強すぎるのか、先走った情熱と私情がアイドルファンへの過剰な配慮を生むのか、アイドルとそのファンに寄り添いすぎている。グループアイドル特有の系譜、連なりへの誤解がある。「君の名は希望」、「何度目の青空か?」の2作品の系譜に立つ「夜明けまで強がらなくてもいい 」のような過去との連なりへの発見による感興が一切降ってこないのは、ミュージックビデオが作曲家と作詞家によって構築された架空の世界とまったく響きあっておらず、映像作家・伊藤衆人の「前作」からの続編にすぎないからだ。「アナスターシャ」のミュージックビデオに触れたファンは当然のように、疑問の余地なく、作品世界が「せかい の おわり は、」や「ブランコ」と並行している、と想起するはずだ。たしかに、音楽も映像も綺麗だ。郷愁をつつくようなアイドルの仕草、表情にも、季節の記憶となるような忘れがたいものがある。だが、流れる「音楽」は主体と一度も交わることなく、背景の役割しかあたえられておらず、「アナスターシャ」でも「ブランコ」でも、あるいは「空扉」でも、提示された虚構がそれなりに成り立ってみえるのだから、このミュージックビデオは構成の段階で破綻していると評価するほかない。つまり、換言すれば、作り手にとっても、ファンにとっても、流れる「音楽」は、郷愁さえ阻まなければ、なんだって良いのだ。「アナスターシャ」を聴いて、過去を想う、のではなく、「アナスターシャ」をビデオゲームのBGMのように使用した映像を眺めて、はじめて”彼ら”は過去を想う。

作品そのものの瑕疵を問うのならば、「アナスターシャ」のミュージックビデオには偶然の一致のような奇蹟がなく、触れるのは作り手に用意された仕掛けのみである。鑑賞者は、作家の安易な想像力によって作られた、思いついたアイディアをとにかく詰め込んだだけのフィクションの内側で喜び、走りまわることしか許されていない。この点から、流行りのエンターテイメント小説のような感動しかつくらず、ながい時間の経過に耐えうる作品、つまり文学の境域には立っていない、とつよく感じる。
グループアイドルの楽曲の面白さの一つに考察があるのは間違いない。だが「アナスターシャ」においては、アイドルの描いた物語をミュージックビデオに落とし込む、という行為に対し、痛ましい勘違いが起きている。近年、本物の考察を可能にした作品を挙げるならば、それはおそらく「帰り道は遠回りしたくなる」になるだろう。「帰り道は遠回りしたくなる」において、現実と仮想を生きる2人の西野七瀬が、アイドル本人の描いた西野七瀬に錯覚できるのは、アイドル本人が描いた西野七瀬をそのまま虚構の底へ落とし込んだからではない。作家がアイドルの西野七瀬とアイドルにならなかった西野七瀬の2人を妄執によってあたらしく作り上げ、その妄執に触れたファンがミュージックビデオのなかに描かれたアイドルの西野七瀬を現実の西野七瀬本人が演じるアイドルと混同し、なおかつ、ミュージックビデオのなかで描かれたアイドルにならなかった西野七瀬の姿を、現実でアイドルを演じ、青春の犠牲を握りしめる西野七瀬、彼女の素顔だと覚ったからだ。
「アナスターシャ」はこのようなフィクションには到底到達しておらず、作り手だけではなく、ファンの想像力も試されていない。現実のアイドルの物語を直に虚構の底に置いているだけであり、写実や破壊活動が一切ないため、辿り着く答えは皆一様にしておなじものになる。あとがきに答えが書かれている安物の推理小説を読むようなもので、類型的な感想しか生まれない。たしかに、ファンが日常的に眺めるアイドルの偶像に手が加えられぬまま画面に映し出されることには、ある種の安心感の付与はある。だから考察行為自体は希求があり、ワクワクして面白いのかもしれない。だが、この面白さの提供をしようと鼻息を荒くする作家の熱量と幼児性こそ、作曲家や作詞家の構築した世界との響きあいを遠ざける瑕疵である。この楽曲、この歌詞でなくても、結局は今回のタイミングでおなじような映像を作ったのだろうし、その企みが透けて見え、きわめて浅薄だ。それは作り手としての資質、矜持の不在を確信させるのに文句ない動機となり、かつ、シーンに対する致命的な裏切りにさえおもえる。要は、作品が両足で立っていないのだ。もちろん、アイドルを演じる少女たちは成長をしているのだろう。しかし作り手が提示する架空の世界、あるいは作り手の脳内に広がる「せかいのおわり」においては、この少女たちは「ドラゴンを倒す力もある」と声高らかに叫んだあの日から一歩も前に進んでおらず、「せかいのおわり」であいも変わらず胎動だけを描いている。「せかいのおわり」でなにかがおわったことや夢が破れた事実を、あるいはそれらを凌ぐかけがえのない宝物を少女たちが手に入れるといった過去の出来事を動機に生きる登場人物を描写するばかりで、現在を切り拓こうとする、楽曲や詩的世界に置かれたであろう命題、「アナスターシャ」という言葉の持つ意味に込められた覚醒へのフィクションを構築していない。つまり、これまでに提示した作品とはまったく異なるアイドルの相貌を描けていない。「せかい の おわり は、」や「ブランコ」など、作り手の私情の発露がアイドルとの身近さを露出し、提示されたアイディアが少女たちに驚くほど素直に浸透して行く…、それを眺めるファンはどこか嫉妬を抱き、情動を引き起こすといった現象を「アナスターシャ」からは受け取らない。とくに、唐突に聖書を引用する痛々しさ、「バーラル」を反動や勇気、つまり不遇や不屈に当てこするという無知と無垢をさらす作家の滑稽さや、演者に強い演技要求をせず、むしろ日常をなんとか引き出そうとする、倒錯にも似た徒労を投げつけている点は看過できないあやまちに映る。唯一、堀未央奈だけがそれらの馴れ合いを拒絶するように、温かい環境に拘泥することなく、しっかりと演劇を作っており、かろうじて救われた気持ちになる。

もっとも深刻に感じるのは、きっと、このような幼稚な作品こそアイドルファンに手放しで賛美されるのだろうという「蓋然」である。光りのさきに消えた、あるいは消えようとするアイドルと現在を生き抜こうとするアイドルとの境界線を不分明にし、アイドルの過去を「現在」の寄す処にしようとする、ノスタルジーに浸る行為への、おなじ場所をぐるぐると移動をするだけで成長を一切描いていない作品をまえにして成長を確信するといった構図がやすやすと成り立つことへの「蓋然」である。「Sing Out!」以降、成熟の兆しを描きつづける表題曲のミュージックビデオ群と比較した際に、それはあまりにも幼稚な歓呼に映る。幼稚なファンを映す鏡に幼児性を抱えた作り手があり、”彼”が稚拙な物語を上梓する原動力に幼稚なファンが居る、といった構図になにがしかの、たとえば、現代人のフィクションに対する想像力の欠如へのメタファが置かれている、と楽観的に読むのならば、聴く価値がある一枚、と云えるのだが。

 

総合評価 57点

聴く価値がある作品

(評価内訳)

楽曲 14点 歌詞 15点

ボーカル 10点 ライブ・映像 7点

情動感染 11点

歌唱メンバー:北野日奈子、鈴木絢音、渡辺みり愛、山崎伶奈、伊藤純奈、佐々木琴子、寺田蘭世、新内眞衣、堀未央奈

作詞:秋元康 作曲:中村泰輔 編曲:中村泰輔

 

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